108. 記憶を辿る旅へ
《聖道暦1112年10月1日》
「準備、できたか?」
「はい。あ、そうだ忘れ物!」
エステルはずっと机に飾っておいた二つの石を手に取ると、丁寧に布で包んで鞄にしまいこんだ。その石に見覚えがあったラトは、ふと気になって問いかけた。
「その石って、もしかして…」
鞄をじっと見つめているラトを不思議そうに見つめてから、エステルは「ああ!」と小さく声を上げた。
「これはドゥビルという町で買った石なんです。白い方はイーファ、黒っぽい方はトール…って、そうだわ!イーファって、私の名前と同じだったのね!」
ラトは鞄から再び取り出された二つの石のうち、黒い方を手に取って言った。
「こっちは俺の名前が入ってる。そうか、あの時の石にそんな縁があったんだな。」
「何だか不思議ですね…」
彼はエステルの手の上の布に石をそっと戻すと、微笑みながら出発を促した。
「さて、そろそろ行くか!」
「はい、よろしくお願いします。」
「…こういうの、懐かしいな。」
おそらくラトは、二人が帝都に向かって旅を始めた時のことを思い出しているのだろう。エステルの記憶には、様々な事件が起きたことははっきりと残されているが、彼と過ごした時間や関わった時のやり取りなどは何一つ存在していない。
「そう、なんですね。」
エステルが戸惑いがちにそう答えると、彼は焦ったように手を振って言った。
「ああ、ごめん!焦らせるつもりじゃないんだ。ただ、こうして二人でまた旅ができるのが嬉しかっただけなんだ。」
「…はい。」
「……」
多少の気まずさは感じつつも、心はつい浮き立ってしまう。思い出は何一つ残っていないのに、心のどこかでこの人といると嬉しいと感じてしまう。
だがエステルは彼にこれ以上気を遣わせたくないと、大きな荷物を手に急いで部屋を出た。
階下に降りて玄関ホールに出ると、執事のレイクを横に控えさせたメルナが笑顔で待っていた。
「エステリーナ、忘れ物はない?」
「ええ。長い間滞在させてくれて本当にありがとう。いつかまた機会があれば遊びに来るわね。」
「何を言っているの!私がマテウスにお願いして、私がそちらに週一回は伺うわ!」
「もう、メルナったら!」
メルナはあの恐怖の一日の後、マテウスと本格的に婚姻の準備を始めたらしい。以前より二人の仲は深まり、傍から見ていても互いを愛し、思いやっていることがよくわかるほどだった。
「エステリーナ、こちらこそありがとう。あなたとラトさんが来なければ、帝国は今頃異界の穴の中に消え去っていたかもしれないわ。でもそのせいであなたには辛い思いをたくさんさせてしまって、本当にごめんなさい。」
項垂れるメルナの肩を強めに叩くと、エステルはにっこりと笑って言った。
「ほら!メルナはもっと胸を張って、いつでも余裕の笑みを見せていてよ!私は私ができることを…ううん、したいことをしただけ。私の方こそメルナにはたくさん助けてもらったわ!だからお互い様だし、これからもずっと親友だから、ね?」
「ええ…そうね。」
二人が笑顔で抱き合っていると、別れの時を察知したレイクからとあるものを手渡された。それは高級そうな革の袋に入った、ずっしりと重い何かだった。
「エステリーナ様、どうぞこちらをお持ちください。」
「ええと、これは?」
レイクが恭しく頭を下げて後ろにさがると、メルナがそれを引き継いで説明する。
「本当は伝えないでいようかと思ったのだけれど、やはり彼のためにきちんとお伝えしておくわ。それはね、ヘレナムア皇帝陛下から二人への、今回の貢献に対する褒賞金よ。きちんと中は二つに分けてあるし、きっとあなた達の旅の助けになると思うわ。」
エステルは驚いて中身を確認すると、二つの布の袋それぞれに大量の金貨が入っていた。
「こ、これ……こんなに!?旅の助けになるどころではないわ!こんなに頂けないわよ!?」
エステルが思わず突き返そうとすると、メルナは手で遮り、頬を膨らませて言った。
「受け取ってくれないなら送り出すわけにはいかないわ!ベルハウス家もヘレナムア家も、こんなに帝国のために尽くしてくれた人を蔑ろにしたと知られたら、後ろ指をさされてしまうかもしれないのよ?」
そう言われてしまうと断るに断れない。エステルはしばらく考え込んでいたが、後ろからラトがあっさりとその袋を奪っていった。
「はいはい、遠慮の時間はもう終わり。お互いのために貰っておこう。ほら、いつか俺達の新居をこれで…」
冗談めかして袋を掲げて拝むラトに、二人はつい噴き出してしまう。
「ふふっ、何ですかそれ?」
「あらあら、気が早いわねえ!…でも、いつか二人がそうなることを心から祈っているわ。」
「メルナ…」
こうして旅の準備と別れを済ませた二人は、メルナの屋敷を後にした。
長く続く庭を抜け門の外に出ると、そこには例の馬車を準備して待つアランタリアの姿があった。
「アラン!」
エステルが笑顔を弾けさせてアランタリアに駆け寄ると、ラトは小さなため息をついてその後を追う。
