9. 悪夢
《聖道暦1112年3月11日午後》
エステル達が到着した時、その屋敷はすでに悲惨な状態となっていた。
昨日散々恐ろしい目に遭ったあの黒い虫が庭の木々や建物の壁に大量に張り付いており、気味の悪い羽音が辺りを包み込むという、悪夢のような光景がそこに広がっていた。
屋敷内から逃げ出したらしい使用人達も、オロオロとしながら遠巻きにそれを見守っている。
そこに居た使用人の一人に話を聞くと、中にはまだこの屋敷の主人であるデンジーという男とその妻クレアが残っているらしく、しかも彼らを二人の少年達が追い回しているとのことだった。
エステルは早速例のペンダントを手に中に入ろうと試みるが、虫から分泌された粘液のせいでどの窓もドアもびっちりと固まり、全く開かなくなっていた。
使用人達も各々の能力でドアを開けようと何度か試してみたようだが、どれもうまくはいかなかったらしい。エステルがそれならばと袋に手を伸ばしたその時、彼女の手首をラトが掴んだ。
「今じゃない。」
「でも!」
「いいから。まだ君は余力を残しとくべきでしょ?ほら、今朝いなかった分の仕事はちゃんとするからさ。」
そう言って彼は一瞬ニヤリと笑顔を見せると、エステルを一旦壁から離れるように言ってから額の中央をトントンとニ回軽く中指で叩いた。
その瞬間、あれほど大量に絡みついていた虫達が一瞬にして青い炎に包まれ、ジュワーッという音と共に一匹残らず燃え尽きて消えていった。
「何だ今のは!?」
「ひいっ!!一瞬で燃えた…?」
使用人達の困惑と恐怖が、そのいくつもの声から伝わってくる。
通常『特殊能力』は必ず発動者の体のどこかの部位から、多少の時間経過を経て発動する。だがラトが今見せたのは、彼からかなり離れた場所で、しかもほぼ一瞬で発動するというとんでもない芸当だった。
その異常な発動状況に全員が目を見張る中、エステルだけがそれを無視して走り出し、一番近くのドアに手を掛けた。
にちゃ、っという粘液が剥がれる耳障りな音、そして開いたドアの内部に広がっていた想像を絶する光景に、一瞬足がすくむ。
室内にはどうやら例の虫はいないようだったが、廊下の壁や床、天井の一部までもがあり得ないほどボロボロになっていた。いや、あらゆる場所が、何らかの刃物のようなもので切り裂かれていたのだ。
「何これ…一体どういう状況なの!?」
すると後ろを追ってきたラトがエステルの腕を掴んだ。
「落ち着いてエステルちゃん。刃物の向きと床の擦れ具合からして、右の方に逃げたんだろう。血痕は無いからまだ無事な可能性が高い。さあ、ここからどう動く?君なら俺をどう動かす?」
彼のその言葉は、混乱した頭と不安による興奮状態を少し鎮めてくれる。そして若干落ち着きを取り戻したエステルは、彼とまっすぐに向き合った。
「私には『特殊能力』は無いけれど、貴重な精霊道具がいくつか手元にあります。その中で戦闘に使えそうなのは今持っている短剣と、これ…」
そう説明しながら腰につけた袋から取り出したのは、手で握れる大きさの一本の木の棒だった。その先は三本に枝分かれしており、一本ずつ長さの違うその枝のような部分に、古代の文字らしきものが金色で刻まれている。
「これは?」
「集中してからこの棒を振ると、相手を拘束できるんです。…あの、ラトさん。」
「何?」
ラトの目がエステルの指示を待っている。
「お願いです。私がこれを使って拘束するので、あなたの力で暴れている子供達を落ち着かせるか、意識を絶ってくれませんか?あの、私達が最初に会った日のように。」
無理かもしれない、と思っていた。無理だと言うなら自分の力でやるしかないと覚悟も決めていた。
だがラトはエステルの頭に手を置いて優しく答えた。
「全く、うちのご主人様は遠慮がちだねえ。こういう時こそ俺がいるでしょ?報酬分、めいいっぱい俺を使わないと。さあ、冷静になったなら行こう。行けるか?」
「はい!」
そうして二人は、子供達が向かったであろう方向へと走りだした。
広い屋敷内をしばらく進むと、何やら叫び声のようなものが聞こえてきて二人は立ち止まった。
(どこかしら、金属音?ううん、皿のようなものが割れる音だわ!)
