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107. 夜が明けて

 《聖道暦1112年9月21日》


 エステルが目を覚ました時、見慣れないその部屋には誰もいなかった。


 静けさだけがそこにあり、窓の外からは微かだが、風に揺れる木々の音が聞こえる。


 「終わったのかしら、全部…?」


 昨夜から朝方にかけて起きたことがまるで夢だったのではないかと思うほど空は晴れ渡り、ベッドから少しだけ見える外の景色はいつも通りに思える。


 ふと壁に掛けられた時計を見ると、九時を少し回ったところだった。


 (ほんの数時間前まで、この町は魔獣で溢れかえっていたはずなのに…)


 ベッドを降りて窓の外を本格的に見渡すと、実際には建物が崩れたり、道の上には何かよくわからないものが散乱していたりした。やはりあれは現実だったのだと改めて考えていた時、ドアをノックする音が聞こえ、エステルはドアに近付いた。


 「はい。」

 「エステル、俺だよ。」

 「アラン?」


 エステルは聞き慣れたその声に安堵し、ゆっくりとドアを開けた。


 「おはよう。よく眠れたかい?」


 アランタリアの表情は明るい。エステルはその表情を見て、ようやく長かった戦いが終わりを告げたことを実感する。


 「ええ。ところでここはどこなのかしら?見覚えがなくて…」


 そう言いながら部屋を見渡していると、アランタリアがその疑問に答えた。


 「ここは俺の家だよ。と言っても今は住んでいないけどね。」

 「じゃあ…」

 「そう、ここで生まれ育ったんだ。華美な装飾も柄のついた布すらほとんど無い。真面目一辺倒な、父らしい家だろう?」

 「アラン…」


 どう答えていいかわからず苦笑していると、アランタリアは朗らかに笑って言った。


 「ははは!困らせるつもりで言ったんじゃない。もう父とは多少和解もしているしね。」

 「そう。良かったわ。」


 二人の間にしばしの沈黙が訪れる。そして彼は動きだした。窓に近寄り、外を眺める。


 「魔獣達はほとんど討伐できたようだよ。メルナが疲れ切った顔でさっきそう報告してくれた。もちろんまだ安心はできないけどね。」

 「そうなのね。でも、少し落ち着いたみたいで安心したわ。」


 エステルもまたアランタリアの横に並び、外を見つめる。彼はそんなエステルに優しい笑みを見せて言った。


 「あれから、何か思い出した?」


 その問いかけは、きっとあの男性のことを言っているのだろう。エステルはゆっくりと首を横に振り、窓に背を向けた。


 「ううん、彼のことは何も。でも彼と会った時、ああ、私はこの人をよく知っているはずだったって、感じてはいた。」

 「うん。」

 「だから、もう一度会いたい。思い出せるかはわからないけれど。」


 アランタリアの腕が、エステルを後ろからそっと包み込んだ。


 「うん。そうだね。エステル、思い出せなくてもいい。彼に、会いに行ってみるかい?」


 エステルは俯いていた顔を少しだけ上げた。


 「会ってもいいのかな?」

 「もちろん。」

 「何も思い出せなくても?」

 「でも、会いたいんだろう?」

 「……うん。」

 「じゃあ、俺にエスコートさせてほしい。」


 彼はそう言うとエステルを腕から解放し、なぜか少し泣きそうな表情を浮かべて頭を撫でた。


 「俺は、これからもずっとあなたの味方で、あなたの友達だから。」

 「…うん、ありがとう。」


 二人はどちらからともなく友達らしい抱擁を交わすと、身支度を整えて外に出た。



 ― ― ―



 「おーい、こっちだこっちだ!」

 「それ、そっち側を持ち上げてくれ。」

 「ほら、パンと飲み物を持ってきたよ。ちょっと休憩しな!」


 汗を拭いながら瓦礫の片付けをしているラト達の元へ、近所に住んでいると言う女性達が差し入れを持ってやってきた。


 ラトと共に働いている男達もまたこの辺りで暮らす平民達で、皆泥だらけになりながら町を立て直そうと頑張っていた。



 勧められるままに休憩を取っていると、一人の小さな女の子が何かを持ってラトの前に現れる。


 「どうした?パン、欲しいのか?」


 ラトは黙ったままの女の子に優しい笑みを向けながら、手に持っていたパンを差し出す。だがその子は素早く首を横に振った。そして手を後ろで組み、照れたような顔でようやく口を開く。


