102. 動き出した黒幕
男はエステルを塔に残したまま外に出る。
そろそろあの女が戻ってくる頃合いだろう。
姿を見られないよう、塔の近くにあるちょっとした茂みの中に入る。この辺りは帝都の端にある寂れた地域で、所々にこうした小さな雑木林のような場所が残っている。
足元が悪い中、ザクザクと音を立てて中へと進んでいくと、見慣れた美しい女が男を待っていた。
「お待たせいたしました、ホーリス様。報告に参りました。」
「やあ、リリアーヌ。あっちで聞こうか。」
リリアーヌを伴って雑木林を進んでいくと、庭と煉瓦造りの可愛らしい家が建っている。まるで森の中に突然現れたおとぎ話に出てくるようなこの家は、中に入ると薄暗く湿っぽくて、ホーリスにとっては心安らぐ場所の一つだ。
庭先には屋外用の丸いテーブルと椅子が置かれている。リリアーヌをそこに座らせると、ホーリスは家の中に入りトレーに果実酒を注いだグラスを2つ載せて庭に戻った。
「さて、乾杯の前に報告を聞こうか。」
「はい。」
リリアーヌはテーブルに置かれたグラスには目もくれず、淡々と話し始めた。
薬を使って生み出した魔人達は、数は多くないものの、リリアーヌの指示に従って順調に動いている。帝国内では二十人ほど、国外には三十人弱の魔人を準備し、ホーリスによる契約を元に各地で魔獣を使役させている。
しかし彼らはリリアーヌほどの実力はなく、魔獣を召喚したり増殖させたりすることをそれほど頻繁にできるわけではない。
だからこそホーリスはリリアーヌからの提案に従って、人に魔獣の体液を飲ませることで、強制的に知性を失わせた魔人と魔獣の間のような存在を創り出した。
「魔獣化した若者達の動きは順調です。もちろん討伐されてはおりますが、向こうの戦力も着実に削っております。しかも帝国軍は、順調に討伐できていることで若干油断している節もあります。この機会に魔獣化できなかった失敗作達には陽動攻撃をさせながら、準備してきた魔人達を一気に投入して帝都を落とす予定です。」
ホーリスはにっこりと微笑むと、リリアーヌを褒めた。
「素晴らしいね。遂にその時が来たというわけだ。」
グラスを手に取り、リリアーヌにもそれを持つように促す。彼女はゆっくりと一度瞬きをすると、グラスに手を伸ばした。
「前祝いをと思ってね。君にはずいぶんと世話にもなったし。さあ、これはとっておきの酒だ。ぜひ乾杯をしよう。」
「珍しいこともあるものですね。今まで酒を振る舞ってくださったことなど、一度もありませんでしたが。」
リリアーヌの顔には何の感情も浮かんでいない。それでこそ魔人だ、とホーリスはほくそ笑む。そう、魔人だからこそ面白いのだ。
「そうだね。今日はそれだけ特別ということだよ。君達が帝都への総攻撃をかけている間に、僕が『開く』からね。開いてしまえば奴らにできることは何もない。君なら、そこまで持ち堪えてくれるだろう?」
ホーリスのその言葉にリリアーヌは軽く眉を上げた。
「当然です。ここまでそのために時間をかけてきたのですから。」
彼女はグラスを持つ手をピクリとも動かさずそう言った。
「そうか。頼もしいね。では、乾杯。」
「……乾杯。」
ようやく動き出したグラスが二人の顔の高さまで上がり、ホーリスが先にその中身を飲み干した。そしてそれを見届けてから、リリアーヌもグラスに口をつける。
真っ赤な唇をさらに赤く染めるその液体が、喉の奥へと滑り落ちていくのを確認したホーリスは、柔らかな笑みを見せて言った。
「ね、美味しいだろう?」
ぼとっ
彼女の手にあったグラスは庭の土の上に落ち、グラスらしからぬ鈍い音を立てる。柔らかい地面に衝撃が吸収されたのか、それが割れることはなかった。
「な、に、を…」
しばらくするとリリアーヌの首筋に大量の黒い筋が現れ始めたが、それはいつもとは違い、まるで地中にいる細長い虫達がのたうち回るような動きを見せた。そしてすぐにそれも見えなくなるほど体中を黒い毛が覆い尽くし、彼女の体は徐々に巨大化していった。
「素晴らしい!君ほどの魔人になると、魔獣の体液の効果は想像以上に効くようだね!いやあ、目を背けたくなるほど醜い!」
ホーリスはふざけた調子でゆっくりと拍手を送る。その皮肉に満ちた称賛の言葉は、もうリリアーヌの耳には届いていなかった。
ギイイイイイギャアアアアアアッ……!
