106. 開かれたその裏で
《聖道暦1112年9月21日夜明け前》
逃げていくリリアーヌを追わないことに決めたエステルは、魔獣討伐を続ける兵士達の元にカイザーを残し、彼からの情報でメルナがいるという研究所へと向かった。ちなみにペカロは自身の役割を終えたと判断したのか、気がついた時にはもう姿を消していた。
(嫌な予感がする……何か起きてはいけないことが起こる気がしてならない。杞憂だったならそれでもいい。今はとにかくメルナと相談しないと!)
エステルはポケットの中からブローチを取り出すと、唇を寄せてそっと囁いた。
「光って、おねがい…」
ブローチはその願いに応えるようにゆっくりと明るくなり、エステルがそれを胸に付けた時にはすでに、これまでにないほど強く辺りを照らし始めていた。
その光を頼りに、エステルは暗い夜道を駆け抜けていく。今いる場所から研究所までは走っても十五分ほどかかるだろう。
だが胸に迫る嫌な予感はさらに高まり、もうあまり時間がないことを告げている気がした。
「とにかく急がなくちゃ!」
息が上がる。手が震える。
それでもエステルは目の前の精霊の光に導かれるかのように、ひたすら前へ前へと走り続けた。
そうして十分以上走ったところで、ようやく研究所の門が見えてきた。この辺りにはどうやら魔獣や魔人達は出現していないらしい。
暗い門を通り抜け、研究所前の広場を先ほどよりも速度を上げて駆け抜ける。
そして研究所のドアを勢いよく開くと、中から漏れている僅かな灯りを見つけてその部屋へと急いで向かった。
「メルナ!!」
「エステリーナ!?」
小さな部屋の中で何かを見ていたメルナは、突然現れたエステルを見て驚いていた。そこに別の場所からマテウスもやってきて目を大きく開く。
「おや、ずいぶん汚れているじゃないか!?まさか君も戦闘に参加したのか!?」
マテウスの顔が青ざめていく。メルナは彼の肩に手を置くと、エステルと向き合い真剣な顔で言った。
「私達今から城へ向かうの。とにかくまずは移動しましょう!」
荒い呼吸を繰り返すエステルの手を握ると、メルナはマテウスの顔を見ながら大きく頷いた。彼は黙って二度頷き返すと、目を瞑り、その能力を発動させた。
「着いたわ。さあ、こちらへ!」
手を握ったままのメルナに引っ張られるように、見覚えのない廊下を進んでいく。おそらくもう城の中にいるのだろう。少し離れて後ろをついてくるマテウスはこの場所に慣れているようで、迷いなく歩みを進めている。
「ここよ、入って。」
そうして長い廊下の最も奥まった場所にある部屋に入ると、最後に入ったマテウスがドアの鍵を閉めた。その金属音に弾かれたようにエステルが目を見開くと、メルナが低い声で言った。
「エステリーナ、魔獣も魔人もまだまだかなりの数が帝都内で暴れているわ。もちろん皇帝陛下の指示で、兵士達だけでなく戦える貴族達も力を貸してくれている。もちろんこれから私も戦うつもりよ。…でも、現時点ではあまり彼らの数は減っていない。」
いつもは余裕のある彼女が、珍しく焦っている。
「だからね、彼ともう一度あなたのお母様が残してくれた経典の写しを確認していたのよ。何か打開策が無いかと思って。それで……一つ見つけたものがあるの。」
なぜか言いにくそうに唇を噛むメルナを励ますように、エステルは言った。
「私にできることがあるのね。でも、それを頼みずらい?」
「はあ…あなたには敵わないわね。そうよ、とてもお願いしにくいこと。それでも、これが最後の希望なの。」
メルナがそう言うと、マテウスが小脇に抱えていた冊子をエステルに手渡した。
「これは……母の二冊目の日記の写しですよね?」
以前、読めない言語で書かれていた母の日記を、マテウスが翻訳してくれていた。あれ以来慌ただしい日々が続き、じっくりとそれを読む時間は取れていなかった。
「ああ、そうだね。実は最近この中に、特別な祈りが隠されていることに気付いてね、メルにだけは伝えていたんだ。」
「特別な祈り…ですか?」
メルナが前に出る。そして彼の言葉を引き継いで言った。
「ええ。……呪いを解く、祈りよ。」
「え!?」
それは、エステルがずっと求めてきた祈りだ。
(ずっと求めてきた……なぜ?一体誰のために?)