「ここだ!」
「ここですラトさん!」
二人は同時に声を上げ、そしてすぐ近くにある半開きのドアを開いた。
勢いよくドアを開けるとそこには、廊下よりも凄まじい光景が広がっていた。広々としたダイニングルームの大きなテーブルや椅子は全てボロボロに壊され、大きく煌びやかだったはずのシャンデリアがその上に落ちてただの瓦礫と化している。
そして床も壁もカーテンも、廊下と同じように大きな刃物のようなもので全て切り裂かれ、その被害が最も少ない一番奥のテーブルの裏に二人の男女が、そしてその手前に異様な雰囲気を纏った二人の若者が立っていた。この二人はそれぞれに大きな斧と園芸用の巨大な剪定鋏のようなものを持っている。
エステルはゆっくりと若者達の背後に近寄り、様子を窺う。手にはあの拘束の木を握りしめている。
おそらく直前まで暴れ回っていたと思うのだが、彼らはなぜか今はほとんど動いていない。武器は辛うじて手に持っているが、それを使って攻撃しようという意思は感じられなかった。
だがそこでエステルは、一つ恐ろしいことに気が付いた。彼らの首筋には、昨日の小さな男の子ダミアンと同じく、暗い赤や紫色の筋が何本も何本も浮かび上がっていたのだ。しかもその筋は明らかに昨日見たものよりも濃く、太く脈打っていた。
エステルはラトに目配せをした後、握りしめてきたあの『拘束の木』に唇で触れ、集中を始めた。その途端、するすると先端の三本に分かれた部分の木の枝が伸び始め、それが唐突に巨大化して目の前の少年達を絡めとる。
「やったわ!」
「まだ気を抜くな!」
するとそれまでほとんど動きのなかった二人が、ゆっくりと首を動かし、エステルを睨んだ。いや、その瞳は黒く澱み、実際にはどこを見ているのかはよくわからなかった。
「ひいいっ!?は、早くそいつらを何とかしてくれ!!」
その時奥の方から男性の金切り声が聞こえてきた。エステルはさらに集中力を高め、拘束を強める。
しかしそこで予想外の出来事が起きた。彼らはエステルの方に首を向けたまま、突然口を大きく開き、口から黒いドロドロとした何かを吐き出し、自分達を拘束している木を溶かし始めたのだ。
「やだ、木を溶かしてる!?ラトさん!!」
ラトはその言葉に応えるようにエステルの肩に手を乗せると、額に手を当てながら右足を勢いよく床に叩きつけた。
ドンッッ!!!
