ラストダンスだと思っていた
アーチ形の大きな窓が舞踏会場の周りを囲み、その窓の間にある白い柱は太く、柱を辿って上を見れば、青い空を自由に飛ぶ天使たちが私を見下ろしている。
あの人も今日は、この感謝祭の舞踏会に出席すると聞いた。
第二王子としての、この国での最後の舞踏会だ。
この先、彼がこの国で舞踏会に出ることがあったとしても、その時はジャロウ王国の王配としてだ。
今宵の舞踏会に間に合うはずだった国王夫妻と私の両親は、隣国の会議から帰る途中で何か問題が生じたらしく少し遅くなると言うことで、まだ到着していない。
いよいよダンスが始まる。
本来なら、私はブレイディ第一王子と踊らなければならない。だが、彼はすぐにマイア嬢の手を取っていたから、今宵は踊ることもないだろうと思っていた。
ブレイディに嫌われていても、婚約が解消されたわけではないから、私をダンスに誘う強者などいるはずもない。
私は、さっと身を引き目立たない場所に行こうとしたのだが、なぜかあの人がその青藍色の瞳でまっすぐに私を捉え、迷うことなく私の下に来た。
「レナリア嬢、私と踊ってくれませんか?」
「エドウィン殿下、お誘いは嬉しいのですが......」
彼は間もなくジャロウ王国へ旅立つ。かの国の王女との結婚式が半年後に迫っている。王女はその結婚式を機に、女王へ即位する。
ジャロウ王国の頂点にいるのは女王だ。それは数百年の昔から変わることはない。
王配はそれなりの地位を持っている人間が選ばれるが、女王は基本自由恋愛だ。好きな人と好きに過ごせる。
女王が産む子供は、相手が誰であろうと確かに王家の血を引くのだから、理に適っていると言えば理に適っている。
女王の子供たちは、王配との子供として育てられる。
女の子が生まれない場合は姉妹や叔母などから女子を養女にする。幸いにも今まで王家の血筋は途絶えたことがない。
真実かどうかは知らないが、彼の婚姻の相手の王女にもすでに愛する男性がいると言う話だ。
私が彼の手を取るのを逡巡していると
「レナ、ここまでくれば何の遠慮もいらない」
そう言って、彼は半ば強引に私の手を取った。
確かに私の婚約者ブレイディもマイア嬢と人目憚らず密着して踊っているのだから、もう遠慮する必要は無いのかもしれない。彼の瞳を見つめていると珍しく大胆な気持ちになった。
彼は、私の耳元にそっと口を寄せて、にわかには信じられないことを言った。
「レナ、俺の結婚の話は無くなった」
「はい?」
「それは後でゆっくり話すから、踊ろう。君と踊るのは初めてだ。兄上の婚約者だと遠慮していたからね」
「あなたとのファーストダンスがラストダンスになるのね」
「ラストダンスにはしないよ」
重ねられた手が痛みを持つほどの熱を持ち、それが私の全身を駆け巡る。私はそうして知る。彼を愛しているのだと。報われない愛。
心が苦しさで傷んでも、彼が近くにいることだけが私の支えだった。
彼の右手はしっかりと私の背に回される。こんなに力を入れたら踊りにくいのではないかと思ったが、いざ足を踏み出してみると、私のからだは滑らかに動き出した。
背中に羽が生えて、まるで天井絵の天使のような心地がする。
私たち二人に気付いた人々が、驚いて目を見開いている。
――どうせラストダンスなのだから、あとで何を言われても平気。
「君は美しいな。その琥珀色の髪に触りたい。空色の瞳がずっと俺を見てくれればと願うよ」
「エドウィン殿下」
「昔のように、エドと」
「エド、どうしたのですか急にそんなことを言って」
「全てが分かったんだ。後で話す。今は君と心ゆくまで踊りたい」
冷静なエドのいつもとは違う物言いに困惑したが、私はこのラストダンスを一生の心の糧として生きようと心に誓った。
私は、彼と踊りながら、エドやブレイディと過ごした日々を思い出していた。
私、レナリア・ハーウッドは、このトゥロック王国のハーウッド公爵家の長女だ。下に弟がいるので、家を継ぐことはない。
私の母は大国ラクラン王国の第二王女だった。ラクラン王国はこの大陸一の大きな国で、文化や知識、産業や軍の規模、どれをとっても最先端を行く。
