100. 異変
ラトがエステルの元に急いで戻ると、彼女はアランタリアの隣で何か不安を抱えた様子で立っていた。
「エステル、どうした?」
「え?ええと、別に、何も。」
「……そうか。」
「そうだ、アラン、さっきの女の子は大丈夫かしら?」
「一応、神官見習いの女性に見守りをお願いしてある。でも、気になるなら戻ろうか。」
目をあまり合わそうとしないことにも今の発言にも違和感を感じて、ラトはアランタリアと話をするエステルをじっと見つめた。
(何かがおかしい。目の動きも、言葉も、態度も、いつもとは明らかに違う)
エステルが一人で大神殿の中に戻っていく後ろ姿を見送ると、ラトはその場に残ったアランタリアに話しかけた。
「なあ先生、エステル、何か変じゃないか?」
アランタリアは地面に落ちていた太い杖を拾い上げると、訝しげにラトの顔を見て言った。
「そうですか?まあ、色々ありましたから疲れているのでしょう。さっきも立ちくらみがしたようですし。」
「そう、なのか?」
あまり変化を感じていない様子のアランタリアの言葉に納得がいかないラトは、エステルを追いかけようとしたところで後ろから声をかけられ、引き留められた。
「ラト殿、お待ちください!マース大将殿からこちらを預かっております。」
若い兵士の一人がそう言ってラトに手紙を手渡す。キリッとした表情のその青年は、緊張した様子で返事を待っていた。
「ああ、ありがとう。……この後すぐ向かうと伝えてもらえるかい?」
「はい!承知いたしました!」
彼は大きな声でそう返事をすると、勢いよく敬礼をして去っていった。
「仕方ない、エステルのことは先生に一旦任せておくか。」
そうしてラトは後ろ髪を引かれる思いで、ジョルジュ・マースのいる駐屯地へと向かっていった。
― ―
この日以降、帝都のみならず帝国全土に同様の事件が頻発していった。
ラトは再びあの四十年前のように各地の魔獣討伐に駆り出される日々が続き、エステルの異変は気にかかっていたが、ゆっくりとは話せない状態が一週間以上も続いてしまった。
その後数日間は兵士達の配備や状況に応じた能力の発動方法、神官達の派遣についてなど、やらなければならないことが山積みだった。
だが八日ほど忙しく動き回ったことで、後はどうにかジョルジュに任せられるまでに兵士達の準備は整った。
《聖道暦1112年9月20日》
「じゃあ、俺はこれで。」
全ての仕事を終えたラトは、荷物を持ってドアノブに手を掛けた。顧問という曖昧な立場にも関わらず随分と内部事情にまで踏み込んでしまったな、などと考えていると、ジョルジュはいつになく神妙な面持ちでラトに向き合い、言った。
「ラト殿、いえ、ニコラ殿。私達兵士達のために、そして帝国軍のために熱心に動いてくださり、誠に感謝しております。幼い頃からあなたの英雄伝を聞かされて育ってきた私にとって、あなたとこうして任務を遂行できたことは喜び以外の何ものでもありませんでした。このご恩、決して忘れません。」
堅苦しいがありがたいその別れの言葉に、ラトは苦笑しながら言った。
「やめてくれ。そんな大層なことはしてないんだから。それに英雄なんかじゃない。俺は……まあ、とにかく後のことは頼む。」
「はい。」
そうしてラトはヒラッと小さく手を振ると、ジョルジュの執務室を出ていった。
「さて、これでようやくエステルのところに行けるな。」
駐屯地の敷地を出たラトの目に入ってきたのは、以前では考えられないほど人気のない帝都の街並みだった。
この数日間で帝都を離れる住民はさらに増え、どの店も入り口には板が打ち付けられた状態で閉店しており、辛うじて食料品店だけが営業しているようだった。
四十年前の魔獣戦争でも同じような景色を目にしてはいたが、最近の帝都の繁栄ぶりから比較しているので、当時よりも荒廃しているように感じてしまう。
(それに以前と違うのは、人間が魔獣化したあの異様な生き物が存在していることだ)
あの魔獣もどきが現れてから、その動きの読めなさに兵士達はだいぶ苦戦していたようだ。ラトもまた彼らの行動を観察し、魔人に操られている動きではないと感じていた。
「魔人達の支配下にない魔獣もどきか……だとしたら、どうやって知性を失った彼らを動かしているんだ?」
人が少ない静かな大通りを歩きながらラトはそう呟く。そしてふと、何かに気付いて立ち止まった。
「そうか、『契約』か!魔獣の体液を飲ませる前に契約を済ませていれば、ある程度自由に動かせる…!?」
だがそれは、強力な能力を持つ『人』が関わっているという事実を浮き彫りにするような推測だった。
(もし魔人ではなく『人』がこの全ての出来事の裏にいるとしたら、そしてそれが四十年前から続いているのだとしたら……)
浮かんでしまった可能性に、ラトは戦慄する。
「とにかく、エステルに会わないと!」
ラトは長らく感じたことのなかった不安感を振り払うように、さらに速度を上げてメルナの屋敷へと向かっていった。
