ノーネームヒーロー
図書室にはスピリちゃんがいる。
スピリちゃんは幽霊だ。でもこの子は、幽霊と言われると、とても怒る。
だからあたしはスピリちゃんの前では、幽霊のことは言葉にしないようにしている。
お化け、怨霊、悪霊、地縛霊みたいな、類義語もふくめて。
「何度も!! 言ったけれど!! 何度だって言うからね!! あい ねぶぁ ぎばっ……!! こぉー みー スピリ!!」
「アタシ エイゴ ワカラナイ」
インディアンうそつかない、みたいな言い方を、あたしはしてしまう。
しながら、失敗したと思う。いつもは気をつけているのに、何でだろう。ふしぎだ。
スピリちゃんは、インディアン状態のあたしを、じっとにらんでくる。
茶色っぽい目のふちが赤い。目と同じ色のふわふわの、腰のあたりまで伸びた髪の毛も、心なしか赤く見える。
そして、何故だか分からないけれど、この子の髪は、怒っている時が一番きれいに見える。
いつも着ているワンピースはむねの前にリボンがついていて、とてもすてき。
でも、あざやかにきれいなのは、スピリちゃんの髪の毛の方だ。
なんでだろう?
ゆらゆらと揺れるからかな。
キャンプファイヤーの炎が、とてもきれいなのは温かいからだと思う。ぼーっとあたっていると、肌が内側から熱く、いたくなるような温かさ。
そんな温かさに、あたしの心はとてもひかれる。
けれど、スピリちゃんに温度はない。
でも怒りが限界を超えると、理科の静電気の実験みたいに茶色は赤くなって広がる。
クジャクみたいなぶわわっとした広がり方だ。
ゆうれいが怒って髪の毛をさか立てたら、普通はとても怖いはず。
でも、あたしとこの子は、冬休みが始まるちょっと前からの付き合いだ。
だから分かる。この子はもうすぐ泣く。
でも普通の子みたいには泣かない。顔をしわくちゃにしたりしない。
声だって出さない。ただ、あたしをにらみながら、涙をぽろぽろと流す。
虹みたいにきれいな形の目をとても赤くする。そしてほっぺたも耳たぶも同じ色に染まる。
「泣けばすむとか思ってる子、あたしは好きじゃない。何回も言うけれど、人間でもお化けでも悪霊でも地縛霊でも関係ないからね」
あたしは声をものすごくおさえて言う。だれかに聞かれてしまったら、あたしは図書室の本棚の奥で独り言をつぶやく、変な図書委員になってしまう。
これはあたしにとって世界のはめつを意味する。でも、スピリちゃんにとっては、幽霊と呼ばれることが、破滅なのかな。だからこんなに怒るのかな。
悪いことをしてしまったような気持ちがする。
体の後ろが見えない何かにさわさわされるような、不安な気持ちだ。
罪悪感って、これのことかも。
ごめんなさい、は、たしか[さり]だ。あたしは言いかける。
でも、それよりも先に、スピリちゃんに怒鳴られてしまった。
「泣いてないし!!! カタカナ使うくせに ゆー どん の いんぐり なんて信じられない!!!
これだからいなかはいやなのよ!!!
いんだねっ もなあい、いなかなんて、世界の果てにもほどがあるわ!!!」
スピリちゃんは、涙を流したあとは、日本語が多くなる。
ふしぎだ。
冷静になるのかな。あたしも泣くとすっきりするから、スピリちゃんも同じ感じなのかな。
分からない。
けど、スピリちゃんの[いんだねっ]と大きく言った後の[なあい]の声が、すごくバカにした感じで、だから、あたしの中から、[さり]という言葉が消えてしまった。
「いんだねっが何か知らないけど、アメリカにあるものが世界のどこにでもあるなんて考えるのは、変だと思う」
言いながら、やっぱりかわいそうになってきて、[さり]が復活しかける。
タイミングが悪いとも思う。おたがいに分からない言葉が多いのが、あたしたちをむずかしくしている。それは分かる。
でも言葉以上の問題がある気がする。
何かは分からない。けどもどかしい。
このもどかしさを、スピリちゃんも感じてくれてたら、話は簡単なのだけど……。
よりによってこういう時にかぎって、スピリちゃんはうでを組んで、ふん、と鼻で笑ってくる。
笑われたあたしは、すごくカチンときて、
もう、知らない!!
