第48話 聖なる滋養食と、氷の涙
「…王妃陛下」 アルト様が、蘇った不死鳥(ただし、顔色はまだ死人)の勢いで、私の前に「神の恵み」とされる食材リストを広げた。 「『太陽の果実』『神の泉の聖水』『聖なる薬草』。この三種、王宮の威信と、私の胃の残骸にかけまして、最高品質のものを調達いたしました」 「ありがとう存じます、アルト様」
宿舎に併設された厨房は、今やアストリアの命運を賭けた「聖域」と化していた。
「しかしマティルド、本当にこれだけで…その、神官長をギャフンと言わせるものが作れるのか?」 レオニード陛下が、テーブルに並べられた質素な食材――高糖度だが小ぶりな果実、清らかな水、数種類の乾燥ハーブ――を、不安そうにつついている。 「うーん、これ、あたしの出番なさそうじゃないですか? 小麦粉もバターも使わないんじゃ、力仕事が…」 「いいえ、フローラ。あなたの出番ですわ」
私はにっこりと微笑み、最大の難関である「太陽の果実」を指差した。 「この果実を、一滴の『堕落』も許さぬよう、完璧に裏ごしし、その果汁だけを絞り出さなければなりません。それも、樽三つ分。あなたのその、ディルフィアの熊をも倒す腕力が必要ですわ」 「! 任せてください! 神官長の石頭を握りつぶすイメージで、握りしめてやります!」 「フローラ工房長!『神の恵み』ですぞ! 敬意をお払いなさい!」
厨房は、奇妙な熱気に包まれた。 砂糖も、蜂蜜も、バターも使わない。 私が頼るは、この国の聖なる食材が持つ、純粋なポテンシャルのみ。
「陛下、火加減をお願いできますか? 弱火で、決して焦がさぬよう…」 「う、うむ!任せろ!(…火力が強すぎる!)」 「きゃー!陛下、それじゃ聖水が蒸発しちゃいます!」 「アルト様!『聖なる薬草』の選別を! 苦味の強いものは、この繊細な味の邪魔になります!」 「かしこまりました!(私の人生のように苦い薬草は、全て排除いたします…!)」
数時間後。 厨房には、かつてないほど清らかで、清冽な、それでいて脳を溶かすほど甘い香りが満ち満ちていた。 「太陽の果実」の糖度と、「聖水」の清らかさ、そして「聖なる薬草」の香りが、奇跡的なバランスで融合した、透明な黄金色のゼリー。
「…すごい」 レオニード陛下が、ゴクリと喉を鳴らす。 「これは…『お菓子』ではないな。まるで…『飲む宝石』だ」 「ふふ。名付けて『太陽の涙』。神官長閣下への、私たちからの最後のご挨拶ですわ」
翌日、神聖大聖堂。 私とレオニード陛下は、最高神官長の前に、再び二人だけで立っていた。 アルト様とフローラは、アレクと共に宿舎で待機だ。(アルト様は「私の胃は、もうここには立ち入ることはできません…」と、宿舎の壁に十字を切っていた)
「…まだ、何か」 神官長の冷たい声が、大理石の床に響き渡る。 「堕落の言い訳でも、聞きに来たとでも? 異教徒の王妃よ」 「いいえ、神官長閣下」 私は、臆することなくその視線を受け止めた。 「昨日のご無礼のお詫びと、そして、この国の神への『感謝』を捧げに参りました」
私がそっと差し出したのは、質素な木の盆。 その上に、神聖国の聖杯(アルト様が必死で手配した)に盛られた、あの黄金色のゼリーが、朝日を浴びて清らかに輝いていた。
神官長の眉が、ピクリと動いた。 「…これは」 その目が、私を射殺さんばかりに睨みつける。 「最後の最後まで、私を、そして我が国の神を、その『甘き堕落』で愚弄するか!」
「お待ちくださいまし」 私は、静かに首を横に振った。 「これは、わたくしたちが『お菓子』と呼ぶものではございません」 「なんと?」 「神官長閣下。その聖杯に満たされているものは、一体何でございましょうか?」
