第32話 ディルフィアの嵐(スイーツの香り付き)来襲!
アストリア王妃としての私の日常は、それはもう「心得帳」との格闘、そしてカサンドラ女官長の厳しい(愛の鞭だと信じたい)ご指導との戦いの連続だった。刺繍の練習では、なぜか私の手から生み出される鳩はことごとくアヒルになり、歴史の勉強では、歴代王妃の名前より新作ケーキのレシピの方がスラスラと暗唱できてしまう始末。
「はぁ…王妃への道は、一日にして成らず、ね…」
私が、山積みの公務書類の合間にこっそり隠し持っていた「ディルフィア産はちみつバタークッキー(疲労回復効果あり!とフローラが力説していた)」を頬張り、糖分補給をしていた、そんなある日の午後。
謁見の間に、突如として吉報(一部の者にとっては凶報かもしれない)が舞い込んだ。
「マティルド王妃陛下! ディルフィア王国からの公式使節団が、ただいま王都ルミナスにご到着されました!」
ディルフィアからの使節団!? もしや…!
私の胸が高鳴るのとほぼ同時に、謁見の間の重厚な扉が、まるでディルフィアの春の嵐のように、バーン!と勢いよく開かれた。
「マティルド様ぁぁぁーーーっ! 会いたかったですぅぅぅーーーっ!!」
そこに立っていたのは、紛れもなく、我が愛すべき親友にして、ディルフィアの誇る(自称)「スイーツ界の最終兵器」、工房長のフローラだった! 彼女は、両手に抱えきれないほどの巨大なバスケット(中身は十中八九、お菓子だろう)を揺らしながら、王宮の赤い絨毯の上を、まるでディルフィアの牧草地を駆け抜ける子羊のように(ただし、その勢いは暴れ牛に近い)私めがけて突進してくる。
「フローラ! あなた、どうしてここに!? しかも公式使節団って…」
「えへへ! アルト様が『王妃陛下への近況報告及び、両国の友好を深めるための文化交流の一環として、ディルフィアの最新スイーツを献上する』っていう、なんかすごーく難しい理由をつけて、あたしを団員に入れてくれたんです! もちろん、マティルド様がアストリアで寂しい思いをしてないか、このフローラがしっかりチェックしに来たのが一番の理由ですけどね!」
フローラはそう言うと、私の隣で固まっていたレオニード国王陛下(彼女の中ではまだ「殿下」呼びらしい)の目の前に、バスケットから取り出した巨大なパイをドン!と置いた。
「殿下! これがディルフィアの最新作、『食べたら恋が実る(かもしれないし、叶わないかもしれないけど、とりあえず一口食べたら幸せな気分にはなれること間違いなし)ドキドキベリーパイ・アストリア遠征スペシャルバージョン』です! どうぞ、マティルド様とご一緒に!」
「おお! さすがフローラ嬢! 君の作るパイは、見た目からして情熱的だな! マティルド、後で二人でこっそり…いや、皆でいただこうではないか!」
レオニード陛下は、子供のように目を輝かせている。その隣では、使節団長として威厳を保とうと努力しているアルト宰相(いつの間にか昇進していた)が、額に青筋を浮かべ、深々とため息をついていた。
「…フローラ工房長。ここはアストリア王宮の、厳粛なる謁見の間ですぞ…! そのような、個人的感情と食欲を前面に押し出した言動は、国際問題に発展しかねませんので、くれぐれも…」
アルト様の悲痛な訴えも、フローラの太陽のような笑顔と、ベリーパイの甘酸っぱい香りの前には、なすすべもないようだった。
その日から、アストリア王宮には、明らかにディルフィアの自由すぎる(そして、ちょっと騒々しい)風が吹き荒れることになった。
フローラは、王宮の堅苦しい空気などどこ吹く風。持ち前の明るさと、誰とでもすぐに打ち解けるコミュニケーション能力(という名の、遠慮のなさ)で、侍女たちに「ねえねえ、アストリアのイケメン騎士ってどこにいるんですか?」「このお城、隠し通路とかありませんかね?」と気さくに話しかけ、あっという間に彼女たちの人気者になっていた。もちろん、お土産として持参したディルフィアのクッキーやキャンディーを惜しげもなく配りまくった結果、侍女たちの間では「フローラ様(なぜか、マティルド王妃陛下と同格の敬称で呼ばれるようになっていた)」の愛称で親しまれるように。
その一方で、カサンドラ女官長の眉間の皺は、もはやグランドキャニオンもかくやというほど深まり、彼女の頭痛と胃痛の原因リストに「フローラ工房長」という項目が、太字で追加されたことは言うまでもない。
「アストリアのお菓子も、見た目はすっごく綺麗で美味しいんですけど、やっぱりマティルド様が作る、あの心がホッとするようなディルフィアの味が恋しいでしょう?」
そう言って、フローラはこともあろうに、アストリア王宮の神聖なる厨房にまで、まるで自分の工房のようにズカズカと入り込んでいったのだ!