確かに求めてきたものだとわかるのに、それがなぜそうなのかはわからない。
困惑する気持ちが顔に出ていたのだろう。メルナはエステルの手を握りしめて続けた。
「アランから全て事情は聞いているわ。あなたがこの恐ろしい事態を招いた男に精神干渉を受けたことも、そのせいで大事な人のことを忘れてしまったことも。そして、その最悪な男の力を奪えるのも、あなたしかいない。」
エステルはバッと勢いよく顔を上げた。そこには苦しい表情を浮かべる親友の青ざめた顔があった。
「先に言うわ。こんなことを背負わせてしまう私を許して……それでもどうか、あの男の呪いを解いてほしい。」
「…わかったわ。」
あっさりとそう返事をすると、二人が同時にビクッと肩を揺らした。
「いい、の?」
「男の呪いを解くために、何かとんでもないことをする必要があるってことでしょう?もちろんいいわ。私は、私にできることをしたい。さあ、何をしたらいいの?」
メルナはマテウスと顔を見合わせると、覚悟を決めたようにため息をついてからこう言った。
「呪いを解くためには、そこに書かれている『祈り』を形にしてそれを相手に飲み込ませる必要があるらしいの。それはつまり、あの危険な男にもう一度近付かなければならない上、男に祈りを……」
メルナの目に涙が浮かぶ。
「こんなに私達を助けてもらったのに、私はあなたをまた危険な場所に追いやって、無理難題を押し付けようとしているの!こんな私があなたの親友だなんて、もう口が裂けても言えないわ!!」
「メルナ……」
マテウスが、泣きながら俯くメルナの肩を後ろからそっと抱き寄せて言った。
「メルのお願いではなく、私からのお願いということにしよう。エステリーナさん、危険は承知だし、大変な思いもさせるだろう。それでも、お願いできるかい?君の祈りであの男の能力が消え去れば、魔人達を動かしている『契約』も全て解除される。そうすれば一気に形勢逆転できるんだ。」
エステルは躊躇なく頷いた。
「やってみます。うまくいくかはわからないけれど。」
「ありがとう。恩に着るよ。」
「……ごめんなさい。」
泣きじゃくるメルナを腕の中に包み込んだマテウスに笑顔を向けると、エステルは早速祈りの言葉を口ずさみ始めた。
「でもどうやってこれを形にすればいいのかしら?」
マテウスがメルナを近くに置いてあった椅子に座らせると、ポケットの中からとあるものを取り出した。
「これを。」
「これは…飴、ですか?」
小さく可愛らしい柄の包み紙に包まれた飴が二粒、差し出したエステルの手のひらに載せられた。
「うん。私の国で溶けにくいと評判の独特な飴でね。美味しくてつい口に入れてしまうんだけど、なかなか解けないものだから結局みんなしばらくすると噛み砕いてしまうんだ。……これに君の祈りを込められるかい?」
「や、やってみます。」
そうしてエステルは手のひらの上に載せた飴に、できるだけ口元を近付けて祈りを込め始めた。
「うん、その調子。その飴をどう飲み込ませるかは悩むところだが、私とメルがうまく隙を作るよ。二人で協力すれば、一瞬なら男を動けなくすることもできる。だから、君がいけると思った時に合図をしてほしい。」
「わかりました。」
そして祈りを込め始めて数分が経った頃、突然廊下の方から慌ただしい大勢の足音が聞こえ始めた。
「何かしら?ちょっと見てくるわ!」
だいぶ本調子に戻ったメルナが、ドアの鍵を開けて外を確認する。すると少し離れた場所からメルナを呼ぶ聞き慣れた声が聞こえた。
「メルナ!大変です!例の男が城の西門に…!」
「何てこと!?すぐに行くわ!!」
メルナが顔を強張らせて部屋に戻る。そしてエステルの方を見ながらこう言った。
「準備ができたら外に出ましょう。……あなたに全てを託してしまうことを、その責任を、私は一人で背負うつもりよ。マテウスには背負わせない。」
「馬鹿ね。そんなものを背負うくらいなら、笑って見送って?」
「……エステリーナ、いざとなったら、私が前に出て盾になるわ。だから無理だと思ったら逃げて。お願い。」
「うん。」
そんな二人の様子を、壁際に立つマテウスは静かに見守っていた。
― ―
五分後、エステル達は揃って廊下を抜け階段を降り、西門ではなく兵士達が多く守っているという南門へと向かった。
「南門から出てそっと西門に向かいましょう。男が見つかったらゆっくりと近付いて。そして合図を確認した私達が彼を一時的に拘束、あなたが祈りを込めた飴を口に突っ込む。……でも、くれぐれも無茶はしないように!無理だと思ったら私が男の口をこじ開けるわ!」
「もう!メルナったら!」
本気なのか冗談なのかわからないような言葉だったが、おそらく彼女は本気なのだろう。
エステルは足早に歩きながらどうすべきかを繰り返し考え、門の手前まで来た時、ようやく方針を決めた。
(やるしか無い。無茶は承知よ。でも、これが最善の策だわ!)
