戦禍の足音
国立第1高等学校生たちは、現代戦における歩兵の仕事でざっと8割を占める作業を開始していた。即ち塹壕堀りである。先ほどまで世話をしていた畑を掘り返し、深い溝を作るのだ。
「せっかくここまで育てたのになあ」
「田中、黙って掘るように」
田中俊一郎が大きな口を開けながらぶつくさ言い、和人は彼を窘めた。確かにここまで育てた作物たちを捨てるのは惜しい。それに畑を放棄してしまえば、この秋以降の食料はどうやって調達するのだろうという不安は和人にもある。
しかし今は戦時である。この秋以降に日本皇国があるのかもよく分からないのだ。そんな中で食料の心配をしていても仕方がないと、和人は思っていた。
「みんな、負傷者の傷の消毒法と包帯の巻き方については分かったわね。それではもう一度、互いに包帯を巻いてみるように。終わったら私がチェックするわ」
男子生徒たちが塹壕を掘る傍ら、隣では一条理沙が女子生徒たちに野戦応急手当のやり方を教え込んでいた。国立高校の女子生徒は、有事には補助衛生兵として活動することになっているのだ。
「負傷……か」
塹壕堀りを監督しながら和人は思わず呟いた。そう、今は戦時であり、もうすぐこの国立第1高等学校も戦争に巻き込まれる。その時には当然、負傷者が発生するだろう。
しかし和人には今1つ実感が湧かなかった。和人たちは第2次世界大戦や東西戦争を経験した祖父の世代でも、ベトナム戦争やイラン戦争を経験した父の世代でも無い。言わば戦争を知らない世代だ。
その和人にとっての戦争とは歴史上の出来事でしかなく、自分たちがそれに巻き込まれているという実感は、今一つ湧いてこなかった。ましてやその戦争によって自分たちが負傷したり、最悪の場合は戦死するかもしれないという感覚は。
和人がそんなことを思いながら見守る中、校舎を囲むように掘られた塹壕は急速に形を成し始めた。元々畑づくりの為に校庭が掘り返されており、土が柔らかくなっていた為だろう。皆の人海戦術の甲斐もあって、作業開始から約2時間後には校舎を3重に囲む溝が出来上がっていたのだ。
それを確認した和人は、校舎内の冷蔵庫からラムネを出して皆を労った。冷夏とは言え西日本の夏である。適切に水分補給を行わずに作業をすれば、熱中症で倒れる可能性がある。
「東日本軍め、ここから先は通さないぞ」
「共産主義者どもめ、来るなら来てみろ」
国立高校生たちはしばしラムネを味わいながら、そのような勇ましい言葉を吐いていた。そうした言葉を口走っている者は、特に1年生に多い。塹壕堀りという泥塗れの重労働とは言え、ある種の非日常的な経験であることは間違いない事実だ。
そして人間、特に若者は生来的に、日常より非日常を好む生き物だ。彼らの気分は、その非日常によって高揚しているのだろう。
「みんな、勇ましいわね」
いつの間にか隣に来ていた一条理沙が呟いた。人形のように整った美貌には苦笑じみた表情が浮かんでいる。
「まあそうだな。銃を手に祖国を守るなんて体験、普通じゃ味わえないからな」
女性である理沙には分からないかもしれないとも思いつつ、和人は答えた。凶悪な共産主義者の群れから、自由主義最後の砦を守る戦い。日本放送協会はこの戦争をそう形容している。
実際の戦争とはそんなに単純なものではないと言うことは高校生の和人にさえ分かるが、人間は複雑な真実より単純な嘘を愛する生き物だ。その嘘が美しいものであれば尚更である。
ましてや和人たちの周りにいるのはエリートの卵とは言え高校生。非日常による興奮と相まって、「自由を守る戦士」気分になってしまうのは当然だろう。
「そういうあなたは冷めているのね」
