第46話 神聖なる儀式と、禁断の(無糖)クッキー
テオクラティア神聖国の宿舎で迎える朝は、まるで深海にいるかのような静寂と共にやってきた。 差し込む光は白く、空気は冷たく、そして何より、バターが焼ける甘い香りがしない。
「うぅぅ…」 宿舎の一室で、フローラがベッドから幽霊のように這い出してきた。 「マティルド様…ダメです…あたし、糖分が足りなくて、指先が震えてきました…。この国、生きてる楽しみってあるんですかね…?」 「フローラ、声が大きいですわ。昨日あれほど言われたばかりでしょう」 「だってー!」
私たちがひそひそと(主にフローラが一方的に)文句を言い合っていると、レオニード陛下が、すでに不機嫌を隠そうともしない顔で部屋に入ってきた。 「ふん。静寂とは言うが、活気がないだけではないか。アストリアの朝なら、今頃はパン屋のいい匂いと、人々の笑い声で満ち溢れているというのに」 「陛下、お言葉ですが、ここはアストRIAではありませんのよ」 「わかっている!」
その時、宿舎の扉が厳かにノックされた。 入ってきたアルト様は、昨夜よりもさらに顔色を悪くしている。まるで上質なディルフィアの小麦粉のように真っ白だ。
「…陛下、王妃陛下。ご起床でしょうか。…『good morning』と申し上げるべきか、甚だ疑問ではございますが…」 「どうしたアルト。まさか、もう追い出されるのか?」 「いえ…」 アルト様は、震える手で羊皮紙を広げた。 「最高神官長閣下より、『アストリア国王ご一行の魂を浄化するため』、早朝の神聖なる儀式へのご参列を、強く、強く、強く、ご命令賜りました」
「儀式?」 フローラが、一瞬だけ目を輝かせた。 「もしかして、儀式用の甘ーいお菓子とか出ますかね!?」 「…(こめかみを押さえ)フローラ工房長」 アルト様の声が、地を這うように低くなる。 「その儀式とは、冷たい石畳の上で三時間立ち続け、ひたすらに『甘味の罪』と『堕落の恐怖』についての神官長のお言葉を聞き続ける、というものでございます」 「「「じ、地獄…!!」」」 私と陛下とフローラの声が、見事にハモった。
アルト様は、そっと懐から胃薬の瓶を取り出し、まるで儀式のようにそれを一錠あおった。 「…皆様、ご覚悟を。これは、間違いなく『試練』です」
神聖大聖堂は、朝の冷気で、肌を刺すように寒かった。 装飾のないだだっ広い空間に、神官長の乾いた声だけが、不気味に響き渡っている。
「――かくして、堕落の悪魔は、甘き香りをまといて人の心を蝕む。蜜の味は罪の味。バターの香りは地獄の香り…」
(…私の愛するお菓子たちが、なんという言われようかしら…!) 私は、必死でポーカーフェイスを保つ。 隣では、レオニード陛下が「早く終わらないか」というオーラを全身から発散させ、フローラに至っては、立ったままカクンカクンと船を漕ぎ始めている。
一時間経過。 二時間経過。 神官長の「甘味=悪」説法は、いよいよ熱を帯び、終わりが見えない。
(まずいわ…) 私が焦り始めたのは、他でもない。 私の腕の中で、大人しくしていたアレクが、ついに我慢の限界を迎えたからだ。
「…んぅ…まんま…」 アレクが、私の胸元でぐずり始めた。 (だめよ、アレク! ここは静かにしないと…!) 私は、小刻みにアレクを揺らす。だが、空腹と退屈には勝てない。
「んーんー! おうち、かえるー!」 ついに、アレクの泣き声が漏れ始めた。 その瞬間、大聖堂の厳粛な詠唱が、ピタリと止まった。
「「「「「………」」」」」 神官長と、並んでいた神官たちの、冷ややかな視線が、一斉に私たちに突き刺さる。
「…赤子が、泣いておるな」 神官長が、氷のような声で言った。 「心の鍛錬が足りておらぬ証拠。それもまた、親の堕落が伝染したか」 「なっ…!」 レオニード陛下が、激昂しかける。
「うえぇぇん!いやーっ!かえるのー!!」 アレクの泣き声は、もはやボルテージMAXだ。 (どうしましょう…! このままでは、本当に『神の敵』認定されてしまう!)