― ― ―
エステルはこの日、朝から体調が優れなかった。熱っぽいような状態が続き、食欲もあまりない。
(ううん、今日だけじゃない。大神殿に行ったあの日から、何だか体がおかしい気がする…)
言い知れない不安を感じながらベッドで休んでいると、急激な眠気が襲ってきてエステルは戸惑う。
(おかしい、たくさん寝たのに、こんなに眠いなんて…)
そんなことを考えている間にも瞼はどんどん重くなり、すとん、と眠りに落ちてしまった。
― ― ―
数十分後。
メルナの屋敷の前まで辿り着いた時、ふらふらと歩いていくエステルの黒髪が少し遠くに見えた。
一瞬で血の気が引いたラトは急いで彼女の元に向かうが、あと少しというところでエステルはそこにいた辻馬車に乗りこんでしまった。
確かに、彼女は誰かに誘拐されていたわけではない。自分の意思で、自分の足で馬車に乗っていた。
だが、何かがおかしい。
やはり目を離すべきではなかった。
エステルを追うためラトは急いで馬車を探すも、その通りには一台も見当たらない。帝都を離れる者が続出している今、辻馬車も別の用途に使われてしまっているのだろう。
「まずいな。『透視』は先生がいないと…そうだ、先生の所へ行こう!」
押し寄せる不安とエステルへの想いに胸が潰れそうになりながら、ラトはメルナの家の馬車に乗り込み大神殿へと急がせた。
大神殿の前に到着すると、そこでは壁の修復作業が行われていた。能力を持っている者達が重い石を器用に運び、それを別の人が積み重ねて固定していく。
その様子を横目で見ながら神殿の中に入ると、すぐにアランタリアの姿を確認できた。
「先生!」
ラトは手短に事情を説明し、アランタリアの同行を依頼する。彼はつい先ほどまで担当していたのであろう仕事を別の神官に引き継ぐと、何の躊躇いもなくラトについていくと告げた。
そうしてラトは、広範囲の『透視』とアランタリアの回復の祈りを交互に繰り返しながら、エステルの居場所を突き止めていった。
「あそこだ!」
「あれは…昔小神殿として使用していた建物ですね。小さな塔も付いていて子供達にも人気があったのですが、いつの間にか使われなくなって、ここ数年はずっと廃墟だったと記憶しているのですが…どう見ても、綺麗に使われていますね。」
アランタリアの表情頬が僅かに引き攣っている。ラトは手で頭を押さえると、早速その塔へ向かおうと動きだす。だがあることに気付いて動きを止めた。
「誰か来る。」
「見たことのない顔ですね。」
二人は建物の陰に身を潜めながら、塔の入り口に近付いたその男を見守る。
三十代後半といったところだろうか、男はドアをゆっくりと開くと中に入る。周囲を警戒する様子もないため、普段から当たり前のようにこの建物を使っているのだろう。
「どうするつもりですか?」
アランタリアの問いかけに、ラトは迷う。
「男の正体がはっきりしない状態であの狭い塔の中に入るのは、得策じゃない。だが…」
四階建てほどの高さの塔を見上げながら考え込んでいると、アランタリアが鋭く尋ねた。
「何か気になることでも?」
「…ああ。一つだけ、ある。」
先ほど駐屯地を出たところで思い至った話をすべきかどうか悩んだが、これからも協力してもらうことが不可欠な彼に、それを伝えないわけにはいかなかった。
「あの男がもしリリアーヌの仲間だとしたら、魔人、もしくは、背後にいて魔人や魔人もどきを動かしている『人』かもしれない。」
「人?人間が魔人達を動かしていると!?」
アランタリアのいつもは無表情な顔に、驚きと、信じられないという疑いの気持ちが浮かんでいる。
「信じられないのも無理はない。でもここ数日の魔獣、魔獣もどき、そして魔人達の動きを見ているとそれが最も可能性が高いんだ。特にあの魔獣もどきにはほぼ知性がない。それを狙った場所に配置して動かすのは、きっとリリアーヌクラスの魔人にも難しいだろう。」
「では、どうやって動かして…」
その時彼はハッとした表情を見せた。ラトは頷く。
「そう、『契約』だ。それしかないんだ。人間だった時に結んでしまえばいくらでも好き勝手に動かせる。だが魔人にあれほど高等な能力は絶対に使えない。だとしたら、『人』が裏にいるとしか考えられない。しかも、それがもし四十年前から続いていたのだとしたら……」
息を呑む音が聞こえる。そしてラトは苦々しくこう告げた。
「あれは、俺の血縁者、かもしれない。」
「…!」
(もしそうなら、あの男と今戦えば間違いなくエステルにも被害が及ぶ。能力差が無い相手と戦えば、どんな恐ろしい状況になるかわからない!)
ラトはアランタリアから再び塔の先端へと視線を向けた。
「男が出てくるまで待つしかない。…不本意だが。」
「そう、ですね。」
二人はどんよりとした雲が立ち込める空の下で、物音一つしない塔を見上げながら、何もできないこの状況をただ耐えることしかできなかった。