和人の口調に僅かに込められた皮肉に気付いたのか、理沙が少しばかり不思議そうな口調で言った。皆を束ねる立場である和人自身の気分は大して高揚していない、正確に言えば、高揚を抑えていることに気付いたのだろう。
「俺の親父はベトナム戦争とイラン戦争に従軍して、生涯で10個の勲章を貰った。最後の3個は死後の受賞だけどな。俺が国立高校に入れたのも親父のお陰だ」
「なるほど、”そういう”家庭と言うわけね」
和人は最近は記憶から薄れつつある父親の顔を思い浮かべながら、独白じみた口調で答えた。それを聞いた理沙が納得したように呟く。和人が持ち出した2つの戦争から、和人が言わんとすることに気付いたのだろう。
ベトナム戦争とイラン戦争、この2つの戦争はどちらも、西側諸国の敗北に終わっている。それもただ軍事的に敗れたというだけではない。西側諸国の軍事的、政治的威信自体に傷をつけ、アメリカ合衆国崩壊の一因ともなったのがこの2つの戦争だった。
最初のベトナム戦争は、フランスとその後を継いだアメリカがベトナムを2つに切り分け、南部に西側の傀儡政権を打ち立てようとした所から始まった。
祖国を勝手に分断されたベトナム人は当然ながら激怒し、南部の傀儡政権に対する攻撃を開始した。これに対してアメリカと日本皇国は、南部の傀儡政権防衛の為に大々的に派兵を行うことになった。これがベトナム戦争である。
そして周知の通り、ベトナム戦争は結局西側の、アメリカ合衆国と日本皇国の敗北に終わった。両国の軍隊は戦術的には何度も北ベトナム軍に勝利したが、それを戦略的勝利へと昇華させることがどうしても出来なかったのだ。
アメリカと日本皇国が行った軍事的努力は全て、船底に空いた穴を塞がずに、溜まった水を汲み出し続けるが如き徒労に終わった。傀儡政権はベトナム南部を統治する能力をそもそも持っておらず、そう思われてもいなかった。アメリカと日本皇国はその事実に気付かないまま、より正確には目を背けたまま、ただ軍事的勝利だけを追求したのである。
これで戦争に勝てる筈が無かった。
次のイラン戦争もまた、ベトナム戦争と大体の相似形を成す戦争である。この戦争の始まりは、アメリカの傀儡政権が行ったイランの急速な近代化に対する保守派の蜂起であった。
保守派による革命政権はイラン全土を実効支配下に置き、イラン・イスラム共和国樹立を宣言、更にアメリカ大使館を包囲して館員を人質とした。
この事態に対して、アメリカは特殊部隊を送り込んで大使館員奪還を図ったが、これが悲劇を生むことになる。特殊部隊は大使館に辿り着いたが、そこに待ち受けていたのはイラン革命防衛隊、そして暴徒化した多数のイラン市民だったのだ。
結果は大規模な銃撃戦となり、特殊部隊員20名とイラン人推定数百名が死亡。更に大使館員たちは混乱の中で全員が殺害された。当時のアメリカ大統領が、「いっそヘリコプターの故障か何かで作戦が失敗した方がマシだった」と後に漏らした程の惨事であった。
そして「血の4月24日」と呼ばれたこの事件は、更なる悲劇への呼び水となった。イラン革命政権は多数の市民が巻き込まれたことに、アメリカは大使館員たちが皆殺しにされたことに激怒し、互いに宣戦を布告したのだ。これがイラン戦争の始まりであった。そしてこの戦争には日本皇国も、単にアメリカの同盟国であるという理由で巻き込まれた。
このイラン戦争であるが、当初はアメリカが圧勝すると見られていた。ベトナム戦争で威信が大きく低下したとはいえ、アメリカは超大国。対して当時のイランは地域大国の範疇に入るかも怪しい中規模国家だったからだ。
日本皇国の参戦も、戦争が数カ月で終わるという見通しから、割と気軽に行われた。