という音、それと同時にあの日エステルが体験した不思議な静けさを持つ空気が、フワッと部屋中に弾けた。
「エステル、早く!!」
その声でハッと我に返ったエステルが彼らを見ると、口から出ている何かは止まっていたが、完全には意識が失われていない様子が見てとれた。
『拘束の木』は手を離せば少ししてその効果を失ってしまう。だが時間がない。エステルは覚悟を決めてその手を離し、全速力で彼らに駆け寄り両手を一人ずつその頬に当てた。
「どうか神様…この子達を元に戻してください!私は祈ることしかできないけれど…どうか、どうかお願い…」
やはり彼らの頬は冷たく、浮き上がってきている筋でボコボコとした感触をその手に感じる。赤や紫色だったあの筋には、黒っぽい色まで混じり始めていた。
それでもエステルは彼らの頬に手を置いて祈り続ける。何も変えられないとしても、もし少しでも可能性があるなら、と。
そうして、数分が経った。
ガタン、ガタン、という二つの重いものが落ちた音で、エステルは自分が目を瞑ってたこと、そして落ちたものが彼らが手にしていた武器だったことに気付いた。
すでに彼らの拘束は解かれており、頬に触れていた部分は少し温かく感じられた。そして二人の目からあの黒い澱みはなくなり、あれほど顔中に伸びていた筋も一つ残らず消え去っていた。
「おっと!大丈夫か?」
エステルが安堵して彼らの頬から手を外すと、ふっと力が抜けた二人の体が床に崩れ落ちそうになる。間一髪でラトが軽々と二人を受けとめ、事なきを得た。
「落ち着くまでそこに座っていた方がいい。…体に負担がきているはずだからな。」
ラトのその言葉は、彼がこの一連の不可解な状況について間違いなく何か知っていることをエステルに確信させる。
(でも今はそれを追求する時じゃないわ)
そしてエステルは素早く床に落ちていた武器を遠くに投げ捨てると、奥で震えている二人の男女に近寄り、静かに声をかけた。
「彼らは落ち着いたみたいです。お二人とも、お怪我はありませんか?」
しかし怯え切っていたはずのその男性は、ようやく声を出したかと思うといきなり罵声を浴びせかけてきた。
「あ、あいつらを殺せ!!何て恐ろしい奴らだ!!孤児なんかを雇い入れてやったのに、その恩を仇で返すとは!?」
「…」
エステルはこうなるまでの事情を知らないため、何も言い返すことができず黙り込んだ。だがそこに、とある人物が静かに姿を現した。
それは神官ゲルトだった。
「恩などどこに感じたらいいのです?あなた方がやってきたことは、立派な犯罪ですよ。」
「な、何だ、誰だ貴様!?」
憤慨してはいるが腰が抜けてしまったのか、男性は立ち上がれない様子だった。ゲルトはそんな彼を見下ろすように、エステルの横に立ってこう言った。
「あなた方があの子達にこれまでどう接してきたのか、どれだけ酷いことをしてきたのか、今朝ようやくわかりました。逃げてきたハンナが教えてくれたのです。あなたが薬物に関わる犯罪に手を染めていた証拠も持っていましたよ。私は今からそれを持って役所に行きます。」
「何だと!?」
男性はさらに怒り、女性は怯えた表情で狼狽え始める。
「あの子達に心から謝罪をするまで、私は決してあなた方を許すことはないでしょう。もちろん法的にも許されはしません。では、あの子達は返していただきます。」
「ふ、ふざけるな!!」
ゲルトはその声を無視して振り返ると、比較的意識がはっきりしていた少年の方に優しく声をかけ、もう一人のぐったりとしている少年を連れて外に出て行った。エステルとラトもその後を追い、屋敷を後にする。
その後二人がゲルトから聞いた話によると、三人の少年少女達はこの屋敷で休みもなく働かされていただけでなく、違法な薬の製造を地下の部屋の中で延々させられていたということだった。
あの男性はかなり暴力的な主人だったようで、小さな鞭や棒のようなもので子供達を叩いたり罵声を浴びせたりするといったことは日常茶飯事だったらしい。
そしてこの日はたまたま庭に出ていた少年達の近くにあの黒い虫が何匹か止まっていたのだが、彼らがそれに気付き触れてみたところ、突然爆発的に増殖したようだ。