母は、兄と姉と年が離れていた為か、父母である国王と王妃にとても可愛がられて育ったという。そのために彼らは母の嫁ぎ先を決めるのに逡巡していた。
そんな時、ラクラン王国へ留学していた父と母が知り合い、恋に落ちた。
王女なら近隣諸国の王族に嫁ぐのがふさわしいが、二人の意志が固く国王は王族へ嫁がせることを断念した。
だが、二人の結婚を認めるのに条件を出した。それは二人に娘が生まれたらラクラン国王が結婚相手を決めるというものだ。
二人は娘が生まれるかどうかも分からないし、もし生まれても国王の気持ちが変わるように説得を試みよう、と仕方なくその条件を呑んだ。
そして、皮肉にも第一子に私が生まれた。
その前にこの国に双子の王子が生まれていた。
お祖父様であるラクラン王国の国王の気持ちは変わることはなく、この国、トゥロック王国の第一王子と私を婚姻させると決め、こちらの国王に申し出た。国力も国の広さも倍以上のラクラン王国からの申し出に断れるわけはない。
そんなわけで、私がこの国の第一王子と正式に婚約することになったのは五歳の頃だった。彼らは七歳。
母は私たちを小さい頃から馴染ませておいた方が良いだろうと思い、機会があれば双子の兄弟と私を一緒に遊ばせたり、勉強をさせたりした。
双子でも彼らは瓜二つと言うわけでもない。
誰から見ても美人と言うのは第一王子ブレイディの方だった。母親の王太子妃殿下譲りの金髪に青い瞳。子供の頃から誰もがチヤホヤする可愛さだった。
第二王子エドウィンは、ダークブロンドに父親である王太子殿下と同じ青藍色の瞳で、顔の輪郭も少し角ばって、小さい頃はブレイディに比べると地味だった。
二人の性格もかなり違う。
ブレイディは、両親には上手に甘える。
王太子妃殿下は、自分の容姿に似ているブレイディの方を可愛がっていた。
だが、ブレイディは周りから甘やかされていたせいかとてもわがままで、気に入らないことがあるとよく八つ当たりをした。
例えば、勉強を習う先生に宿題が出来てないことを咎められたと言うような時、花壇の花を全部毟るというような行動に出る。
そして、側近候補の少年が「そのようなことはなさらないでください」と窘めようものなら、「未来の国王に向かって失礼な奴」と言って木の枝で背中を叩いたりする。
私やエドウィンが「やめて」と言うと、今度は私たちにその矛先を向ける。
私の腕や肩を叩いたりするので、エドウィンが「レディになんてことするんだ」と怒ると、「何がレディだ。子豚みたいなヤツと結婚しなきゃならないなんて悲しすぎる」と言う。
事実、七、八歳の頃の私は全体的に丸みを帯びた体型をしていた。
エドが掴みかかろうとするから、今度はエドを止める。
そんなことが頻繁に起きていた。
エドは、王太子妃殿下にそのことを伝えたことがあったが、
「自分が王になれないと嫉妬して、ありもしないことを言ってはいけないわ」
そう言われたので、それからはブレイディのことを妃殿下に言うことは止めたと言っていた。
私も何となく両親に言えないでいた。言ったところで、婚約が解消されるわけでもない。それなら彼の変わるのを待とうと思った。
一方、エドの性格はあまり自己主張せず、穏やかな性格だった。それをブレイディは臆病なやつといつも嘲笑っていた。
臆病なら、ブレイディの横暴を止めたりしない。彼は何も分かっていなかった。
私が十歳になるころには、ラクラン王国と我が王国の国王は退位して、王太子にその地位を譲っている。
大きくなるにしたがって、ブレイディの暴力は影を潜めてきたが、嘘や誇張も多くなり、自分の不都合なことは、すべてエドや側近のせいにした。
私だって、黙っているわけではない。
「そんなことでは、皆、あなたから離れて行きます」そう言っても、いつも「うるさい!」の一言で終わってしまう。時折ある婚約者同士の交流は、名ばかりのものだった。
王妃様にエドが『人の物を取り上げたりするのはやめなさい』と注意されたこともあった。
「でも、分かってくれる人はたくさんいるから大丈夫」