だがその意に反して、イラン戦争はベトナム戦争と同じ泥沼化への道を辿っていった。革命の混乱で士気が低下していると見られていたイラン軍は予想に反し、アメリカの侵攻に対して頑強に抵抗したのだ。
そしてその裏には、ソビエト連邦がいた。ソ連は敵の敵は味方という論理に則り、本来思想的に水と油である筈のイラン革命政権に大量の軍事援助を提供したのだ。世界から孤立した中規模国家を叩くだけの筈だったアメリカ軍と日本皇国軍は、ソ連で軍事訓練を受け、ソ連製の最新兵器を装備した大軍との戦争を戦う羽目になっていた。
ベトナム戦争と同じ構図であり、結果もまた、ベトナム戦争と同じようなものであった。アメリカ軍と日本皇国軍は戦術的には何度もイラン軍を打ち破ったが、戦略的勝利を収めることはついぞ出来なかったのだ。アメリカ軍と日本皇国軍は最終的にイランを去り、その後には革命政権が居座り続けた。
そしてこの2つの戦争の敗北は、アメリカ合衆国の国内外に対する威信に徹底的なダメージを与えた。まず二流国家相手に2度も敗北を喫したアメリカを世界は嘲笑し、その軍事的能力を疑問視するようになった。
更にアメリカ経済は2つの戦争による双子の赤字によって大幅に悪化し、南北対立の再燃が始まった。元々合衆国南部人は連邦政府を自分たちの政府と言うより、南北戦争で南部を征服し、意に沿わない政策を押し付けた抑圧者と見る傾向が強い。
その連邦政府が2度も戦争に敗け、南部の息子たちを大量に無駄死にさせたことに、南部人は激怒したのだ。本来この手の対立は経済成長と富の適切な再配分があれば何とか出来るものだが、2つの戦争で疲弊したアメリカにその余裕は無かった。結果としてイラン戦争集結間もない1989年より、アメリカ合衆国は実質的な内戦状態に突入した。
「あの2つの戦争だって、我が国では自由と正義の為の戦いということになっているんだ。そしてそれはある意味で正しい。俺たちの父親は少なくとも、よりマシな側を守る為に戦っているつもりでいたんだ」
和人は理沙に、と言うよりは自分に対して呟くように言った。ベトナム戦争は共産主義者からベトナム人を守る為の戦い。イラン戦争は宗教狂信者からイラン人を守る為の戦い。日本皇国人はそう教えられてきたし、そう信じてもいた。
軍務でたまにしか帰ってこなかった和人の父親も事あるごとに、戦争の大義について家族に大袈裟な演説を打ってみせたものだ。
その父親は既に大勢が決したイラン戦争末期の1988年にイラン軍の砲撃を浴び、瀕死の重傷を負って祖国に搬送されてきた。そして和人と母親が駆けつけた時には既に植物状態となっており、間もなく死亡した。
だから和人には今も分からない。父親が日本皇国の言うような「自由主義の偉大な殉教者」だったのか。それとも日本人民共和国が言うような「アメリカ帝国主義の惨めな走狗」だったのか。或いはただの、祖国が掲げる大義を信じて裏切られた哀れな人間だったのか。
「でも、この戦争は純粋な祖国防衛戦争だと、私は思うわ。お父さんのことは気の毒だけど」
理沙が反駁するように言った。ベトナム戦争やイラン戦争の大義が怪しげなものであったことは自分も認めているが、今回の戦争はそうではないと理沙は言いたいらしい。この戦争は紛れもなく、世界に残された自由と民主主義最後の砦を守る為の戦いであると。
「そうかもしれないな。だけどベトナム戦争やイラン戦争の時だって、俺たちはそう思ってきたんだ。ついでに言うと、あの第2次世界大戦だってな」
和人は皮肉を込めた口調で言った。視線の先には国立第1高等学校のシンボルである、ダグラス・マッカーサー元帥の銅像がある。1950年に勃発した東西戦争で日本皇国軍と在日米軍を指揮し、日本人民共和国の侵攻から日本皇国を辛うじて守り抜いた人物だ。
