プロローグ
それは遠い遠い昔のこと。
平和で、愛に満ちた世界が長く永く続いていた神話の時代。
この世界には神と、その神に誠実に仕える四大天使達が存在していた。
その神に名はなく、世界の全てを創造し、最後に人間を造った。神はか弱くも迷いながら自らの命のあり方を模索していく人間というその存在を、その世界の何よりも愛し、慈しんでいた。
神は愛する『人間』のために、まず最初に彼らの命を守るための『自然』を生み出し、それを豊かに育んでいった。
次に『人間』が増えていくにつれ必要となる自然の繁栄や調整を、『精霊』という肉体は持たないが自然の力を増幅させることができる存在に任せた。
さらに『人間』の肉体の弱さを補うために、そして彼らを自然の脅威から守るために、特別な能力を授けた『聖獣』という存在をその側に置いた。
そして最後に神は、愛する『人間』のためにそれらの存在全てを《大天使達》に管理させ、調和を保ちながら人間達がこの世界で穏やかに暮らせるようにと、全てを完璧に整えていった。
しかし時が流れ、その素晴らしい世界に慣れてしまった人間達は、その恩恵を当たり前のものだと思うようになり、次第に自分達を心から愛してくれている存在である《神》をも忘れていってしまった。
完璧な恵みと美しさを与えてくれる自然、その自然をより豊かに育んでいく精霊達、時に暴力的に振る舞う自然の脅威から人間を守護する聖獣達。
これほどの愛を与えられ贅沢を享受していても、人間達が満足することは決してなかった。その欲望は肥大し続け、少しずつ、だが確実に、人間達はこの世界の調和を壊し始めていた。
そんな中、『人間』『自然』『精霊』『聖獣』この四つそれぞれを管理する大天使達は、いつしか人間に《神》と間違えられるようになっていく。名もなき神を信じ祈りを捧げていた者達は異端者として辺境へと追いやられ、彼らが言い伝えてきた大天使達の名がそのまま新たな信仰として、つまり神として世に広まっていった。
『人間』を管理するアシュタール、『自然』を管理するモノモス、『精霊』を管理するヴァイラー、そして『聖獣』を管理するノクトル。
彼らは各々が守るべきものを守り、かつ神の人間への愛を形にするためにその役割を常に全うしていたが、人間のあまりにも身勝手な行動に、密かに不信感を募らせている者もいた。
そして、運命の日が訪れる。
人間達はその頃、各地に大小様々な国を作り、繁栄を謳歌していた。特に人々は精霊達の力を上手に活用した道具を作成し、その恩恵に預かって便利で快適な生活を送っていた。
しかし権力への執着を持ち始めた一部の人間達によってそれが悪用され始めるようになり、さらに人間同士の争いごとに、聖獣の力を借りようとする者まで現れ始めた。
この頃、まだ聖獣達は人間と共存し、その高い能力と知性を活かして人々の命を守っていた。
だが欲望に終わりのない人間の一人であったとある王国の王子が、隣国との戦争に勝つために、そしてより強い力を得るために、不敬で無謀な計画を立て始めたのだ。
それは「聖獣を戦争に利用する」という恐ろしい計画だった。
彼はそれまでにも、精霊達が与えてくれる愛と感謝の力を特殊で強力な武器として使う、という許されざる行為を続けていた人物だった。彼の妻と幼い子供達は余計な口出しはできなかったが、そんな彼をいつも不安げに見守っていたという。
当然愚かな彼はそんな家族の思いに気付くこともなく、今度は聖獣までも己が支配下に置けるのではないかと、その力を使えば戦争にも容易く勝てるのではないかと考え始めた。
だがその目論見は、最悪な形で終わりを告げる。
ホーリスという名のその王子は、ある時ついに、誤って聖獣を殺してしまったのだ。