 「あのね、諦めちゃ駄目だよって。」

 「……え?」


 突然の意味不明な発言に戸惑っていると、女の子の母親らしき女性が後ろから急いでやってくる。


 「ティナ?またそんな風に困らせるようなことを言って!」

 「ママ、でも、精霊さんが…」


 二人にとってはこれがいつものやりとりなのだろう。ラトは戸惑いつつも女の子に声をかけた。


 「君は精霊さんの声が聞こえるのかい?」


 女の子は黙って頷く。母親はやれやれという感じで女の子の横にしゃがみこみ、頭を撫でた。


 「すみません、変なことを言って…。実はこの子、ほとんど能力が無いんです。だからもしかしたら、とは思うんですけど、でもさすがに声は…」


 そう言って困った笑顔を見せる彼女に、ラトは言った。


 「そういうこともあるかもしれないですよね。…君の聞いたっていう声、もう一度聞かせてくれるかい?」


 今度は女の子に向かってそう言うと、彼女は上目遣いになり母親に抱きつくようにしながら答えた。


 「ええとね、諦めちゃ駄目って。きっと思い出せるからって、お兄さんの周りから聞こえるよ?」

 「俺の、周りから?」


 目を丸くしてそう言うと、女の子は笑って頷いた。


 「うん!聞こえて良かったって喜んでる!良かったね、お兄さん!……あれ、泣いてるの?大丈夫?」

 「……うん、大丈夫だよ。ありがとう。」


 何かを察した母親が軽く会釈をし、女の子の手を引いてラトの前から去っていく。手を振る彼女にゆっくりと手を振り返したラトは、立ち上がって空を見上げた。


 「思い出してくれる日が来るなら、俺は……」


 汗ではなく今度は頬を濡らしていた水滴を軽く手で拭うと、休憩を終えて動き始めた男達に混ざって、ラトも再び瓦礫を片付け始めた。


 昨日までの悪天候が嘘のようにその空は青く澄み切っていて、秋を感じさせる涼しい風が、せっせと働く男達の体を優しく冷やしていった。



 ― ― ―



 メルナは短い睡眠をとった後、ルークのいる執務室にやってきた。彼は昨夜から一睡もしていないはずだ。側近達もある程度事態が落ち着くまであまり休憩も取れないだろう。


 ノックをして許可を貰い、ドアを開ける。


 「来たか。どうだ、少しは休めたか?」

 「陛下、短時間でも休ませて頂きありがとうございます。」

 「…誰もいない。いつも通りに。」


 ルークは多少疲れた様子だったが、まだその笑みには余裕が見られた。


 メルナはふう、と一息つくと、少し声量を上げて言った。


 「無事、帝都に侵入した魔獣を完全に殲滅いたしました。まだ帝国内には出現報告がありますが、少人数の兵士で十分対処できる通常の出現数に落ち着いているそうです。……ようやく、終わったわね、ルーク兄様。」

 「ああ。まあ、まだまだ問題は山積しているがな。」

 「魔獣や魔人達に襲われないなら、そんな問題あなたには些細なことでしょう?」

 「馬鹿言うな。…だが、ありがたいことだ。エステルや、ラト殿にも会って感謝を伝えなければな。間違いなく今回の功労者なのだから。」


 メルナは一瞬考え、それにこう答えた。


 「ねえ、彼らのことはもう放っておいてあげたらどうかしら?」

 「ん?どういうことだ?」


 その訝しげな視線には、エステルに会うことを邪魔されたという気持ちもあるのかもしれない。眉間に皺を寄せたルークをじっと見つめていたメルナは、ふっと目を伏せて言った。


 「ラトさんはもう英雄なんて祭り上げられたくないだろうし、エステリーナにはもうこれ以上私達の事情に巻き込みたくないの。」

 「しかし…!」

 「ルーク兄様がエステリーナのことを忘れられないのはわかっているわ。だからこそ、彼女の幸せを見守っていてあげて欲しいの。私達の事情に無理やり関わらせて、散々辛い思いをさせて…挙句の果てに彼女は愛する人の記憶を失ったのよ!?」

 「メル…」


 メルナは涙を堪えて唇を噛んだ。


 「十分な褒賞を与えたいと言うなら私が彼女に渡すわ。そしてこれからはエステリーナがしたいと思う生活を、私が全力で援助する。こんなことに巻き込んだ私達ができるのは、その程度のことしかもう残されてはいないのよ……」


 ルークは自分の机を離れてメルナの近くまでやってくると、その細い体を力強く抱き締めて言った。


 「そうか。すまなかった。君達には本当に辛い思いをさせてしまったんだな。わかった、君の言う通りにしよう。」

 「……ええ。ありがとう、兄様。」


 本当の兄妹のように育ってきた彼に愛する人を諦めさせなければならないことを、メルナはずっと心苦しく感じてきた。そして今この瞬間、彼に最後通牒を突きつけてしまったのだ。


 「でも、本当にごめんなさい……」

 「いいんだ。もう心の整理はついている。君が罪悪感など持つ必要はないからな。ほら、泣くな!」

 「な、泣いてなんかいないわ!」

 「……そうか。」


 そして幼い頃のような二人に戻ったこの時を、再び平和な日々を取り戻したこの日を一生忘れないと、ルークの服に涙を押し付けるようにしながら、メルナは心に誓っていた。


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