とある思惑を胸に秘めたまま、エステルは南門を抜けた。
― ―
「何、これ」
「嘘、開いてしまったの!?」
「メル、落ち着いて!まだ完全には開いていない!穴の大きさが小さいし、神話によるとノクトルが飲み込まれた時の穴は町一つが飲み込まれるほどだったらしいから、まだ間に合うはずだ!」
エステルは目の前に広がる巨大な暗い穴を見つめながら、恐怖に慄いていた。
(こんなものが町を一つ飲み込むほど大きくなる!?そんなこと、絶対にあってはならないわ!!)
徐々にその恐怖心が怒りと決意へと変わっていく中、ふと目の端で見覚えのある男性の姿を捉えた。
「あれは…あの時の男性!?」
そこでエステルはようやく、いくつかの抜け落ちていた記憶を取り戻した。
大神殿の近くで起きた事件の時に助けた男性、青緑色の瞳を持ち、エステルの額に手を当てて……
(きっとあの時に私に何かをしたんだわ!)
エステルはきっと男性を睨みつけると、手にしていた飴の一つを手に取り、包み紙を剥がして口の中に放り込んだ。
「さあ、呪いを解いてあげるわ。」
そうして歩きだしたエステルを、メルナは悲しげな瞳で見守っている。マテウスはそんな彼女に優しく寄り添っていた。
少し歩き、真っ暗な穴の近くに立って何やら叫んでいる男性のすぐ後ろまで辿り着くと、エステルは声を上げた。
「ねえ、あなたは誰?」
男はその声に気付いたのか、一瞬動きを止めてから振り返った。
「おや?僕の生贄ちゃんが帰ってきたじゃないか!逃げられたと思っていたのに、どういう風の吹き回しだい?」
男のニヤニヤとした笑みが寒気を感じさせる。エステルが震えそうになるのを必死で堪えながら男と向き合うと、彼は徐々にこちらに近付いてきた。
「それと僕が誰か、だっけ?僕はホーリス。あの最低最悪な神話の世界の王子の名を受け継いだ男だよ。いくらその子孫だからって、本当に最悪な名付けだろう?」
エステルはただ黙って男の話を聞いている。
「さて、僕の元に戻ってきたからには早速生贄になってもらおうか。呪いはもうどうでもいい。異界は開きつつあるしね。このまま完全に開けば、僕が魔人になれなくても世界は壊れるからねえ。」
男は自分の発言に酔っているようだったが、少し間を置いてからエステルは静かにこう告げた。
「……それなら、あなたの呪いを解いてもいいのよね?」
男はさらに近付いてくる。だがその笑みは急に優しいものに変わった。
「へえ、解いてくれるの?さすがリナンの巫女だねえ。あの山にはなぜか一歩も入れなかったから、こうして神の愛し子をこの手で捕まえられて、とても嬉しいよ。で、どうやって解くの?」
彼はそう話しながらエステルの首を片手で握りしめた。
(苦しい…でも、諦めちゃ駄目!)
「私の、祈りを、込めた、キス…で。」
「面白い!じゃあこれが、君の人生最後のキスだね!」
「……」
そう言って男は手にさらに力を加えたまま、エステルにそっと口付けた。
(エステル、今よ!!)
その瞬間、エステルは口に含んでいた小さな飴を男の唇に押し付け、強く押し込んだ。
「む…んっ!?」
驚いたようだが、勢いでそれを飲み込んでしまったらしい男は、エステルを突き放して離れる。
だがそれと同時に、エステルは首への強い圧迫のせいで徐々に意識を手放していく。
そうして最後に目に入ってきたのは、男の首筋に何本もの黒い筋が一瞬で伸びていく、異様な光景だった。