アメリカ本国ではあまり評価されていない将軍らしいが、日本皇国内では紛れもない英雄である。
そのマッカーサー元帥であるが、第2次世界大戦では日本の敵であった。大日本帝国に実質的に止めを刺したのは1944年に行われたフィリピン上陸作戦であるが、その指揮を取ったのは他でもないマッカーサー元帥だったのだ。つまり国立第1高等学校は皮肉な見方をすれば、祖国を滅ぼした将軍の像を飾っていることになる。
「それで”向こう側”では、トハチェフスキー元帥の像を士官学校に飾っているという話だ。マッカーサー元帥もトハチェフスキー元帥も、大日本帝国の敵だったことには変わりないのにな」
和人は続いて言った。ミハイル・トハチェフスキー元帥とは第2次世界大戦でソ連軍の総指揮を執った人物であり、ソ連軍の日本侵攻作戦の指揮官でもあった軍人だ。
そのトハチェフスキー元帥の銅像を、日本人民共和国では士官学校を含む重要施設に幾つも飾っているという。日本皇国はこれを指して奴隷根性と嘲笑っているが、マッカーサー元帥の像を国立高校に飾っている自国も大概であることには、誰もが気付かないふりをしている。
不倶戴天の敵同士である日本皇国と日本人民共和国であるが、その内実は似たり寄ったり、どちらも第2次世界大戦によって生まれた双子の兄弟なのである。
「やっぱり、私が級長になった方が良かったかもしれないわね。級長の士気がこれで、我が青少年突撃隊はまともに戦えるのかしら」
理沙が冗談めかした口調で言った。だがその目には深い憂色がある。無論和人の士気云々を本気で言っているのではない。もっと根本的なことを心配している表情だ。
「軍は、勝てるのかしら? 私たち、本当に実戦投入されるのかな?」
理沙が続いて呟くように言った。先ほど和人を「冷めている」と言った理沙だが、「冷めている」のは彼女自身も同じらしい。少なくとも青少年突撃隊という組織の戦闘力に対する評価については。
泥塗れの軍服を着て塹壕に籠ることで恰好だけは一丁前になった青少年突撃隊であるが、その内実はあくまで「軍隊のようなもの」に過ぎない。まともな訓練を受けたこともない学生が旧式兵器を持っただけの集団であり、本物の軍隊から見れば玩具の兵隊と変わらない代物だ。そんなものを本当に実戦投入するつもりなのかと、理沙は言いたいのだろう。
「多分、俺たちは戦うことになると思うよ。級長に副級長」
そこに田中俊一郎が割り込んできた。彼の目もまた冷めていることに、和人はすぐに気付いた。田中は軍事オタクとして有名だが、それ故に青少年突撃隊の戦闘力についても冷徹に見切っているのだろう。
「どうしてそう思うんだ?」
和人は聞いた。青少年突撃隊がまともな戦力になりえないという点において、田中は和人や理沙と同意見のようだ。ならば何故、それが実戦投入されると彼は思っているのだろう。
「戦争の方が、俺たちに近づいて来ているからさ。外を見てくれ」
言うと田中は、小高い丘の上に立っている国立第1高等学校周辺の道路を指した。そこは避難民の群れで埋め尽くされていた。持ち出せるだけの物を車や自転車や荷車に積んだ避難民たちは、陽光に体力と汗を搾り取られながら、よろめくようにひたすら西に向かっている。
彼らがどこに行こうとしているのかは恐らく彼ら自身にも分かっていないだろうが、確実なことが1つあった。戦況は日本皇国側にとって不利だということである。
日本放送協会が戦況についてどのような韜晦をすれど、大量の避難民を出している側は戦争に負けた側であるという法則は有史以来変わっていないのだから。
「そういうことか」
和人は呻いた。戦争は思ったよりずっと、和人たちの近くに来ている。そう気付いたのだ。でなければこれ程の数の避難民が現れる筈が無い。