と大きな声を出しかける。
その時……。
スピリちゃんの目が大きく開いた。
この子の目は白目がほとんどない。
茶色っぽい目がきれいにかがやく、大きな目をしている。まるで宝石みたい。
けど、おどろく時は、トムとジェリーの猫くんみたいな目になる。
ネズミくんのいたずらに引っかかった時の猫くんの目だ。
あたしはこの目につられて、一緒にびっくりする。
「しゅどぅんすぴあう……!!」
超スピードで口走るスピリちゃん。
スピリちゃんはAラインのクリーム色のワンピースから出た、うすい肩をななめに傾ける。
白くて細いうでが、口の前でバッテンを作る。
胸の前のすてきなリボンがほんのちょっとだけ、うでの奥にかくれる。
あたしは[しゅどぅんすぴあう]のつづりは分からない。けれどもう何回も聞いている。
聞くたびにものすごい危機をむかえたので、いやでも意味は分かる。
もし忘れてしまっても、スピリちゃんの身ぶり手ぶりが教えてくれる。
話すな!!
と言ってくれてる。
あたしは本だなをふり向く。もちろんずらりと並ぶ本の列が目の前に広がる。
列はところどころ欠けて、たまに本がななめになっている。
このななめを真っすぐに直すのが、図書委員の仕事だ。でも仕事はこれだけじゃない。
カウンター当番もする。本のかし出しや返却を受けつけたりするのが、当番の仕事だ。
あたしはかし出しよりも、返却の時の方がうれしくなる。
読書カードにスタンプを押せるから。
カードは空欄の四角が10こ1列で、9こ目までは丸のスタンプを押す。
10こ目には二重丸。
列は5つあって、最後の50こ目はうずまきグルグルの花丸を押すことになっている。
二重丸には本のしおり、花丸には図書券と、ごほうびが用意されている。
だけど、この学校の子たちはスタンプ集めにあんまり興味がない。
勇一くん以外は。
勇一くんは6年の2学期のはじめに転校してきた男の子だ。
その前は東京にいて、お父さんとお母さんがしょっちゅうケンカをしていたらしい。
離婚の危機もむかえたらしいけど、みんなでやり直そうということで、この町に引っこしてきたそうだ。
お父さんは背広をきるマンから林業の人になって、お母さんはスーツをきるウーマンから専業主婦になって、良妻賢母という種族を目指しているらしい。
勇一くんは読書マスターを目指せと、お父さんから言われているそうだ。
そして、マスターを目指すのに邪魔なゲームの機械とソフトを全部すてられてしまったらしい。
それは東京からこちらに引っこすための荷づくりの日。
お父さんは勇一くんにファミコン、スーパーファミコンとあとたくさんのソフトをボストンバッグにつめさせた。
バッグに入れられるファミコンもスーパーファミコンも、すごい静かだった、と勇一くんはあたしに話してくれたことがある。
お父さんが勇一くんをつれてゲームショップに行ったのも。
財宝の洞窟みたいなショップの奥のカウンターに、お父さんがバッグをおいて、ちょっと乱暴に中身を取り出しはじめたのも。
店員さんが静かな目で、査定をしますからおまちください、と言ったのも。
「けっこう高い値段がついてさ。オヤジはそのあと、本屋につれてってくれてさ。マンガ以外ならなんでも、この金で買っていいぞ、って言うんだけどさ。
わかんねえの。読まねえから。だから、マンガっぽいのを選んでさ。こっちに来る時も読んでみたけど、全然わかんなかった。
オヤジ、バカじゃねえのって思った」
バカじゃねえのって言うわりに、勇一くんはうれしそうだった。
多分、お母さんとケンカばかりしていたお父さんは、勇一くんにもピリピリしてたんだろうな。
……あたしのパパとママはめったにケンカをしない。
もともと顔を合わせないから、そんな機会がないのかも。
