10. 予感
《聖道暦1112年3月13日》
エステル達は、途方に暮れていた。
というのも、国境沿いの町に向かう途中であの馬車がついに壊れてしまったからだ。
少し前に走っていた起伏の多い道で、気付かずに大きな石を踏んでしまったことが原因らしい。しばらくはガタガタ言いながらも走っていたのだが、途中で車輪が完全に破損してしまい、二人は何も無いその場所で立ち往生を余儀なくされた。
「はあ…エステルちゃん、節約し過ぎ!もうちょっと良い馬車は無かったかな?あーあ、寝ながらリリム王国に入る予定だったのに…」
ブツクサ文句を言うラトに冷たい視線を送ると、エステルは作業をしている手を止めた。
「あのですねラトさん。いくら護衛の報酬が低いからって怠けすぎでは?一緒に旅をしているんですから、困っている時くらいもう少し協力してくれても…」
腰に手を当て低い声でそう告げると、ラトは壊れて傾いている馬車の上で寝そべっている顔を少しだけ上げ、「何で俺が?」と言うように鼻で笑う。そして再び目を瞑ると頭の後ろに腕を回し、スウスウと寝息を立て始めた。
本当に感じが悪い!と憤慨しながらエステルは作業に戻る。そこからしばらくの間、馬車用のハーネスの外し方がわからず苦戦していると、唐突に横から伸びてきた手に驚き飛び退いた。
「わっ、何ですか突然!?」
「ほら、俺がやるからどいて。」
「…はい。」
冷たいのか面倒見がいいのかわからないこの男に、エステルはこの数日で言葉にならない複雑な気持ちを抱え始めていた。
その後、壊れた馬車はエステルが通行の邪魔にならない位置にせっせと移動させておいたのだが、そのせいで実はかなりの力持ちであることがラトにばれてしまった。そして彼がそれを見て若干引き気味の表情を見せたことで、エステルの胸はチリっとした小さな痛みを感じていた。
エステルに『特殊能力』は無い。だが以前から結構な怪力の持ち主ではあった。
貴族令嬢として過ごしていた時はもちろんのこと、カイザーに剣術を教えてもらっている時ですら、通常は短剣を使っていたこともあって周囲の男性達にそれを勘付かれたことはなかった。ただ師匠であるカイザーには「大剣は滅多なことでは使うな」ときつく言われており、その力の強さは密かなお墨付きとなっていた。
(はあ、いつかは知られてしまうことだったかもしれないけれど、ラトさんにあんな顔をされたら、さすがにちょっと傷付くな…)
若干やさぐれた気持ちで壊れた馬車から荷物を運び出していると、ラトが後ろから手を伸ばし、エステルの荷物をさっと取り上げた。
「これは俺がやるから。」
「…力持ちの私なら自分で全部できますけど。」
「ぷっ、何だ、そんなことで拗ねてたのか?」
ラトは膨れっ面になったエステルに優しく微笑みかけて言った。
「それもひっくるめてエステルちゃんなんだから、むしろ誇りに思った方がいい。ああ、ちなみにさっきの俺はただびっくりしただけで、あの顔に深い意味はないからな?」
そうして彼は素早く荷物を馬に括り付けると、エステルに再び手を伸ばした。
「乗って。」
「でも…」
乗馬が得意ではないエステルは少し悩んだが、このままでは日も暮れてしまうと言われ、仕方なくラトの手を取った。
先にエステルが馬に乗り、その後ろからラトが跨る。意図しない形で密着することになった状況をエステルはあまり気にしていないようだったが、ラトは少し戸惑っていた。
「あー、まあ、じゃあとりあえずリリムまではこれで行きますかねえ。」
「はあ。ほんと、ケチったりしなければよかった!」
「だねえ。やっぱり馬車は」
「護衛のことです!」
「酷いっ、エステルちゃん!?」
「…」
そんなやりとりができるほどには打ち解けたような気もするが、実際にはラトは何一つ本音を見せていないのだろうな、とエステルは感じている。
(別にそれでいい。帝国に行くまでの連れでしかないんだから)
心の中でそんなことをわざわざ自分に言い聞かせていることの不自然さに、この時のエステルは全く気が付いてはいなかった。
― ― ―
ラトはアンセラの町を出てからの二日間、ふとした時に、あの日夕日の中で見たエステルの顔を、何度も何度も思い出していた。
緊張や自分への不信感からずっと強張っていた彼女の表情が、あの瞬間とても柔らかく、自然なものに変わった。それにあの長くふわっとカールしたまつ毛とふっくらした頬や唇…
(唇!?俺はいったい何を考えてるんだ?しっかりしろ!今年でいくつになったと思ってるんだ!?)
