第21話 春風はアストリアの香り(と、胃薬の予感)
国際スイーツ品評会での、あの虹色の奇跡から数年の月日が流れた。
私の故郷ディルフィア領は、今や「世界一甘くて美味しい場所」として、その名を大陸中に轟かせている。かつての、のどかで少し寂れた面影はどこへやら、街には活気があふれ、港には外国の船がひっきりなしに出入りし、私の設立した「マティルド国際製菓アカデミー」には、世界中からパティシエの卵たちが集まってくる。
そして、何を隠そうこの私、マティルド・フォン・グリュースは、今や「聖女スイーツ令嬢」なんていう、ちょっと(いや、かなり)気恥ずかしい二つ名で呼ばれ、ディルフィアの領主代理として、そしてアカデミーの最高顧問として、それはもう猫の手も借りたいほど多忙な毎日を送っていた。
「マティルド様ー! 緊急連絡です! ミスティリアのルナちゃんから魔法通信で、『恋が叶うと噂の七色マカロン・改良版』のレシピが届きましたー! なんでも、これを意中の人に食べさせると、メロメロになる確率が3割増しだとか!」
執務室の扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、我が愛すべき親友にして、今や「マティルド工房」の頼れる工房長となったフローラだ。彼女のその手に握られた羊皮紙には、確かに虹色の可愛らしいマカロンのスケッチと、解読不能な魔法文字(ミスティリア語だろうか?)がびっしりと書き込まれている。
「まあ、ルナちゃんったら、相変わらずね。でもフローラ、今は大切な会議中なの。そのマカロンの材料費と輸入関税、そして魔法によるアレルギー反応の危険性、並びに恋愛成就効果の科学的根拠についてのレポートを、後でアルト様に提出するように伝えてちょうだい」
私の冷静な(?)指示に、執務机の向かいで山のような書類と格闘していた宰相補佐のアルト様が、ピクリと眉を動かした。
「…フローラ工房長、執務室ではお静かに願います。それとマティルド様、その『恋愛成就効果3割増し』という非科学的な触れ込みのマカロンを、まさか公式行事でお出しになるおつもりでは…?」
「あら、アルト様。夢があってよろしいじゃないですか。お菓子は科学であり、芸術であり、そして時には…愛のキューピッドにもなるのですから」
私がにっこり微笑むと、アルト様は深いため息をつき、「ディルフィア領のここ数年の目覚ましい経済発展と国際的地位の向上は、全てマティルド様の類まれなる才能とご尽力の賜物と認識しております。交易額は前年比150%増、アカデミーへの入学希望者は定員の10倍を超え、観光客数は…」と、いつものように冷静な報告を始めた。その声には、かつての堅物ぶりは少し和らぎ、私への確かな信頼と、そしてディルフィアの発展を誇る気持ちが滲んでいる。…まあ、その報告の最後に、「しかし、それに伴い聖女様のスケジュールは過密の一途を辿り、私の胃への負担も指数関数的に…いえ、何でもありません」と、小さな声で付け加えるのも、もはやお約束だったが。
そんな、いつもと変わらない(?)ディルフィアの日常に、ある春の日、一通の特別な親書が舞い込んだ。
差出人は、隣国アストリア王国の、レオニード王太子殿下。
美しい金細工の施された封蝋には、アストリア王家の紋章が誇らしげに輝いている。思わず、私の心臓がトクン、と小さく跳ねた。
アルト様が、格式ばった厳粛な口調で、その親書を読み上げ始めた。
「『麗春の候、聖女スイーツ令嬢、マティルド・フォン・グリュース様に於かれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。さて、この度、我がアストリア王国におきましては、伝統ある春の祝祭を執り行う運びとなりましたつきましては、ディルフィア領との更なる友好親善を願い、マティルド様を本祝祭へ正式にご招待申し上げたく…』」
ここまでは、まあ、普通の外交文書だ。しかし、アルト様の声が、ほんの少しだけ、ためらいがちに変わった。
「…えー、追伸、とありますな。『ディルフィアの聖女としてではなく、私の、かけがえのない大切な友人であるマティルド嬢に、アストリアの美しい春を、ぜひとも共に楽しんでほしい。もちろん、君の作る素晴らしい新作スイーツも、心から期待している(特に、以前作ってくれた、あの桃と薔薇の香りのムースをもう一度味わえたなら、私は天にも昇る心地だろう…!)。アストリアで君を待っている。レオニード』…以上です」
………レオニード様ったら!