あたしのパパは遠くの町で、高校のバレーボールのコーチをしている。
寮に泊まりこみで、熱心に生徒たちに教えているみたい。
去年全国2位になった。その前は3位。今年は1位かな? と噂されている。
テレビ局の人たちも注目していて、ドキュメント番組もパパを取材したことがある。
去年の話だ。うちにも来た。
あたしは取材のカメラの前で、カチコチになってしまった。
色んなことをいつもよりもたくさん話した。夢中だった。
けれど、テレビに映ったあたしは、パパと一緒にテレビを見ているだけだった。
テレビの中のテレビの画面には、パパがコーチをしている部活のお姉さんたちが出ていた。
鳥がさけぶような声で鳴いていた。
あ、逆か。鳴くような声でさけんでいた。
そんなお姉さんたちを、パパは腕組みをして、むすっとにらんでいた。
うちではぜったいにしない顔。
あたしはお父さんのこの顔をみると、いつも怖くなってしまう。
怖くなってママを見る。ママは、いつもとてもうれしそうだ。
だから、あたしは安心できる。知らないパパを、いつものママが喜んでいる。
つまり、大丈夫ということだ。
パパが週末しか帰ってこなくても、大丈夫。
ママが趣味の切り絵に無我夢中でも大丈夫。
ちなみにドキュメント番組では、ママの切り絵も紹介されていた。
鳥とかタイとかヒラメとかイカとかタコとか富士山とか並木道とかが、ママの切り絵にかかると、写真よりも本当になる。もっとちゃんと存在している感じ。
美大卒の元高校の美術の先生というのが、ママの学歴とか職歴とかいう歴史なんだけど、大学のころは切り絵にそんなに興味はなかったみたい。
でも、新卒で勤務した高校でパパと出会って、結婚。そのまま退職して、あたしが生まれた。
それで、あたしに授乳をしてくれていた時……。
とても切り絵がしたくなったそうだ。
でもママはまず、あたしをちゃんと育ててから、と我慢してくれた。
おかげであたしはちゃんと育った。絵本もたくさん読んでもらえた。
図書委員になるくらい本も好きになったし、漢字だって結構難しいのを、すらすら書けたりする。もちろん、その漢字が正しく書けてるかは、時と場合によるけど、書くことに意味がある、とママが言ってくれたことがあるから、あたしはその言葉をしっかりと胸に刻んで、間違えたり忘れたりしても、あんまり気にしないようにしている。
そんなあたしだから、国語の成績が特別良いわけではない(というより、得意教科という言葉はあたしの辞書にはない)けど、新聞だって何となく読めたりする。
しかも、ママから歌もたくさん聴かせてもらえたおかげで、歌も好きだ。リコーダーの演奏は苦手だけど。
これは緊張すると指が変な順番で動いてしまうのが悪い。
でも、ジャガイモの皮はきれいにむくことができる。もちろん、ニンジンも、リンゴも。
リンゴを可愛いウサギにする方法だって、あたしはちゃんと覚えている。
全部ママのおかげだ。今現在も、ママの教育は続いている。
スパルタ式じゃないけど、ゆったりとじっくりと教えてくれる。だからあたしはのびのびと、器用な人を目指すことができる。
でも……。
しいて挙げるなら、だけど、勉強はあんまり教えてくれないかな。
ママいわく、学校のことは学校で考えればいい、らしい。
だからあたしは塾も行かない。
行くほど成績も良くない。
ちなみに、クラスの子たちで、塾に行っていないのは、勇一くんとあたしだけだ。
他のみんなはバスで隣町の塾に通っている。みんな特進クラスだ。
そこで中学受験を目指している。
みんな90点とか100点の常連だし、ちゃんと受かるんだろうな。
中高一貫教育とかで、その先にはどんな未来が待っているんだろう?