最初は「な、何奴!? 聖域を荒らすでない!」と青龍刀(もちろん嘘、ただの大きな包丁だ)を構えて警戒していた強面の料理長や、伝統と格式を重んじる料理人たちも、フローラが手際よく作り上げる、素朴で温かいディルフィアスイーツ――ふわっふわの卵カステラや、おばあちゃん秘伝のアップルパイ、そして私の得意な「幸せ運ぶチーズスフレ」など――の、抗いがたい美味しさの前に、次々と陥落。
いつの間にか、王宮の厨房は、フローラを中心とした「ディルフィア流・ゲリラお菓子教室」の会場と化し、「フローラ師匠!このカステラの泡立てのコツを!」「フローラ先生!アップルパイのリンゴの煮詰め具合が!」などと、活気に(そして甘い香りに)満ち溢れることになった。カサンドラ女官長がその光景を目撃した際には、あまりの衝撃に白目を剥いて卒倒しそうになり、アルト様がそっと気付け薬(もちろんディルフィア産のハーブから抽出した特製)を嗅がせていた。
そのアルト様はといえば、ディルフィア宰相としての公務をこなしつつ、私の「ゆるふわスイーツ革命」の進捗状況と、アストリア王宮内の複雑なパワーバランス、そして何よりもフローラの行動予測と被害(主に胃への)極小化対策に、日々頭脳をフル回転させていた。
「…マティルド王妃陛下。フローラ工房長のその底抜けの明るさと行動力は、確かに王宮内に新たな風を吹き込んでいますが、伝統と秩序を重んじるアストリアの貴族社会においては、時に劇薬ともなり得ます。彼女の自由奔放な行動が、外交問題に発展しないよう、私も最大限の努力はいたしますが…いかんせん、彼女のエネルギーレベルは、私の胃腸の許容量を遥かに超えておりまして…」
そう言って、アルト様は懐から取り出したディルフィア製の胃薬(最近、アストリアでも密かなブームになっているらしい)を、ぐいっと飲み干した。彼の胃痛は、どうやら国境を越えても健在のようだ。
そんなある日、例の保守派貴婦人たちの筆頭である侯爵夫人が、カサンドラ女官長に「王宮の厨房が、ディルフィアの田舎娘に占拠されていると聞きましたわ! 王家の食卓の品位が汚されるなど、断じて許せません!」と、ねじ込んできたらしい。
その報告を受けたカサンドラ女官長は、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、鬼のような形相で厨房へと乗り込んできた。
「フローラとやら! あなたの好き勝手は、もう見過ごせません! ここは神聖なるアストリア王宮の厨房! ディルフィアの田舎料理人が、土足で踏み荒らしてよい場所では…!」
しかし、そのカサンドラ女官長の怒声は、途中で不自然に途切れた。なぜなら、フローラが「あら、女官長様!ちょうど良かった!これ、ディルフィアで昔からお母さんが作ってくれた『思い出のジンジャークッキー』なんです!ちょっとピリッとしてて、体が温まるんですよ。どうぞ!」と、焼きたてのクッキーを彼女の口にポンと放り込んだからだ。
最初は「な、何を…!」と抵抗しようとしたカサンドラ女官長だったが、口の中に広がる生姜の刺激的な香りと、黒糖の優しい甘さ、そしてどこか懐かしいその味わいに、彼女の厳格な表情が、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、和らいだように見えた。そして、誰も見ていないことを確認すると、もう一枚、そっとクッキーを自分のポケットにしまい込んだのを、私とフローラは見逃さなかった。…ふふ、女官長も、人の子ね。
レオニード国王陛下は、そんな王宮内の小さな(そして時々大きな)変化を、どこか楽しそうに眺めている。
「マティルド、君の故郷の友人は、実に太陽のような女性だな。彼女がいると、この少し堅苦しい王宮も、なんだか人間味が出てきて面白い。まるで、君が初めてここにやって来た時みたいだ」
そう言って、彼は私に優しく微笑む。その笑顔は、どんな高級な砂糖菓子よりも甘く、私の心を温かく満たしてくれる。フローラの持ち込んだディルフィアの風は、確かに騒々しいけれど、それは間違いなく、このアストリア王宮に、新しい彩りと、たくさんの笑顔を運んできてくれているのだ。
ディルフィアからの使者(という名の、可愛くて美味しい嵐)は、アストリア王宮に、さて、これからどんな波紋を広げていくのだろうか?
私の「ゆるふわスイーツ革命」は、思わぬ強力な(そして自由すぎる)助っ人の登場で、ますます予測不可能な方向へと加速していくのかもしれない。
そして、アルト様の胃薬の消費量だけが、今日もまた確実に、着実に、増加していくのだった。…合掌。