「エステル、準備はできたみたいだね。今日はお別れを言いにきただけじゃないんだ。あなたに、ぜひこの馬車を贈りたくてね。」
「贈るって……え?私に譲ってくれるということ?」
驚きのあまり声が裏返りそうになったエステルは、口元に手を当てて呆然とする。アランタリアの優しい笑みが面白そうな表情に変わる。
「今日はエステルをどうしても驚かせたかったんだ。成功して嬉しいよ。……ラト、エステルを…俺の親友を、よろしくお願いします。必ず無事にローゼンまで送り届けてください。」
ラトは「ああ。」とだけ返事をして、エステルの荷物を奪い、さっさと馬車に乗りこんでしまった。
「相変わらずだね、あの人は。さて、じゃあこれでお別れだ。でも、きっとまた会えるよ。」
「うん。アラン、あのね、私あなたに会えて本当に良かった!」
エステルはそう言って勢いよくアランタリアに抱きつき、そしてパッと離れた。
「いつかこの馬車に乗って戻ってくるわ。必ず、みんなに会うために!」
真っ赤な顔でエステルを呆然と見送るアランタリアに手を振って、エステルは馭者台に乗り込み、ゆっくりと馬車を出発させた。
今回の旅はローゼンへと帰る旅。
これからのことなど何一つ決まってはいない。だが心配しているであろうヒューイットに会って、きちんとこれまでのことを報告したかった。だからこそエステルは帝都を離れる決断をした。
そして数日前、町の復興を手伝っていたラトに再会し、エステル自らお願いをして、ローゼンまでの護衛として再び彼と契約を結ぶことになった。
「マテウスにローゼンまで送ってもらったら?」
このことを相談した時、メルナはそう提案してくれた。しかしエステルは丁重にそれを断った。
「ううん、自分の力で帰りたいの。来た時と同じ道を通りながら、あの人との思い出をどうしても取り戻したいから。でも、気遣ってくれてありがとう。」
エステルは記憶の彼方に眠ってしまったラトの記憶を、この旅でどうしても見つけだしたいと願っていた。
「そう、わかったわ。」
彼女がそう言って寂しそうに微笑んだことを、手綱を握りながらぼんやりと思い出す。
「どうした?何か考え事か?」
隣には、笑顔のラトが座っている。
彼とは護衛を依頼して以降、一、二度旅の準備について話をした程度で、エステルには彼がどんな人なのか、まだよくわかっていなかった。
ただメルナからもアランタリアからも、そして極めつけはエマからも「二人は愛し合っていた」という話を何度も何度も聞かされていたため、こうしていざ彼の隣に座ってみると、予想していた以上に緊張してしまう。
「あ、ええと、メルナのことを思い出していて…」
「そうか。寂しいよな、大切な人と離れるのは。」
青緑色の瞳がキラキラと輝き、エステルをじっと見つめている。その視線の中に詰まっている彼の想いが伝わって来るような気がして、どうにも落ち着かない。
(この人、見れば見るほどかっこいい……こんな素敵な人と地味な私が愛し合っていたなんて、本当なのかしら?)
ドキドキと鼓動を速めていく心臓を落ち着かせるように、エステルはとにかくまっすぐ前を向いて、平坦な道をゆっくりと走らせていった。
そこからは、ラトと運転を交代しながら先へ先へと進む。
途中小さな川で馬に水を飲ませていると、川縁に座るエステルの横にラトも腰を下ろした。
夕方が近付いている。エステルが今夜は馬車で寝るのかしらなどと漠然と考えていると、ラトが言った。
「なあエステル、不安だったんじゃないか?この旅。」
エステルがラトの方を見ると、彼は川に目を向けたままそう言った。
「不安…どうかしら、あったかもしれません。でも、それ以上に私はあなたのことを知りたかったから。」
「……君はずっと俺にそう言ってくれていた。」
ラトの横顔が、夕日の逆光のため暗い影の中に沈んでいく。
「それなのに俺はいつだって君を突き放すような真似ばかりして、君を苦しめた。こんなに好きなのに、余計なことばかり考えて君の気持ちを遠ざけようとしたんだ。」
「そうだったんですね。」
何も思い出せないエステルだったが、好きな人からそんなことをされたらと思うと、少し悲しい気持ちになる。
その感情が表に出ていたのだろうか、ラトがふとエステルの頬に手を当てた。
(何だろう、頬に触れられているのに、全然嫌じゃない。むしろ……)
不思議な心地良さを感じながら彼の方に目を向けると、ラトは切なそうにエステルを見つめながら言った。
「ごめんな。俺は結局君のことを傷付けてばかりだった。君の記憶すら未だに取り戻すことができないでいる。それでも、俺は……」
頬を優しくなぞる彼の指がくすぐったくて恥ずかしくて、エステルはそっと目を伏せた。
「君と、ずっとずっと一緒にいたい。」
その気持ちにどう応えるべきか、エステルの中にはまだその答えが無い。
ゆっくりと目を上げたエステルの瞳には、夕日に透けて輝く薄茶色の髪が風に揺れる美しい瞬間がしっかりと焼き付いていた。