エドがそう苦笑いするので、私はため息を吐くしかなかった。
そんな彼が一度だけ、そっと呟いたのを聞いたことがある。
「僕とブレイは市井に生まれていたら、お互いにいたわり合う兄弟になれたのだろうか」
胸が締め付けられるような思いがした。
貴族子女は十三歳で王立学園に入学することになっている。
ブレイディの取り巻きは、ほとんどは下位貴族らしい。彼らは、ブレイディを持ち上げて将来の道を切り開こうとしているのだから仕方がない。いつまでも続くとは思えなかったけれど。
私が学園に入った時には、ブレイディは可愛らしい少女たちを何人も従えて、得意げに学園内を闊歩していた。私はそれを見ても何とも思わなかった。それが、冷たいだの高慢だのと思われた原因かもしれない。
エドは私が入学した時に、お祝いにと、ガラスペンをくれた。それは、今でも宝物だ。
時々は図書室で彼に勉強を見てもらったりもした。彼の友達も良い人ばかりだった。
彼らと地理や歴史、諸外国の事やこの国の在り方などについても良く話したものだ。
その頃から、どうしてエドウィンが私の婚約者でなかったのだろうと思い始めた。
彼が傍にいるだけで心がふわりと浮き立つ。いつも彼がどこにいるのか気になる。彼を見つけると心臓が跳ねる。
最初、私はこれが恋だなんて知らなかった。
図書室で偶然にも二人っきりになった時に、そっと触れ合った手がこれが恋だと教えてくれた。
そしてそれは苦しさの始まりでもあった。
ブレイディは相変わらずで、本来なら食堂で爵位関係なく、昼食を摂ることになっているのだが、彼は別の部屋を借り切って、仲間たちや取り巻きの女の子たちと食べていた。
いつも彼はそこで
「小さい頃に勝手に決められた婚約だ。あんな優しくもない気取った女は嫌だ」
そんな風に私のことを評していると聞いた。
婚約者の第一王子に相手にされない私は、公爵令嬢と言うことで表面的には丁寧に接してくれるのだが、陰では「婚約者に相手にされない可哀そうな人」と言われていた。
そんな私にも友達ができた。最初は名前が似ているということで話し始めたのだが、彼女は「噂なんてしょせん噂でいつか消えるから、気にしないの」という人だった。
名前はサナリア・ハード。伯爵家の次女で、薄茶色の髪に青い瞳がクリクリッとしてとても可愛らしい人だ。一時期、彼女の姉上があちらこちらでサナリアのことを悪く言っていたらしい。
「姉の物を盗む」、「何でも欲しい欲しいとわがままをいう」
「意地悪で使用人からも嫌われている」
あとは暴力をふるうと言うのもあったらしい。お茶会に行った時にサナリアに誰も近寄ろうとしなかったので不思議に思って、こっそり聞いてみたら姉上がいろいろ言っていると教えてくれた。
両親はサナリアのことを特別に可愛がってはいなかったけれど、小さい頃、自分の身体が弱かったことが原因かもしれないと彼女は言っていた。
彼女の姉上は、ブレイディの取り巻きだ。ブレイディと親しくなってから、サナリアはひどい噂を立てられなくなったのだとか。ブレイディと知り合ったことで、妹に対する劣等意識のようなものが無くなったのかもしれない。ブレイディも役に立つことがあるのだと感心した。
サナリアの明るい性格のお蔭で、高学年になるころには友人の輪も広がり、私を悪く言う人はいなくなった。
後に、サナリアは、姉上が伯爵家に出入りしていた商人と駆け落ちをしてしまい、伯爵家を継ぐことになる。
ブレイディは学園を卒業後、法律専門の学校へ二年間通ったのだが、それが役に立ったとは思えないほど執務上のミスが多かった。たぶん、基本をおろそかにした報いが現れたのだろう。
王妃教育の一環として、私もいくつかの執務を担当したのだが、周りの文官たちから、レナリア様に先に文書を回しますので、殿下には署名だけお願いしてください、と言われるようになった。
結果、私はゆっくりとお茶を楽しむことも出来なくなった。
ブレイディはあちらこちらの夜会に顔を出していたが、忙しい私は夜会などに出る余裕はない。そして彼は、ある小さな夜会でマイア嬢と知り合った。
それからは、ブレイディの傍らにはいつも彼女がいた。