私は、ゆっくりと、言い聞かせるように告げた。 「そこにあるのは、この国の『神の泉の聖水』。この国の『太陽の果実』。そして、この国の『聖なる薬草』。 わたくしどもの国の『堕落』は、一滴たりとも入っておりません」
神官長の、氷のような仮面に、初めて動揺の色が走った。 「そ、それは…まさか…」
「わたくしは、ただ、皆様の神が与えてくださった素晴らしい恵みを、敬意を込めて、あるべき姿にしただけ。 これは『お菓子』ではございません。あえて呼ぶなら、『聖なる滋養食』」
私は、一歩前に進み出た。 「さあ、お答えください、神官長閣下。 皆様が『神の恵み』と崇める、その清らかなる果実の『甘さ』は――」 「わたくしたちアストリアが『悪魔の誘惑』と呼ぶべき、罪なのでしょうか?」
「「「………」」」
神官長は、完全に言葉に詰まった。 私のロジック。それは、彼が「イエス」と答えれば、自らの神の恵みを「罪」だと認めることになり、「ノー」と答えれば、「甘味(神の恵み)」を許容することになる、完璧な詰み(チェックメイト)だった。
神官長は、わなわなと震えながら、聖杯に盛られたゼリーと、私の顔を交互に見た。 そして、まるで毒でもあおるかのように、震える手でスプーンを掴み、その黄金の一片を口に運んだ。
…静寂。 レオニード陛下が、ゴクリと唾を飲む音が響く。
次の瞬間。 神官長の、常に冷たく閉じられていた目が、驚愕に、大きく、大きく見開かれた。
(((食べた!!!)))
口の中に広がったのは、砂糖のような暴力的な甘さではない。 大地と太陽が、どれほどの時間をかけて育んだのかと、思わず天を仰ぎたくなるような、清らかで、深く、そしてどこまでも優しい、慈悲に満ちた甘露の味だった。
「…あ…」
神官長の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇る。 まだ厳格な規律を学ぶ前、幼い彼が、神殿の庭で迷子になり、泣いていた時。先代の、優しかった神官長が、そっと手のひらに乗せてくれた、あの「太陽の果実」のかけら。 禁じられていたはずの、あの「甘さ」。 それは、「堕落」の味ではなく、ただただ温かい、「慈悲」と「許し」の味だったではないか――。
ポツリ。 神官長の、乾ききっていたはずの目から、一筋の涙がこぼれ落ち、聖杯に「太陽の涙」を落とした。
「…これは…なんと…」 彼は、まるで幼子のように、声を震わせた。 「…これは、『堕落』の味ではない…。 これは…神の…神の、『慈悲』の味がする…!」
神官長は、その場に崩れ落ちるように膝をつき、聖杯を抱きしめたまま、静かに、静かに泣き続けた。 何十年もの間、彼自身が「規律」という名の鎧で凍らせていた心が、私の作った「聖なる滋養食」によって、ついに溶かされた瞬間だった。
宿舎に戻る馬車の中。 「…マティルド」 レオニード陛下が、まだ信じられないといった顔で、私の手を強く握りしめていた。 「…君は、本当に…『聖女』だったのだな」 「いいえ、陛下。私は、ただの食いしん坊なパティシエですわ」 私は、にっこりと微笑んだ。
宿舎の扉を開けると、そこには、生きた心地がしない顔で待機していた、アルト様とフローラが飛び出してきた。 「「マティルド様(王妃陛下)!!」」
「…ふふ」 私は、二人に、最高の結果報告を向けた。 「アルト様、フローラ。交易ルート、無事に開通ですわ。 ――ただし、『お菓子の持ち込みは厳禁(ただし、聖なる滋養食は推奨)』だそうですけれど」
「「やっっったーーー!!(やった…!)」」
フローラの歓声と、アルト様の、安堵と、もはや胃液が逆流するほどの疲労から生まれた、乾いた安堵の息が、テオクラティアの厳粛な空に、ほんの少しだけ、甘い香りを添えたのだった。




