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人の家

作者: かがみ百年

 

 私は十数人と一緒に暮らしている。狭い狭い部屋で、煙のような人たちと暮らしている。

 この話を誰かに話したことはない。恐らく、今後誰にも話さずに私は死ぬだろう。

 





 ただ職場に近いという理由でこの家を選んだ。広さも私一人で住むには充分であるし、築年数も悪くない。一人の人間が職場と家を行き来する毎日には本当に充分な家だった。

 お隣さんは物静かな婆さんで、引っ越してすぐに菓子やら饅頭やらをいくつかくれた。




 引っ越しに伴う緊張や疲れから解放されつつあるときだった。

 深夜、喉の乾きが自分を起こした。たぶん、午前三時半くらいだったと思う。その日、私はいつになく寝ぼけていたし、酒を少し飲みすぎてしまっていた。


 水道水をコップ一杯分、グイッと一気に飲み干す。枕元の小さな光だけが一点強く輝いていた。

 習慣化した寝る前の読書のためにつけている明かりを、私はいつも消さずに寝てしまっている。消そうと心がけてもなかなか治らない悪い癖だった。

 まだ終わらない夏のせいで蒸し暑い部屋を少しでも涼しくするために開けていた窓から夜風が入り込む。侵入してきた風で小さな光が膨張し、輝きを拡げる。

 拡がった輝きが何かの輪郭を捕える。視界の隅に入ったその輪郭に勢いよく振り向く。




 人。

 いや、人なのか。

 透明とも、色があるとも、どちらとも言える。

 煙のようにゆらゆらとし、その輪郭だけが見た目のものたちがざっと視界に入っただけでも十数人いた。

 眼球が飛び出そうなくらいに開かれた瞼と、中途半端に開けた口が閉じられずにいた。

 持っていたコップを落としそうになって、慌てて両手で持つ。


 顔もない、髪もない、爪もない、肌もない。

 人の形を作り上げる煙の輪郭。彼らをつくりだす輪郭だけで、なんとなくそれぞれがどんな人物なのかわかる。体育座りをする者、正座をする者、胡坐をかく者。男、女、少女、少年、老人、子ども。

 視線を上下左右さまざまな方向に向けているのが顔の輪郭の動きでわかる。しかし、のっぺらぼうである彼らが何を見ているのか、私を見ているのかははっきりと断言できない。




 どうする?家を飛び出して、とりあえず隣りの婆さんに……。いや、こんな時間に婆さんが起きているはずがない。何しろこんな時間に騒ぎ出して、隣りの部屋の扉を叩いたりチャイムを鳴したりなど不審者でしかない。自分が警察に通報されかねない。


「はっ、警察に!」


 待て。何を警察に説明するんだ?こいつらが人かも幽霊かも何もわからないのに?

 足がガクガクと震えて、膝がどんどん折れ曲がる。ズ、ズッと足を引きずりながら、彼らの一人に近づいていく。

 触れてみて、人だと言える感触があればすぐに玄関を飛び出して、近くの公園で通報しよう。


 恐る恐るその煙のような輪郭に触れる。

 頭と思われる部分に触れたが、煙が手に触れる感触そのものだ。

 触れられているものの体の輪郭は動かない。その場でジッと座っている。何も喋らない。

 どうすればいいのかわからなくなった。正解がわからない。

 私は、彼らから一番離れた場所まで布団をガッと引っ張って、布団の中に身体のすべてを仕舞った。足の先も、髪の毛一本すらも出ないようにした。

 ぐわぐわと様々な思考を巡らせる頭を抑えながら、早く夢の世界へ行けるように目を閉じた。





 朝が来た。カーテンのない窓から差し込む日が眩しい。生きている。煙はいない。

 結局、幻覚か何かだろうと決めつけた。酒も飲んでいたし、仕事の疲れも多少は影響したのだろうということにした。

 ああ、もう少し慎重に引っ越し先を選ぶべきだったのだろうか。不動産屋に問い合わせる勇気も力も今の私にはない。

 職場に向かうため、家を出る。「鍵を」と思って閉めようとした扉の隙間から見えた部屋には、差し込む太陽の光と家具だけしかなかった。


 同じタイミングで隣りの婆さんが部屋から出てきた。

「夜遅くあなたに助けを求めようとした」など言えるはずもなく、会釈だけして通り過ぎる。







「あの方たちにはもうお会いしましたか?」


 


 早足になっていた足がピタッと止まる。

 進行方向を変え、婆さんの方まで大股に歩く。


「ご存知なんですかっ!?]