さすがに陛下や王妃様、私の両親の知るところとなったが、それでも、陛下のたっての願いで婚約は続行された。
エドが早めに学園の卒業資格を取ってラクラン王国へ留学したのは、彼が十七になったばかりの時だった。
彼がラクラン王国へ出立する前に、母が元王女と言うこともあり我が家に挨拶に来た。
私と彼は庭の四阿でしばしの別れを惜しんだ。
「俺はあきらめないからね」
彼は私の両手を握りながらそう言った。その言葉がとても嬉しくて涙がこぼれそうになった。
エドから来る手紙では、留学先で充実した日々を送っているのが分かった。手紙の最後には『君をいつか堂々と迎えに行きたい』と必ず書かれていた。
そんな日が私達にはやってこないのは分かっていたのに、私も楽しみにしていると書いた。
お祖父様が『第一王子』と言ったのは、王となる人に私を嫁がせたかったからだ。もう少し先を見極めてからでも遅くなかったのではないかと、お祖父様を恨んだ。
彼が三年間の留学を終えて帰って来た時には、すでに彼とジャロウ王国の王女との婚約が調っていた。
私とブレイディは一年後に結婚式を挙げることになっていたから、私たちは王宮ですれ違っても、軽い会釈をすることしかできなかった。
そんな日々が四か月ほど続いた。
ラクラン王国での諸国会議に国王夫妻の補佐としてエドが付いていったのは、三週間前だった。
そして、この感謝祭の大舞踏会が開催された。
私とエドは二曲続けて踊った。
三曲目に入るのに彼は私の手を離す素振りはない。
どうしたら良いのか分からず、私は傍らの彼を見上げた。すると彼の柔かな眼差しが私に向けられる。
彼は私に囁くようにこう言った。
「レナ、いいかい良く聞いて。ダンスをしながら右後方の扉の方へ行く。そのまま扉からそっとホールの外へ出るよ」
「えっ」
「頼むから、今は俺に従って欲しい」
「わかったわ」
私たちはブレイディに見えないように招待客の中にそっと入りそのまま扉を出た。
そこに待っていたのは、私の信頼する侍女のミシャとエドウィンの側近のリードだった。
彼らは私たちを舞踏会場近くの一室に案内した。
ミシャにその部屋の衝立の向こうに連れていかれた。
そこにはリードと同じような側近の服と短い黒髪の鬘、そして眼鏡が用意されていた。胸下までのマントを巻くので、一見には女性と分からないだろう。
衝立の向こうからエドの落ち着いた声がする。
「レナ、着替えながら聞いてくれ。俺は、陛下の補佐でラクラン王国での会議に行っていたのは知っているよね」
「ええ」
「そこで、五日前、君の婚約の真実を知った。だから馬を駆けてこの舞踏会に間に合うように戻って来たのだ。さらに、俺の情報によると兄上はこれから君に婚約破棄を告げるはずだ」
「婚約破棄は願ってもないですが。何か問題が?」
「君にいろいろ罪をかぶせるようだ」
「おじいさまたちの決めた婚約を反故にするのですから、相当の理由をつけることは分かります」
「やり方が卑怯で許せない。心配するな。俺に任せてくれ」
「では、私が変装するのは何故?」
「まず、君がいないと思わせた方が、彼らが本音を言うだろう。彼らに味方するものは誰一人いなくなる。それにラクラン語を話せる文官が必要なんだ。着替えたら少し打ち合わせをしよう」
* * *
会場ではすでにダンスも終わり、音楽も静かなものに変わっていた。
あちらこちらで歓談が始まっている。
私たちが、会場に入ったのは、ちょうど、ブレイディが一段と高い場所に上がって私を呼んだ時だった。
「レナリア、私の前に来てくれ。皆の者、私はこれから大切な話をする、静かに聞いてほしい」
傍に控えている側近の一人が、頭を下げ、声を落としてブレイディに告げた。
「公爵令嬢レナリア様は、体調が思わしくないと、先ほど控室の方へ行かれました。只今、医者を呼んでいるところでございます。こちらに来るのは無理かと思われます」
既に話が通じているようだ。彼は昔、ブレイディに背中を叩かれた人だ。
「なんだと......。仕方がない。あいつ抜きでも問題ない。どうせマイアの言うことに反論は出来ないだろう。
