101. 背負うべきもの
《聖道暦1112年9月20日》
メルナの緊張はその日、ピークを迎えていた。皇帝オーギュスト・ルーカス・ヘレナムアが自分を横に立たせた上で、あの忌々しい貴族会に参加させているからだ。
(本当に勘弁してほしいわ。なぜ私までここにいなければならないの?)
意外と頼りになるマテウスも、よく自分を支えてくれている部下達もここにはいない。何ならここにエステリーナの顔が並んでいたら、この胃の痛みも少しは解消されるだろうに…
「貴族会に在籍する諸君、今日は急な呼び出しにも関わらず集まってくれたこと、感謝する。」
(彼らを緊急で呼び出したからと言ってルーク兄様が謝る必要はない。それでも、あの無駄に偉そうな貴族達に感謝という言葉を使うこと自体も驚きだわ!)
メルナは表情も変えず、ルークの隣に立ったままじっと前を見据えている。この大会議室の中で皇帝と目を合わすこともできない大勢の貴族達が、今から何が始まるのか戦々恐々としている雰囲気が伝わってくる。
「さて、今日は時間もあまりない。本題に移ろうか。」
ルークはテーブルに手を置き立ち上がると静かだが、厳かにこう告げた。
「皆も知っての通り、現在帝都のみならず帝国全土が魔人、そして魔獣達からの頻繁な襲撃を受けている。おそらく皆それぞれの領地でも何かしらの事件が日々発生し、対処に追われていることと思う。」
そこで一旦言葉を区切ると、彼は貴族達をざっと見回してから再び口を開いた。
「すでに通達は出しており、ここで話すべきことでもないが話の流れ上説明すると、現状数千人単位の兵士達に魔獣討伐を指示しているが、さらに兵士の数を増やして対応すべきと考えている。そして各地に散らばる有能な神官達、さらに減呪師の登用も検討している。……つまり、これはもう第二次魔獣戦争と呼んでもおかしくないほどの状況だということだ。」
そしてルークはテーブルの両手をバン、と突き、前屈みになって言った。
「この状況でもまだ、前皇帝の古き良き時代を…自分達に甘い汁を吸わせてもらえていた時代を取り戻したいなどと言うのなら、我らに協力するつもりがないのなら、『契約』を元に貴族会を解散する!」
「何を仰るのです!?」
「そんなことをしたら…」
「どうかおやめください!」
貴族達の三分の一ほどが大きな声でその決断を止めようと足掻き始める。メルナは大きなため息をどうにか飲み込み、ほんの少しだけ息を吐き出した。
(この状況を皇帝のせいにして再び自分達に有利な皇帝を祭り上げようとしていたこと、こちらが知らないとでも思っていたのかしら?)
メルナもルークも、ジュリアス亡き後反皇帝派の彼らが別の人物、しかもまだ子供と言えるような歳の人物に目をつけていることを知っていた。
だからこそルークは、強い口調でこう告げた。
「こんな状況下でくだらないことをやっている暇はない!甘い汁を吸いたいがためにこれ以上私を引きずりおろすような行動を続けるのであれば、帝国ごと破滅することを覚悟しておけ!!」
正論なだけでなくこのままでは自分達の領地も危ういと察知した彼らは、言い返すこともできす苦い顔をして俯いた。
その後はメルナから事務的な報告を進めた。
今後帝国の役人達には領地ごとに担当を分け、現地に滞在させて魔獣対策訓練済みの兵士達を管理すること。また、領地で起きた出来事は全てその役人達と情報共有した上で対策本部に逐一連絡をすること。兵士の疲労や痛みを軽減するため、交代制で任務に当たらせることを徹底することなどの指示を出した。
貴族達自身も領地に各々の兵士を抱えているが、魔獣出没地帯が多くない地では圧倒的に兵士達の経験値が足りなかった。
先ほどのルークの言葉もあってか、メルナの事務連絡によりさらに、自分達には現皇帝の力添えが不可欠であることを痛感したようだ。
メルナは全てを話し終えると、大会議室は静寂に包まれた。そして再びルークが話し始める。
「貴族会は一旦解散する。その代わり、この第二次魔獣戦争が諸君らの協力により無事終結した暁には、前皇帝の時代とは比べものならないほどの帝国の繁栄を約束しよう!!」
反皇帝派もそうでない者達も、ルークの持つ威厳とこれまでの成果に基づく自信に満ち溢れた姿に圧倒されていた。
その後、ジュリアスの父ウィリアムが失脚したこと、断罪されたことも影響していたのか、貴族会は一旦解散することを全員が受け入れた。
貴族達を残してルークとメルナが大会議室を出ると、廊下にはよく見かける伝令の男が立っていた。
「失礼いたします、ベルハウス様。こちらをご確認ください。」
手渡された封筒を開いているうちに彼は素早く敬礼してその場を去っていく。そしてルークはメルナの手元を覗き込み、顔を顰めた。
「エステルが、怪しい男と塔に入ったまま出てこない!?」
「陛下、声が…」
ルークはメルナの手を引っ張って廊下を進み、大会議室から少し離れた小会議室の中へと入っていった。