奇妙な咆哮を上げた彼女をじっと見つめたホーリスは、拍手を止めると額に手を置いて言った。
「我との『契約』に基づき命ずる。ヘレナムア城を襲撃せよ。…さあ、これが君の最後の仕事だよ。その誰よりも下劣で醜悪な姿を晒しながら、楽しんで皇帝を殺しておいで。」
その言葉が合図のように、魔獣化したリリアーヌはその場を奇声を発しながら去っていった。
ホーリスは笑顔でそれを見送ると、椅子に座って先ほど地面に落ちたグラスを見下ろす。
「アシュタール、お前が僕達一族にかけた呪いを、今日こそこの世に倍返ししてあげるよ。この苦しみに満ちた人間離れした体……お前のその強すぎる呪いのせいで、魔人になってこの苦しみから逃れることすらできなかった!」
足の裏でグリグリとグラスを転がしてみる。ギシギシと軋み、割れそうで割れない状態が続く。
「それなのにこんなに長いこと生かされてしまった。しかもいよいよ全てがうまくいくとなったら、今度はもうすぐ命が尽きそうって?」
ホーリスはグッと足に力を込めた。ゴロゴロ、と遠くで雷が鳴る音が聞こえる。
「呪われた王子の名を背負って生まれてきただけで、何も悪いことをしていなかった僕が、なぜこんな目に遭わなきゃならない?……だから僕は、完全な魔人になるために何十年も足掻いてきたんだ。この国ぜーんぶ壊して、ここに大きな穴を開けてやるんだ。異界の入り口をここに開いて、ノクトル様の呪いをこの世界に再びばら撒いてやる。そして『神の愛し子』を使って呪いを解いたら、最高の魔人になってそいつを生贄としてノクトル様に差し出してあげるよ。全部全部、お前の思惑などぜーんぶ無駄にしてやるんだからな!!」
そう言って高笑いをしながらグラスを踏み潰すと、彼は雨の降り始めた空を見上げてから、その小さな家の中に入っていった。
― ― ―
「エステル、エステル!!」
大きな声がエステルを呼んでいる。頭が痛い。
「う…ん……?」
「エステル、しっかりするんだ!」
「あ、れ、アラン……?」
目が半分ほど開き、ようやく声の主がアランタリアであることに気がついたエステルは、彼の名を呼んだ。
「良かった!やっと意識が戻ったね…今帝都は大変なことになっている。エステル、もし動けそうにないなら、一旦ここから避難した方がいい。」
「大変…何が…?」
その瞬間遠くで二度、三度と爆発音が続き、エステルはビクッと肩を震わせた。どうやら今は宿のような場所にいるようだ。
「外で、何が起きているの?」
アランタリアの顔が曇る。
「これまでにない数の魔獣が、何人もの魔人に連れられて帝都を一斉に襲撃しているようなんだ。魔獣もどきも各地で暴れている。もしすぐに逃げるのであれば、マテウスさんにお願いしてローゼンに…」
「大変!私も急いで行かなきゃ!!」
エステルがベッドを飛び起きると、アランタリアの手がその腕を掴んだ。
「待ってエステル!君はさっきまで意識を失っていたんだ。こんな状態でこんな暗い中動いたら危険だよ!?」
「でも、メルナや町のみんなも危険なんでしょう!?ローレンさんだってエマだって!!」
「……エステル、あなたは、本当に忘れてしまったのか?」
アランタリアの顔色が変わる。エステルはそれを見ながら首を傾げた。
「忘れたって…何を?」
「何、じゃない。誰、だよ。どうして、彼の名が出ないんだ?」
「彼、って、誰のこと?」
「……」
エステルはアランタリアの言う『彼』が誰を指しているのかわからず困惑する。すると彼はエステルの両肩を掴んで言った。
「俺は君を愛している。でも、今回のことでよくわかった。あの男は、確かに散々あなたを振り回して悲しませてきたけれど、本当にあなたを大事に思っていた。大事すぎて道を間違えたりもしたが、最後の最後にあの男は…ラトは、あなたのことだけを考えてその愛を貫いた…」
「アラン…?」
アランタリアは悲しそうな微笑みを見せてこう続けた。
「あなたの異変に気付いたのはあの男だけだった。俺は完全に奴に負けたんだ。だからあなたも思い出さなくてはいけない。俺も…あなたに幸せでいて欲しいから、俺にできることをするよ。」
「ねえ、一体何を言っているの!?」
その瞬間、エステルの胸の中に小さな痛みが宿った。
それが何なのかわからず戸惑うが、アランタリアの言う『あの男』がそこに関わっているとしたら、そしてその人を忘れているのだとしたら、その全てを思い出さなくてはいけないような、そんな気がした。
アランタリアはエステルの肩に彼の上着を掛けると、ベッド横に置いてあった精霊道具入れもエステルの首に掛けた。
「エステル、行こう。俺が愛するあなたのためにできることは、もうこれしかない。行きたいところがあるんだ。……一緒に、戦えるかい?」
彼の決意の重さが、エステルの心にもしっかりと伝わった。
「ええ。アラン、色々ありがとう。あなたのことは友達として、本当に大切に思っているわ。」
アランタリアの手がエステルの頬に触れる。そして彼の親指が優しく頬をなぞった後、その手はゆっくりと離れていった。
「ありがとう。さあ、行こうか!」
「うん!」
そうして二人は暗く、爆発音が鳴り響く帝都の町へと、覚悟を決めて飛び出していった。