さて、皆の者、私はレナリアとの婚約破棄をすることにした。何故か? それは私の傍らにいるマイア嬢にレナリアが嫉妬のあまり、公爵令嬢とは思えないほどの酷い仕打ちをしたからだ。私はもう彼女との結婚を考える気にはなれない。マイア、彼女が君に何をしたかをここで明らかにするべきだ」
マイアは、メリット男爵の養女と聞いている。庶子だったらしい。
珍しい薄紅色の髪に菫色の瞳、その儚げな容姿にブレイディが夢中になるのも理解できるが、王妃に相応しいかと言うと、心ある人はみな否定する。
この国トゥロック王国は、ラクラン王国の属国的な立場ではあるが、それでも一つの国として成り立っているのは、国民が歴代国王に対する忠誠心を持ち、自国の文化や歴史に誇りを持っているからだ。
もし国王に対する尊敬の念が無くなったら、国民は誰を信じていいのか分からなくなる。そうなれば、ラクラン王国はこの国を併合することを視野に入れるだろう。
だから、単に第一王子と公爵令嬢の婚約ではないのだ。
私たちは大国にいつも試されていると考えた方がいい。なぜブレイディはそのことに気が付かないのだろう。
さて、マイアは、私が嫉妬のあまり彼女にしたという酷い行いを話し始めた。私は彼女と話したこともないのに、どんな内容にするつもりなのか、少し興味をそそられた。
「はい、ここ数か月の間に起きたことなのですが、レナリア様は、私とブレイディ殿下が一緒にいると、私を憎々し気に睨んで必ず嫌味を言うのです。
ある日、私が馬車を下りて王宮の門に入ったところ、そのすぐ前の廊下に鋲が撒かれていたことがありました。もう少しでケガをするところでした。門番に聞いたところレナリア様が数分前に通ったと」
「なんてことだ!」
「それから、噴水の所で私は誰かに突き飛ばされ、私はずぶ濡れになってしまいました。慌てて噴水から出てみれば、レナリア様の後ろ姿が見えました」
「それは酷いな」
「あと、階段でレナリア様とすれ違った時に、急に押されました。私は二、三段ほど落ちました。幸い怪我はしませんでしたが少し足を痛めました。私はもうレナリア様を見るのも怖ろしいのです」
「階段で押すなんて、許せない」
あまりにもブレイディの大げさな相槌に、エドの後ろにいる私は吹き出しそうになった。
マイアの話が一段落したので、エドウィンが彼らの前に出て、軽く礼を執った。私も彼の斜め後ろに俯いたまま控える。
「なんでお前がここに居る」
――私たちが踊っているのに気が付かなかった? 良かったわ。
「ラクラン王国での仕事が終わりまして戻ってまいりました。少しマイア嬢に聞きたいことがあります。よろしいですか? なに、とても簡単なことです」
「どうする、マイア」
そこでめったに笑わないと言われるエドウィンがマイアに軽く微笑んだ。
「ええ、ええ、もちろん、いいですわ」
私では、聞きたいことがあると言っても一蹴されたろう。
「まず、レナリア嬢の嫌味とはどんなものだったのでしょう?」
「それは......、えっと、男爵家の娘のくせに生意気だとか。ここはあなたのいる場所じゃないとか」
「不思議ですね。レナリア嬢はいずれ王太子妃になる人なのですから、いつも近衛や侍女が傍にいます。私は近衛を管理する立場にいますが、そのようなことは聞いたこともありません」
「マイアを疑うのか!」
エドは、ブレイディの言葉を流して、次の質問に移った。
「では、つぎに聞きたいことは門のことです。鋲がまかれていたというのは、金剛門、銀月門、銅光門のいずれでしょうか。ああ、正面の翡翠門は来客専門で人も多いので省きます」
「それはもちろん金剛門ですわ」
金剛門は王室専用の門で、王家の人と一緒ならば入ることは可能だが、マイアは私達とは言っていないので金剛門は考えられない。
銀月門は高位貴族が出入りする門だからマイアは通ることは出来ない。
彼女が通行できる門は銅光門に限られる。
私は銅光門から出入りすることはない。馭者がそこに馬車を付けることがないからだ。ほとんどの貴族には当たり前のことなのだが。