「どういうことだ?エステルには優秀な護衛が付いていたのだろう?」
ルークの声はいつもよりさらに低い。
「落ち着いて、ルーク兄様!もちろん彼は近くにいるわ。でも何かすぐには手を出せない状況なのかもしれない。…大丈夫、彼なら、絶対にエステリーナを助け出せるわ。」
「こんなことになるなら…」
「……」
ルークはきっとまだエステルのことを忘れられないのだろう。この非常事態のせいで頓挫している皇帝陛下の縁談話が再び流れてしまうのではないかとメルナは危惧していた。
「とにかく、彼女のことは私達に任せて、ルーク兄様は仕事に集中してください!」
「それは当然だ。だが夜は眠れなくなる。頼む、逐一報告を。」
「はあ…わかりました。さあ、さっきの威厳はどうしたのです?陛下、しっかりなさってください!」
メルナはぐいぐいと彼の背中を押して小会議室を追い出し、彼が自分の執務室に帰っていくのを見届けると、再び慌ただしい一日へと戻っていった。
― ― ―
「あ、いたいた、僕の愛し子ちゃん?」
塔の窓から見える景色をじっと見つめているエステルにそう話しかけてきたのは、青緑色の瞳を持つ男性だった。
エステルはその言葉を聞いても身動き一つしない。
「うんうん、いい感じに『精神干渉』が効いているね。少し前までは精霊達が纏わりついていて効果が出にくい状態だったけど、ここ数日の魔獣達の猛攻でだいぶ散らしていたのが良かったみたいだね。」
彼はぼんやりと前を向くエステルの髪を撫でると、にっこりと微笑んで言った。
「君が僕の呪いを解こうと解くまいとどうでもいい。でも全てが終わったら、ノクトル様に君を生贄として捧げてあげるからね。楽しみにしていて。」
髪を撫でていた手はエステルの頬に、唇に、そして首筋をなぞり、そしてその首を軽く絞めた。
「おや、苦しそうだね。大丈夫、まだ殺さないよ。それにしても可愛いなあ。今はちょっと忙しいけど、生贄にする前に僕がたくさん遊んであげるからね。」
彼はそう言って手を離すと、何かの気配に気付いたのか、踵を返して塔を降りていった。
― ― ―
「出てきた!」
「ラト、どうするのです?」
「…どこかへ行くようだな。気配が薄れたら中に入ろう。」
「ええ。」
お互いに苛立ちが募っていることは理解していた。それでもここで急ぐことが得策ではないことも重々承知していた。
しばらくすると男は近くの茂みの中に姿を消し、数分経っても戻ってこないことを確認すると、二人は慎重に塔の中へと潜入していった。
狭い階段を上がっていくと、途中小さな部屋がいくつか目に入る。だがどの部屋にも家具も荷物もなく、ほとんど使われていないことが見てとれる。
さらに上へと進み最上階らしき場所に辿り着くと、木のドアが二人の前に現れた。
「開けるぞ。」
ラトの声にアランタリアが頷き、ゆっくりとドアが開く。
シーンと静まりかえった暗い室内には、全て違う種類だと思われる十脚ほどの古い椅子が適当な場所に置かれていた。そしてそのうちの一つに、エステルが座っていた。
「エステル!」
二人が急いで彼女の元に駆け寄ると、エステルはただぼんやりと目の前にある小さな窓の外を見つめていた。
「エステル、どうしたんだ?何があった!?」
「……先生、今はエステルを連れて外に出よう。」
「ですが!」
「頼む。」
「わ、わかりました。」
ラトの青ざめた顔に何らかの異変を感じ取ったのか、アランタリアも外に出ることに同意した。
ラトがエステルを背負い、階段を降りて外に出る。ぽつぽつと降りだした雨が、三人の体を冷たく湿らせていく。
黙ってその場を離れて歩き続け、塔からかなり離れた場所まで移動すると、ようやくラトはエステルを背中から下ろした。
「あの東屋に入ろう。」
雨足も強くなってきていたため、ラトは一旦雨宿りをしようと小さな東屋にエステルを連れて入り、そこに彼女を座らせた。
その横に座ったアランタリアが彼女の目の前で手を振ってみるも、反応がない。彼は眉を顰め、前に立つラトを見上げた。
「一体彼女に何が起きているのです?」
ラトは俯いていた顔をゆっくりと上げると、アランタリアをその場から退くように言ってエステルの前に跪いた。
「エステル、出会ってからずっと、俺は君に惹かれてた。勝気なところも、優しいところも、困っている人を見捨てられないところも、全部好きだった。可愛い笑顔も、時々泣かせてしまったあの表情も、俺がキスする時に見せてくれる照れた顔も、全部好きだった。友達になってしまった今も…」
エステルの手を取り、その華奢な手に口付けをしてから言った。
「これからもずっと、永遠に愛してる、エステル。……君が
俺を、忘れてしまうとしても。」
そうしてラトは名残惜しそうに手を離すと、自分の額に右手を当て、エステルの耳元に唇を寄せて囁いた。
『解除』
だがその声は強い雨の音のせいで、アランタリアの耳に届くことはなかった。