それは本来であればあり得ないことだった。人間の力で彼らのような神に近い存在を傷つけることはまずできない。だが彼は精霊道具を悪用した武器をいくつも仕掛け、罠を張り、まだ幼い聖獣を捕らえようと画策した結果、不幸にもその攻撃の一つが聖獣の急所を貫いてその命を奪ってしまったのだ。
だがその瞬間空に突然暗雲が垂れ込め、耳を劈くような雷鳴が辺りに轟き、強烈な稲妻が王子の体を直撃した。
そしてその真っ黒に淀んだ雲の中から、『聖獣』を管理する大天使ノクトルが姿を現した。
はっきりとした顔貌が見えたわけではなかった。だがその巨大な翼と大きな黒い人型の影、そしてその周囲を覆うように光り続ける稲妻は、この世の終わりが訪れたのだと人々に確信させるほど恐ろしいものだったと後に伝えられている。
人間達はその凄まじい光景に逃げ惑い、神に祈り、命乞いをし、山や洞窟へと逃げ込んでいく。
だがノクトルの怒りはそれでは収まらなかった。
雲はさらに厚みと黒さを増し、強風と豪雨が各地を襲っていった。その雨は十日間休みなく降り続き、その水は黒々と澱んで地上を舐め尽くしていったという。
美しかった森や山々、川や海も全て黒く汚れていき、人々は絶望の中でただただ時が過ぎるのを待つしかなかった。
白く輝きを持っていた聖獣達の一部もまた黒く恐ろしい姿にその形を変異させていき、それらは魔獣として、繰り返しその地に湧き出しては人々を襲う存在となっていった。
精霊達は肉体を持たないため、汚染されたり呪いを受けたりすることは無かった。しかし呪いを受けた人々との精神的な繋がりは全て切れてしまったため、彼らは身を潜め、その力を完全に隠してしまった。
そうして訪れた十一日目。
人間達の体にも変化が起こり始めた。
人々はこの十日間の間にその黒い水にすっかり汚染されていた。初めは何の変化もなかった。だが次第に病を持つ者、怪我が治らない者、原因不明の痛みや苦しみを感じる者達が多く現れ始める。
さらにそうした人々の中に、奇妙な力を持つ者達が現れた。
水や火を自在に操れる者、遠くまで見通す力を持つ者、物体を移動したり形を変えられる者…
だがその力を使えば使うほど、人々は痛みや苦しみに喘ぐこととなった。それを人々は『呪い』あるいは『嘆きの力』と呼び、精霊の力を利用できなくなったことで、その新しい力と苦しみとの共存の道を模索するようになっていった。
そしてあのホーリスという王子には、アシュタールから大きな責務が与えられた。
聖獣殺しという罪を背負った彼は、ノクトルの怒りの一撃では死ななかった。だがそれは決して幸せな結果とは言えなかっただろう。
なぜなら彼は、アシュタールからこう告げられたからだ。
「ホーリス・リー・マリシュ、お前とお前の子孫達には半永久的な苦悩と責を負わせる。人々が背負う必要のなかった苦しみや痛みを受けることになり、大天使ノクトルが心を地に落としたのはお前のせいだ。ノクトルは多くの聖獣、人間達に呪詛を撒き散らし、さらに深く暗い場所、異界の地へと潜っていった。だがこれからもその地から人々を呪い続けることだろう。お前には死を望むほどの苦しみと痛み、そして気の遠くなるような時間を授ける。その力と時間を使い、人々の呪いを引き受け、地上に現れるノクトルの呪詛から人々を守るのだ。この契約は子々孫々にまで受け継がれ、呪いを受けていない人間『神の愛し子』と出会う、その時まで続く。」と。
それから時は流れ、流れ、また流れて、人間達はその呪いの終わりが見えぬ世界で逞しく生きぬいていた。
そしてそんな世界に残されたたった一人の『呪いを受けていない人間』、『神の愛し子』の運命が、本人とその周りの人々の人生を、世界を、大きく動かすことになる…