「そうですか......。それでは、噴水は? この国が崇拝する女神サラの銅像が中央にある噴水。そして次は著名な彫刻家アディムテンダル・クリスタルハーシュのバンクファイスラノン像が奥の壁に彫られている噴水。そしてもう一つは百年前に東海を隔てたミアファウンテンコロナリア国から贈られたルセラフィムリスガーソンの神像が中央に置かれている噴水。このどれですか? できれば正確に答えてください」
――さすがにエドだわ。すべての噴水の由来と名前を間違わずに言えるのですもの。私も、王妃教育で習ったけれど、舌を噛みそうになったわ。
「えーと、えーと、えーと、女神サラの銅像が中央にある噴水ですわ」
思った通り、彼女は一番簡単な答えを選んだ。彼女が突き落とされて濡れたと言う女神サラの噴水は、数年前に噴水の装置に不具合が生じ、今は花壇に変えられている。当然、水はない。また、花に水がまかれるのは早朝だから、ずぶ濡れになることは考えられない。
「最後に階段のことですが、一つはポラディンダル神聖国から贈られた精巧な紺色の模様のタイルが張られている壁がとても美しい、人目も多い来客用の階段。次に、かの有名なローレンクラウスが設計した、二階の客用のサロンや遊戯室に行くことのできる見晴らしの良いらせん状の階段。ここは誰かがいてもすぐにわかるでしょう。そして最後は金剛門から続く赤い絨毯の敷かれている大階段、他にも使用人の使う階段がありますが、これのどれでしたか?」
「もちろん赤い絨毯が敷かれている大階段よ! だから怪我しなかったの」
赤い絨毯の大階段は、王家の私室に続く階段だ。そこは王家の者以外は通ることができない。そこを通るには階段下の近衛騎士に許可を貰うか王室の誰かと一緒でなくてはならない。仮に許可を貰っていたとしても、騎士にいつも見られているので、すれ違いざまに押すのは不可能だ。
「皆さま、もうお分かりですね。さすがに兄上の選んだ人です」
ブレイディの酷く戸惑った様子を見ると、多くの貴族の前でマイアの嘘をエドに見破られるのは、全くの予想外だったのだろう。貴族たちも呆れた表情をして壇上の二人を見ている。
「や、やはり、婚約破棄はやめる。皆の者、時間を取らせて済まなかった」
「ブレイ、婚約破棄をやめるってなんなの! 私、正しいこと言っているのに。私のことを真実の愛だと言ったでしょ。だから、私、貴方に身を任せ......」
「それ以上言うな! 良く考えてみれば、レナリアはやっぱり王妃に相応しいかもしれない。ここのところ、綺麗になったしな」
「ブレイ、レナリアの事をあれほど嫌がっていたのにどうしたの! あなたが、この国と隣国の元国王同士が決めた婚約だから婚約破棄をするには、レナリアに罪を擦り付けるしかないって、そう言ったのよ。それで、私達、ベッドの上でいろいろ考えたじゃない」
――もう、溜息しか出ない。ブレイディのこと、見るのも嫌だわ。でもこれからが本番。
「兄上、婚約破棄も何も、兄上はレナリア嬢と婚約していませんよ」
「何の話だ?」
「私の横にいるのは、ラクラン王国の優秀な文官サトラ・ムガートと言う者です。彼が詳しく説明してくれます」
私は出来得る限りの低い声を出し、流暢なラクラン語で嫌味なくらい長々と挨拶をした。
マイアはラクラン語は分からないので、首を横に振っている。ブレイディも簡単なあいさつ程度しかできないはずだ。
「こちらの言葉で話してくれ」
「かしこまりました。ここにレナリア・ハーウッド様のお祖父様であられます元国王のドゥミット陛下が書かれた、この国の第一王子との婚約及び婚姻に関する文書がございます。さらにこちらの元国王、つまり殿下方のお祖父様リチャード陛下の同意書もあります。これは三通書かれたうちの一つです」
「それがどうした?」
「はい、これにはラクラン王国が第一王子と認めるものをハーウッド公爵家の長女レナリアと婚姻させると書かれております。再度申しあげます。ラクラン王国が認める第一王子です」
「何を言いたんだ?」
「ですから、ラクラン王国が認める第一王子は、エドウィン殿下です」
「なんだって!」