その原因や仕組みは不明だが、エステルはそこにダミアンとの共通点を感じていた。あの黒い虫は虐待された子供達の悲しみや苦しみ、そして憎悪を吸収し、急激に増殖したのではないか、と。
ちなみにその後彼らは突然錯乱し始め、屋外に置いてあった斧や剪定用の鋏を手に屋敷の中に入り、廊下で見かけた主人らを追いかけ始めたのだと言う。これは使用人達の証言からわかったことだ。
この時、一人屋内で休憩を取っていた少女ハンナはこの状況に大変驚きパニックとなった。しかしどうにかしなければという思いから、混乱に乗じて地下室から証拠となる植物や薬、そしてそれを精製するための高価な器具などを手当たり次第に袋に入れて外に逃げていったところ、たまたま近くに来ていたゲルトに再会し、今回の事件が発覚したという流れだった。
エステル達がその話を聞き終えた頃、例のゲルトの友人の家に役人数名が事情を聞きにやってきた。どうやらあの屋敷の誰かが兵士か役人に連絡していたらしい。
ゲルトはその後ハンナが持ってきた証拠を全て役人達に引き渡すと、少年達と共に取り調べを受けるためこれから役所へ向かうと告げた。
エステルとラトはこれでこの件は終わったと判断し、挨拶を終えるとテントへと戻ることにした。
その帰り道、エステルは夕日に向かって歩きながら、少し後ろを歩くラトに話しかけた。
「結局あの虫は何だったんでしょうね。増え方もおかしかったし、子供達があんな恐ろしい姿に変わったのも、あの虫が原因なのかしら…」
後半はほぼ独り言のようにそう言うと、ラトはエステルの横に移動し、前を向いたままそれに答えた。
「あれは異界の虫だな。どこかで綻びが出始めてるのかもしれないし、あるいは… まあ、今心配しても仕方がない。とにかくここは一旦落ち着いたみたいだし、もう虫もいないんだ。今は君を帝国に送り届けることを第一優先に考えよう。」
異界の虫という言葉だけではなく、まともな護衛らしい発言にも驚いたエステルは、思わず立ち止まって彼に詰め寄った。
「嘘…あなたってそんな人でしたっけ?それと異界の虫って?綻びって何ですか?」
少し先に進んでいたラトは、振り返るとニヤリと笑う。
「さあ、何だろうねえ?それより俺も君に聞きたいことがある。君、あの魔人化をどうやって止めた?」
もうその顔に笑顔はない。いや、口元は笑っているのだが、彼の瞳はすでにあの底知れぬ闇を感じさせる色に変わっていた。
一瞬寒気を感じたエステルだったが、すぐに自分を取り戻し、強い口調でそれに答えた。
「魔人化?何ですかそれ!?私は何も知りません!私はただ無事に帝国に行ければいいし、そのためには早く騒動を終わらせなければと必死だっただけです!あなたこそ、とにかくもっと真面目に護衛の仕事をして…」
エステルはそこで言葉を切った。まだあの怖い目のラトが目の前に居たが、もう怖くはなかった。
そして静かな口調でこう続けた。
「ううん、そうじゃない。あなたはきっと私が知らない時もずっと、何度も私を助けてくれていたんですよね。」
ラトの表情が戸惑いを含むものに変わっていく。
エステルは自分の胸を右手でぐっと押さえ、背の高いラトの目の前に立ってその顔を見上げた。
その時、夕方の冷たい風が二人の間を吹き抜けていき、エステルのまつ毛がふわっと揺れた。
幼い頃から長く量の多いこのまつ毛は、風や湿気を敏感に感じ取ってしまう。エステルは風に吹かれた目元に違和感を感じ、思わず瞼を閉じた。
風が止み、再びゆっくりと目を開く。その視界の中でラトの目が大きく開かれ、あの青緑色の煌めきが鮮やかに目に入った。夕日と対照的なその色があまりにも綺麗で、エステルはもう一度ゆっくりと瞬きをしながら微笑む。
「色々と助けてくれてありがとう、ラトさん。これからも宜しくお願いします。」
「え?…あ、ああ。」
夕日のせいだろうか、ラトの頬が僅かに紅潮して見えるような…いや、気のせいだろう。もしくは風の冷たさで赤くなってしまったのかもしれない。
エステルはなぜか動きを止めてしまったラトの横をスッと抜けて彼の前を歩いていく。
すでに夕日は沈みかけており、それは山の向こうで一晩の眠りにつこうとしていた。
二人は互いにまだ多くの謎を抱え込んではいたけれど、今この美しい景色の前では全てを忘れていたいと、エステルは小さくそう願っていた。