私は、一瞬の葛藤の末、決断した。 (ごめんなさい、神官長閣下! ですが、息子の涙は、外交問題より優先ですわ!)
私は、ドレスの奥深く、侍女にもアルト様にすらも内緒で忍ばせていた、小さな、小さな布袋に手を伸ばした。 そして、そこから、一枚の地味な、ベージュ色の物体を取り出した。
「アレク、しーっ。ほら、『つよい子のビスケット』ですよ」
それは、アストリアを出る前に、アレクのぐずり対策用に私が焼いておいた、特別なビスケットだった。 砂糖も、蜂蜜も、バターも一切使っていない。ただ、ディルフィアの栄養価の高い穀物と、少量の塩だけで焼き固めた、味も素っ気もない、まさに「携行食」。 これなら、「甘味」ではない。言い逃れができるはず…!
アレクは、泣き顔のまま、私の手のひらにある「食べ物」を認識した。 「…びしゅけ…?」 彼は、しゃくりあげながら、そのビスケットを小さな手で掴むと、反射的に口に放り込んだ。 カリッ、ポリポリ…。 アレクは、泣くのも忘れ、無心でそれをしゃぶり、かじり始めた。
「「「(はぁぁぁ…)」」」 私と陛下とアルト様(と、いつの間にか起きていたフローラ)から、安堵のため息が漏れた。 泣き声が止み、再び静寂が戻る。
…はずだった。
「――お待ちなさい」
神官長が、ゆっくりと祭壇から降りてきた。 その冷え切った目が、アレクの小さな手を、正確には、その手に握られたビスケットの「カケラ」を、射抜いていた。
「国王陛下。…今、その赤子が口にしたものは、何ですかな?」 「なっ…」 レオニード陛下が、息をのむ。 「そ、それは…赤子用の、歯固めだ! そう、医療用の!」
「医療用、ですと?」 神官長は、私の目の前でピタリと止まった。 その鼻が、くん、と微かに動く。 「…医療用にしては、随分と…『香ばしい』匂いがいたしますな。穀物が、焼かれた匂いが」
「ひっ…!」 フローラが小さく悲鳴を上げた。 (この人…鼻が利く!?)
「マティルド王妃」 神官長が、私を睨み据える。 「貴女、この神聖なる儀式の場で、赤子に何を与えた?」 「こ、これは『お菓子(Kashi)』ではございません!」 私は、必死で反論した。 「砂糖も蜜も不使用です! ただの焼き穀物! 栄養補給のための、質素な『食事』ですわ!」
「嘘をおつきなさい!!」 神官長の、甲高い怒声がホールに響き渡った。 「『食事』は、定められた時間に、定められた場所で、定められた量のみを摂るもの! それ以外の時間に! 快楽のために穀物を焼き固め! それを口にするなど!」
神官長は、私を、そして私に抱かれたアレクを、骨ばった指で突きつけた。 「それこそが『堕落』! それこそが『甘え』! 悪魔の所業そのものではないか!」
その剣幕に、アレクが再び「ひっ!」と声を上げ、驚いた拍子に、食べかけのビスケットが小さな手からこぼれ落ちた。
カラン…
小さなビスケットが、静まり返った大理石の床に転がる音が、やけに大きく響き渡った。
神官長は、床に落ちた「禁断の物体X」を、まるで毒蛇でも見るかのように見下ろし、わなわなと震え始めた。 「き…貴様らぁぁ…! 神聖なる我が聖堂を! 『お菓子』で汚したなああぁぁッ!!」
ついに、神官長の理性が切れた。 「もう許さん! この交渉は、決裂だ! 異教徒どもを宿舎へ連れ戻せ! アストリアは、今この瞬間より、神聖なる交易路から追放する!」
「な、なんだと!?」 「そんな、ビスケット一枚で!?」 陛下とフローラの抗議も、狂信的な兵士たちの壁に阻まれる。
私たちが、まるで犯罪者のように大聖堂から連れ出される間際。 私は、ホールの隅で、アルト様が真っ白な大理石の柱にずるずると崩れ落ちていくのを、確かに見た。
「あ…あぁ…神よ…」 アルト様は、天を仰ぎ、まるで殉教者のように呟いていた。 「私の…私の胃が…ついに、神に召されてしまう…! アストリアの未来も…私の胃も…もう、おしまいだぁぁ…!」
神聖なる大聖堂に、アストリア宰相の、この世の終わりのような絶叫が響き渡った。