相変わらず食いしん坊なのはご健在のようだけど、その、なんというか、ストレートな熱意というか、隠しきれていない個人的な感情というか…! 私の頬が、春の陽気に負けないくらい、ぽっぽと熱くなるのを感じる。
「きゃーーーー! マティルド様! 聞きました!? これはもう、デートのお誘いですよ! 春! 祝祭! 恋! しかも、あの桃と薔薇のムースですって!? あれはまさしく『恋の媚薬』と噂の…! 絶対に行くべきです! 行きましょう! 行ってくださいませ!」
フローラが、私の周りを興奮しながら飛び跳ねている。その勢いは、もはやディルフィア名物の小型竜巻だ。
一方、アルト様は、親書をじっと見つめたまま、難しい顔で腕を組んでいる。
「…ふむ。外交的意義という観点から見れば、今回の祝祭へのご参加は、極めて限定的な効果しか期待できないと判断せざるを得ませんな。しかし、アストリア王国との友好関係維持、及び、王太子殿下の…その、並々ならぬ熱意を無下にすることも、些か…」
珍しく歯切れの悪いアルト様。その銀縁眼鏡の奥の瞳は、明らかに「マティルド様、本当はどうしたいのですか?」と、私の気持ちを問うている。
私だって、悩む。聖女スイーツ令嬢としての立場、領主代理としての責任。それらを考えれば、個人的な感情で軽々しく他国へ赴くべきではないのかもしれない。でも…。
(レオニード様に、会いたい…)
あの国際品評会以来、公務で顔を合わせることはあっても、ゆっくりと二人で話す機会はほとんどなかった。彼の優しい笑顔、お菓子を頬張る幸せそうな顔、そして、時折見せる真剣な眼差し。それらを思い出すだけで、胸の奥がキュンと甘酸っぱくなる。
「…アルト様、フローラ。私、アストリアへ行こうと思います」
意を決して告げると、フローラは「やったー!」と飛び上がり、アルト様は「…かしこまりました。マティルド様のご息抜きも、長期的な視点で見れば、領地の生産性向上に繋がる可能性が微粒子レベルで存在するかもしれませんしな(と、無理やりな理屈で自分を納得させようとしているのが見え見えだ)」と、一つ大きくため息をついた。
「大丈夫ですよ、アルト様! マティルド様がアストリアでレオニード殿下と愛を育んでいらっしゃる間、このディルフィアの美味しいお菓子は、このフローラが責任を持って守りますから! ついでに、アルト様応援のための新作『胃に優しいカモミールと安眠ハーブのほろほろクッキー』も開発しておきますね!」
「…そのお心遣いはありがたいが、フローラ工房長。私の胃の心配よりも、まずはアストリアでのマティルド様の安全と、国際儀礼に則った行動計画の策定を…」
こうして、私の久しぶりのアストリア訪問は、それぞれの思惑と、ほんの少しの恋の予感を乗せて、決定したのだった。
ディルフィアの春風が、窓から執務室へと吹き込み、私の頬を優しく撫でていく。その風は、なんだか海の向こうのアストリアから、甘くて、ちょっぴりスパイシーな恋の香りを運んできたような気がした。
アルト様の鞄が、心なしかいつもよりパンパンに膨らんでいるように見えたのは…うん、きっと気のせいではないだろう。彼の胃薬コレクションに、また新たな伝説が加わるのかもしれない。