「えぇ。大丈夫、あの人たちはあなたに何もせんよ」

「か、彼らは、その、何なんですか……」

「私も詳しくは知らんがねぇ、何かあんたに危害を加えるとかそんなことはせんよ。毎日現れるわけじゃないから安心したらいいよ」

「ホントに、ホントウのホントウに大丈夫なんですよね?」

「大丈夫だよ、慣れる慣れる。あの人たちも誰かがいる方が喜ぶんだ。わたしゃここに引っ越してきた人らに何べんも言ってるんだがねぇ。みんな出てっちまうから、なんだかあの人たちのほうがかわいそうだよ」






 数週間が経った。あの日以来彼らは姿を見せていない。婆さんはあんなことを言っていたが、慣れる慣れないの問題ではない。深夜急にあんな奴らが現れるなんてたまったもんじゃない。

 しかし、金がかかることを考えると、そう早く引っ越しもできまい。ホテルでの寝泊まりに使う金のことを考えてみたが、やはり次の資金が貯まるまではこの部屋で暮らすしかない。


 仕事から帰ってきて、扉の前で鍵を開けようとする手がブルブル震える。

 ガチャっと音がして、扉を開ける。一つも明かりのついていない部屋、つま先だけでそろりそろりと歩く。部屋の照明紐を探り当て、引っ張る。

 緊張と恐怖で締め付けられそうな夜のせいで、自分の背中に重い重い疲れが乗っていた。

 今まで欠かさずにしていた就寝前の読書も今日はやめ、すべての明かりを無くして寝た。




 あの日と同じ、午前三時半頃だったと思う。

 またも喉の乾きで目を覚ました。いつもとは違い、枕元の明かりが無くて不思議な感じがした。

 窓は開けていないのに、冷たい風に当たったように寒気がした。腹までかけていた布団を肩まで上げる。







「なぜ、なぜ、明かりをつけてくれないんだ」


 少し離れた場所からポツポツと言葉が零れて聞こえた。

 それは間違いなく人の声だった。

 明かりをつけようとして手を動かす。

 パッとついた明かりが、部屋の一部から全体へと光を拡げる。








 煙でもなんでもない。ただの人がいた。人間がいた。

 目の前には十数人という人間がいて、一人の老人だけがその瞳に私と光を映していた。私を見ていた。




「なぜ、なぜ、窓を開けないんだ」


 自分の顔が背後から引っ張られる感覚に陥った。

 先ほどまで感じていた寒さや、現れた人間に対する恐怖なんてものはなかった。

 ただ声を荒げて、壁を叩いた。

 

「婆さんっ!婆さんっ!あんた噓ついたのか!?煙なんかじゃない、人間だ!」


 壁をドンドンと叩く音が耳に響く。

 繰り返す音に何か別の音が挟まった。人が倒れた音だった。

 背後で鳴った音にすぐさま振り返る。一人、自分を見ていた老人が倒れていた。


「おい、あんた、どうしたんだよ。おい、おい」


 ゆすっても起きない老人に他の誰も目を向けていなかった。

 彼らはみんな、私を見ていた。

 私を真っ直ぐ見る者、覗き込むように見る者、首をかしげて見る者。微笑みながら見る者、顔色一つ変えずに見る者、眼球が飛び出そうなほどに瞼をこじ開けて見る者。煙の輪郭だけしか持っていなかったはずののっぺらぼうの彼らは、その血の流れる体でピクリとも動かずに、何も言わずに、私を見ていた。

 向けられるはずのなかった視線が、一気に私を襲った。たくさんの目が存在していた。


「なぜ、なぜ、窓を開けてくれないんだ。十数人のためにしなければならないことを、一人のためにやめるのか?なぜ、なぜ、窓を開けてくれないんだ」







 誰も瞬きしない。誰もその場から動かない。誰も私から視線を外さない。

 眼球が飛び出そうなくらいに開かれた瞼と、中途半端に開けた口が閉じられずにいた。

 ガクガク震える足の動きを、何とかして走り出す力に変えた。

 飛び出した深い夜の街には自分以外誰もいなくて、誰の視線も私に向けられていなかった。


 ただ、家から飛び出したとき、あの婆さんの部屋の扉の開く音が聞こえた気がした。少し開いた扉の隙間から覗く目があった気がした。黒い隙間から、走り出す私を映した婆さんの瞳がそこにあった気がした。


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