人は見えないものは信じられない
"人は見えないものは信じられない"
この言葉に代表されるのは幽霊とか妖怪とかオカルトものだろう。
多くの人たちは根拠なきものは信じない。
それはオカルトに限らないように思う。
毎日、嘔吐を繰り返して、学校に通えなかった。顔は真っ青で、血の気がなかったと、周りの人はいう。頭は動悸に合わせるように、ズキンズキンと痛んだ。電車の中でも気持ち悪くなって途中下車してトイレに籠った。学校に通っても、休み時間の度にトイレにこもって便器を抱いた。胃の中には何も入っていないのに何度もえずいた。スカートがトイレの床についても気にしなかった。抑えるように、市販の薬を飲んで、無理に笑顔を作って、授業に参加した。休み時間、吐きたくても、休んだ日の分、色んな先生を探して校内を歩いた。体育を休むにも朝それ以上に歩いて探さなくてはいけなかった。案の定、次の日は学校を休んだ。
当然、病院に行った。
病院に行っても、大抵の場合、原因は分からない。
インフルエンザなんかは簡単だろう。"検査"がある。
しかしながら、原因がハッキリとしないと、検査すらできない。私の場合は、取り敢えず、血液検査をした。
異常はなかった。どれも正常値でなんらかの病気の疑いもなかった。
本来であれば、ホッとすべきだろうが、そうもいかない。
検査に異常がなければ、決まって"ストレス"や"生活習慣"が原因と暫定的に決める。
検査に異常がないと、この症状の原因は"やる気"なのか。"気持ちの問題"なのか。自分が悪いのか。
それ以外に何も言えないのは分かってるつもりだ。
しかし、こんなにも苦しいのに"なんでもない"というのは、とても苦しい。
何度、悩みはないかと聞かれて、同じことを言う。
改善案を示されて、やってみろと言われても、そんな元気なんてない。あったら、病院になんて来てない。
人間関係に悩んではいるけれど、誰に休んだ日のノートを見せて貰えばいいか困るけど、喋ったら吐きそうなんだもの。話しかけたりなんてできないよ。人前で吐きたくない。休み時間はトイレに篭るんだから。薬を飲むんだから。周りなんて見えない。やらないんじゃない、できないんだ。
先生を探して学校中を歩いた次の日には学校を休んだ。体調が悪いから、体育を見学したかった、しかし、見学するために更に体を壊した。
自分だって自分のことを信じられない。
"検査結果に異常がない"ならば、元気なはずで、こうなっているのは間違っている。ならば、自分の怠けではないか、甘えではないか。本当に自分が体調が悪いのか、体を壊しているのか、信じられなくなっていた。
自分が悪いんだ、自分のせいで体が元気なのに言うことを聞かないんだ。
内科医の勧めで心療内科に通うようになった。
そこでは、ストレスよりも、元気がないことに問題を置いてくれた。
随分と楽になったと思う。
処方された薬を飲んで、体調も緩やかな回復を見せた。
それでも、明確な検査異常はなかった。
飽くまで、状況を診てくれたのであって、何か数値があったわけじゃない。
理解してくれる人はいると思う、けど、やっぱり、理解してくれない人もいると思う。
万人に理解されなくてもイイと思う。それでも、やはり、不安だ。
"気合い"の問題"気持ち"の問題じゃない。
精神的なものも含めて、やはり、見えない原因が確かに存在していて、自分でコントロールすることは不可能なんだと思う。鬱病もその他も、きっとその人の気持ちの問題だけじゃない。複雑に様々な問題が絡み合っていて、断定はできない。そして、検査にも異常はでないことが多いと聞く。
"人は見えないものは信じられない"
これは、多くのことに言えると思う。
先の例でそれを数値で検査できるようにすれば解決かというと、それは違うと思う。
人は数値という、わかりやすい明確な物差しを得てしまった。故に、それに依存してしまって、それ以外のことをより、信じられなくなってしまったのだと思う。
数値は多くの人で共有し、共通認識を持つことができる、素晴らしいものだと思う。明確で、皆を納得させるために欠かせないものだと考える。政治の根拠とすれば民衆を納得させるのに役立つだろう。民衆も安心して政治を任せることができるだろう。
しかしながら、数値で表せないものの方が、実際には多いと思う。
数値で表そうとして、それを成し得ても、また新しい、測れないものが現れると思う。
わからないことは不安だ。明確でないことは不安だ。
だからこそ、数値や明確な物差しを信じて、他は、あり得ないこととしたい。
しかし、数値だけを信じて、それ以外を蔑ろにすることは、先に述べたように問題がある。
数値に見えない、明確にならない何かが、確実に何かに影響を及ぼしていることを理解しなければならない。
数値に頼らずに何かを見極めていく方法を考えて、全ての根拠をある見える一つに依存しないようにしていきたいが、それは、とても難しいと思う。
いつか、見えない何かを信じられるようになって、納得できるようになったなら、これまで見逃されてきた才能が開花して、今、不遇に嘆く人が少しは減るんじゃないかと考えている。
実力(テストの点など)が優れていなくても、人をまとめる力は優れている人、ただそこに居るだけで場が温まり、結果的に利益に貢献する人、明確でないから、私たちは彼らの実力を信じられない。目に見える何かにならないから、信じられない。
いつか、見えないものを信じて、互いが互いを尊重して、全ての人が才を活かせるようになることを願う。