私はここで私がラクラン国の文官という信憑性を持たせるために、ラクラン語で声を潜めてエドに話しかけた。
『私、少し冷静さに欠いてしまったけれど、こんな感じでいいかしら?』
『大丈夫。上出来だよ』
『後はお願いね』
「二人とも、こちらの言葉で話せ」
「では私が説明いたします。兄上、私たちは双子で、私は兄上より先に生まれました」
「ああ」
「我が国では母親の胎内に長くいた方が一番目であるという考え方です。だがラクラン王国は先にこの世に生まれた方が一番目だという考えなのです」
「やはり分からん」
「つまり、ラクラン王国にとっての第一王子は私と言うことです。ラクラン王国が認めるものと言うことは、私がレナリア嬢の婚約者になるわけです。だから兄上はレナリア嬢とは婚約していないのです。理解していただけましたか?」
「そんなでたらめを言うな!」
――ブレイディらしい。婚約していなくて嬉しいはずなのに、いざ否定されると認めたくない。
「こちらの文書課にも控えはありますが、ラクラン語で書かれているこちらの文書を確かめられることを薦めます。いずれにしても目出度いことです。兄上は真に愛するマイア嬢とすぐにでも結婚できるのですから」
私は、その書類を整え、ブレイディの側近に渡そうとした。
そこに「国王陛下、および王妃殿下のご入場です」という声がホールに響いた。
皆一斉に礼を執る。
国王夫妻に続き、私の両親も入場してきた。
「え、父上? それにハーウッド公爵? 馬車の故障ではなかったのですか? 舞踏会に間に合うなんて思いませんでした」
「なぜ、馬車の故障と言うのだ? こちらから詳しいことは何も知らせていないぞ」
「えっと......」
「育て方を間違ったな。婚約破棄を成功させるためにこんな卑劣な手段を取るとは。お前が我々の馬車を故障させようとした証拠は掴んでいる」
「まさか。そんな......」
「釘の一本抜いただけでも大事故につながるのだぞ。下手をすると我々は死んでいたかもしれない。お前の罪は重いぞ」
ブレイディの顔が青く変わった。心当たりがあるのだろう。
「皆の者。こちらに帰る日の前日、レナリア嬢の伯父上にあたるラクラン国王にレナリア嬢と第一王子の婚姻のことを聞かれた。そこで初めて、私がある誤解をしていたことが判明したのだ。レナリア嬢の婚約者はエドウィンであった」
なぜか拍手が響いた。すでに女伯爵として自立しているサナリアが一番始めに拍手したようだ。私は彼女にエドのことを好きだと言った記憶はない。でも、一年の時から一緒なのだから気が付いていたのだろう。
彼女につられて周りの者も拍手している。
「王太子をどちらにするのか? 皆も心配していたと思う。馬車の件と今回の舞踏会での騒動を考えると、もうブレイディを王太子にはできない。よって、エドウィンが王太子となる」
陛下は、ブレイディの王としての資質をずっと疑っていたのだろう。国王に情報が入らないわけはない。私がブレイディの婚約者だったことが、王太子を決めかねていた理由なのだと思う。
私の後ろで、母がそっと言った。
「レナ、よかったわね。ご苦労様」
さすがに母親だ。こんな格好をしていても、娘だと直ぐにわかるのだ。
その後、ブレイディとマイアは王宮の一室に監禁され、陛下からの沙汰を待つことになった。
私たちはその場を辞して、控室に向かい、私はまたドレスに着替えた。
エドにエスコートされ、ホールに入った私を、皆が笑顔で迎えてくれた。
父が私の代わりに、ホールの皆に話してくれた。
「心配を掛けましたが、娘は少し貧血気味だったようです。薬を飲んだので、もう大丈夫です。引き続き今宵の宴を楽しみましょう」
再びダンスの曲が奏でられた。
私とエドはお互いの手を取り、ホールの中央に行き踊り始める。
最初のダンスは、自分の力ではどうすることも出来ない絶望感と悲しみの中にいた。描かれている天使たちが羨ましかった。
でも今は違う。
彼の温かい腕の中で、安堵感と喜びが湧き上がる。そして私は、過去の事ではなく、これから創る私たちの未来を思った。