お気楽で怠惰な男を演じてはいるが、本当の彼は真面目で自制的で、特殊能力以外の力も誰よりも努力して習得してきたという自負があった。当然、剣術も体術も仕事上の根回しも、玄人として誰にも引けは取らないだけの実力の持ち主でもあった。
そんな彼だからこそ、能力が無くても投げやりになったりせず、何事にも一生懸命に取り組んできたであろう彼女の姿に、ラトは心を動かされ始めていた。
いや、能力が無いと言うのはおかしい。呪いによる能力がなくとも、彼女には自分の力で身につけた知識や力が十分にある。あの馬鹿力は親から受け継いだものかもしれないが。
だからこそ馬車から馬を外すのに手間取っているエステルを見て、ラトは無性に手助けをしたくなった。
(ダメだ、放っておけない)
気がついた時には壊れた馬車を降り、彼女の手に自分の手を伸ばしていた。触れたかったわけじゃない。そうじゃないが…
あの柔らかな表情をもう一度見たいと願ってしまうのは、なぜなのか。
今彼女を後ろから抱えるようなこの体勢で、落ち着かない気持ちになるのはどうしてなのか。
答えを出すことから逃げたラトは、この柔らかな女性と馬に二人乗りをすることになった現実を少しだけ恨めしく思いながら、手綱をしっかりと握りしめて前へと進んでいった。
― ― ―
しばらく馬を走らせていると、背の高い木々が他よりも密集して生えている大きな森に行き着いた。
道幅はだいぶ狭くなり、森の中を何度もカーブしている様子が見える。ただそれより先は暗くなっていてほとんど見えないため、エステルの心に微かな不安が過ぎる。
その時ふと、ここがこの街道の中の有名な難所の一つではないか、と思い至る。
「ラトさん、もしかしてここって『迷いの森』ですか?」
エステルが少しだけ後ろに顔を向けて尋ねると、ラトの体がビクッと揺れたような気がした。
「え?ああ、そう、そうだな。ここを抜ける時は明るい時間帯に限る。道は一本しかないはずなのに、なぜか横道があるような気がして森の深いところに入っていく者が後を絶たないんだ。」
そこでラトはポケットに入れていた懐中時計を取り出して言った。
「あと一時間ほどで日も暮れる。俺は慣れてるけどそれでもこの森の夜は危ないな。今夜はこの辺りで休んで、明日の朝早く抜けるか。」
冷静な方のラトさんだ、と思いながら、エステルは黙って頷いた。ラトの方は彼女の素直な反応を不思議に思いつつも特にそれには触れず、そのまま少しだけ馬を先に進めると、平らな場所にテントを建て始めた。
その日の夜、エステルは珍しく夢を見た。
それはとても気持ちの良い夢で、柔らかな日差しがいく筋も差しこむ森の中をゆっくりと散策していく、というものだった。
その森の中でエステルは、二つの長い耳とそれを上回る長さのふさふさとした尻尾が印象的な、不思議な生き物と出会った。
毛足の長い真っ白な毛を持つどこかウサギにも似たその生き物は、青く輝く丸い目で優しくエステルを見つめてくる。そしてその動きはウサギなど比べ物にならないほど俊敏で、どれだけ素早く目で追っても簡単に見失ってしまう。
それでもしばらくは追いかけっこを楽しんでいたのだが、いつの間にかその生き物は森の木々に紛れて居なくなってしまった。
エステルはどうしてももう一度会いたくなって辺りを探してみたが見つからない。そのうちに何度も自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして振りかえると、ふっと目の前が暗くなり、そこで目が覚めた。
「エステルちゃん、おーい、エステル?うなされてたけど大丈夫か?もしかしてペカロの夢でも見た?」
寝ぼけ眼で見上げたそこには、小さなガラスに入った蝋燭ランタンを手に持つラトの心配そうな顔があった。いや、あったのはいいが近過ぎないだろうか?もう目と鼻の先にラトの青緑色の目が…
「ひやああああっ!?」
「ゲフっ!?」
エステルは思わず彼の胸の辺りを両手で突き飛ばしてしまい、不意打ちを食らったラトは咳込みながらよろめいた。
「いだい…」
「ご、ごめんなさい!!顔が近かったからびっくりしちゃって!」
エステルが飛び起きてラトに近寄ると、テント内の床に座り込むラトは大丈夫と言うように右手を大きく振った。そして辛うじて無事だったランタンを下におろすと、彼はふざけた調子で話し始めた。
「…はあ、苦しかった。エステルちゃんたらもう!おじさん年だし君は力持ちなんだから、もっと優しくして。」
「本当に、ごめんなさい…」
ラトは消え入りそうな声で謝るエステルを見て苦笑すると、その手を引っ張って自分の横に座らせた。
「大丈夫だからもう気にすんな。それより見たんだな、ウサギみたいな耳のあいつの夢。」
元気を取り戻したエステルがうんうんと頷くと、ふむとラトが考え込む。どういうことかと尋ねると、彼は腕を組んで説明し始める。
この森には希少な動物達が何種類か生息しているのだが、その中でも最も特殊で、ごく僅かしか見つかっていない生物がいる。それこそがエステルが夢で見たあのペカロという、ウサギによく似た生き物なのだそうだ。
その夢を見た者はペカロと森で会えることが多いようで、出会えた者はその後不思議な贈り物が手に入ったり、人生の大きな転機や出会いが訪れるたりする、などと言われているらしい。
へえ!と楽しそうに微笑むと、ラトは少しだけ顔を曇らせてエステルを見つめた。
「決していいことばかりとは限らないぞ。この森では絶対に油断、するなよ?」
あんなにやる気のなかった護衛が、自分のことをそんなに心配してくれるようになったのか、と嬉しくなったエステルは、ついクスクスと笑ってしまう。
その様子を見たラトは呆れたようにため息をつくと、全く危機感のないお嬢さんだ、などと言いながら蝋燭の火を吹き消し、自分の寝袋に潜りこんだ。
「まあ、心配はいらない。…俺が傍にいるからな。」
「…え?」
「ほら、明日は朝から忙しいんだから、早く寝なさい。」
そんな風にエステルを諭すラトの表情は、この暗いテントの中では全く見ることができなかった。だがエステルはむしろほっとしていた。
なぜなら、赤くなっているであろう今の自分の顔もまた、ラトに見られずに済んだのだから。
(あんな台詞をサラッと当たり前のように言うなんて…ほんと、ラトさんって読めない人だわ!)
恥ずかしさを打ち消すように「はーい」と小さく返事をすると、エステルはもそもそと寝袋に戻り、数分もしないうちに深い眠りの世界へと落ちていった。