「ほらね。さっきのはラストダンスではなかっただろう? これからはいつも君と踊ることができる。今までもこれからもずっとレナが好きだよ」
彼の瞳が熱を持つ。
私は彼の肩に顔を寄せて呟いた。
「夢なら覚めないで欲しい」
* * *
舞踏会の後、両親から聞いた話は次のようなものだった。
まず、双子の認識についての違いは、王子たちの他に双子を持つ人も知人にはいなかったので、母も長い間知らなかったそうだ。
あるお茶会で、たまたま双子の姉妹を持った人が出席していて、どちらが姉になるかと言う話を聞いたときに疑問が生じ、王妃様に王子たちはどちらが先に生まれたのかと尋ねた。
そこで母は、レナリアはエドウィンの婚約者であるのが正しかったと気づいた。
両親は常々、ブレイディの行いに不安を持っていたので、すぐにも間違いを正すべきだと思い、ラクラン国へ照会の手紙を出し、会議に行った時に、正式な文書を確認した。
その後、ラクラン国王である伯父様が、トゥロック国王夫妻に「我が国の認める第一王子はエドウィン王子である」と宣言した。
実は、エドウィンも伯父様に婚約者を代えることはできないかと何度も嘆願していたらしい。
一方、ブレイディは、マイアへの想いこそが真実の愛だと信じ、何としてでもあの高慢なレナリアとの婚約を破棄すべきだと言う気持ちに囚われた。レナリアが自分よりも優秀だったのも気に食わなかったと言う。貴族たちの前でレナリアの酷い行いを告げれば、彼らは婚約破棄に納得するだろう、そうすれば両国王も了承するに違いない。婚約破棄をすれば、レナリアはこの国に居づらくなり、ラクラン王国へ行くだろう、自分たちはもう関わり合うことはないと思った。
婚約破棄の場面で国王夫妻と公爵夫妻がいて、あれこれ言われたくない。そこで、以前の取り巻きであった、ある子爵家の次男に、王宮で良い仕事を紹介することを条件に馬車を故障させてくれと頼んだ。
頼まれた方は、考えた末に馭者の一人として潜り込むことにした。
だが、いざ車輪に細工しようとした時、学園時代にブレイディに宿題を何度も横取りされていたことを思い出した。
彼はそのせいで怠惰な人間と思われ、決まっていた婿養子の口も駄目になった。
ブレイディはいずれ王になると思って我慢していたが、あの時は自分の働き口を見つけてもくれなかった。『彼の言いなりになって罪を犯すわけにはいかない』そう思い、ブレイディから頼まれた内容のすべてを護衛騎士隊長に話した。
実際には事故や故障は起きなかったが、陛下はブレイディの企みを知るために、会場に入るのを少し遅らせた。会場の様子は全て陛下たちに報告されていた。王妃様はブレイディの本質を知って驚いたことだろう。
ブレイディへの処罰は一か月が貴族牢へ、その後二か月が謹慎ということになった。王妃様もさすがに庇うことは出来なかった。
実際に馬車は事故が起きなかったので、人心を惑わしたと言うのが、表向きの理由だ。
謹慎が解けたとしても、王子として復活するのは難しいかもしれない。
マイアも一か月ほどの自宅謹慎となった。いずれ男爵家を追い出されるのではないかとの話だった。
ジャロウ王国の王女の婚姻はどうなるのかと思ったら、先方からブレイディの容姿が好みであるし、一から躾し直すのも楽しみだから、エドウィンから彼に代えても問題ないと言われたらしい。
ただし、貴族牢に入った人間を王配とするわけにはいかないので、そこのところは理解して欲しいと言う話だった。
ブレイディは、謹慎が解けたすぐ後に、ジャロウ王国へ出立した。彼が納得して旅立ったかどうかは知らない。
しばらくしてから、マイアが彼を追いかけて行ったと聞いた。愛人の愛人と言う立場になるのか、良く分からないが、真実の愛があるならば二人は幸せになれるだろう。
そしてその半年後、私とエドは、この国の未来と私たちの未来のために、共に手を携えて生きていくことを神の前で誓った。
--- End ---
お読みいただいてありがとうございます。
前作ではいろいろ助言いただきました。次のステップへの糧とさせていただきます。
誤字脱字間違いなど、ご指摘、助かります。今回もよろしくお願いします。