分からない。あたしと縁の薄そうな、眩しい世界が広がっている気がする。
だから、クラスのみんなと、あたし&勇一くんは学力という点では全然違う。でも、だからといって仲が悪いとかではない。新聞で問題になっているイジメも、田舎でクラスの数もそんなにないからか、まったくない。
あたしは駆けっことか苦手だから、あんまり外で遊ばないけれど、たまに校庭に行くと、ちゃんと仲間に入れてもらえる。
だから、勉強の出来不出来という差はあるけれど、あたしは差があってもよいと思っている。
勇一くんはどう思っているか分からない。もしかしたら、読書マスタ―を目指すのも、差を埋める一環なのかもしれない。
でも、あたしは……。
世の中の人が全員、勉強ができる人になる必要はないんじゃないかな、と思う。
そして、ママがあたしの教育にそこまで熱心じゃないことも、悪いとは思わない。
まったく思わない。
だって、ママは切り絵に夢中だけど、訊いたらちゃんと答えてくれるし。説明だって分かりやすいから。
紙を切る小刀から目も手もはなさずに、でも言葉だけで本当に分かりやすく教えてくれる。
あたしはママの説明を全力で聴きながら、ママは頭がよいと思う。上品な顔をしたママ。
体も顔もごつごつと四角くて大きいパパ。
あたしはどちらにも似ていない。
テレビに映っても、その似てなさはそのままだった。
あたしは画面の中で、マグカップのココアを大事そうにのんでいた。
同じ部屋のパパとママは、あたしじゃなくてテレビの画面をみていた。
画面ではちょうど、ママが開いた個展を映していた。
この個展は去年、JRの大きな駅がある、とても賑やかな街で開催された。
本当にたくさんの人が来ていた。
ナレーションの人が、偉そうなおじさんの名前を紹介していた。なんでも、お母さんの美大の恩師で、有名な芸術家さんらしい。
けれど、あたしは知らない。うちでも話題にでない。
そもそもあたしたちの家族はほとんど話をしない。
でも、仲が悪いとかじゃなくて、言葉じゃない何かで、ちゃんと会話をしている。
そんな家族だ。そして、こんな家族があってもよいと思う。
こんなあたしたちの家族でも、パパとママがケンカをする時が、あるにはある。
この時は、あたしには分からないむずかしい言葉が飛びかう。
言葉をつかって、もっと強烈な感情がやり取りされる。
そういう時は空気がすごく変になる。
しまいにだれも何も話さなくなって、テレビのニュースとか冷蔵庫の音がやけにうるさい。
それでもパパもママもあたしにはやさしいし、鬼みたいな顔はしない。
けれどあたしはこわくて、算数の勉強をしてくる、と宣言して、部屋に引っこむ。
そうして、やっと安心。
部屋は静かだけど、落ちつく静かさだ。
あたしは算数のドリルをひらく。とても長い時間をかけて、解く。
それからセーラームーンを読んで眠る。
次の日の朝、おきると、パパとママは元通りで、家もちゃんと家になっている。
テレビのニュースの声も、冷蔵庫もうるさくない。あたしはすごくほっとする。
東京の時の勇一くんには、そんな朝がなかったんだろうな、と思う。
そしてこの町にお父さんとお母さんと勇一くんで引っ越して来て、ピリピリがなくなった。
みんなで同じ何かを目指すようになった。
お父さんは林業の人。お母さんは良妻賢母。勇一くんは読書マスター。
それぞれ違う。けれど、目指す何かがあることで、同じ方向を見ることができる……と、勇一くんのお父さんは、いつも力説しているそうだ。
だから、勇一くんは毎日図書室に来てくれる。花丸スタンプだって、もう2回も押している。
本を借りた夜に、勇一くんはその本を2回読む。そしてあたしに内容を教えてくれたりする。
「どんなお話だった?」
スタンプを押しながら、あたしはきく。
あたしの横でスピリちゃんがじっとタイトルを見ている。
よだかの星。
表紙では黒い空に星がたくさん光っている。
白い鳥が羽根を広げて、表紙の右ななめ上の、その先のどこかを目指している。
去年からマイバン見えるすい星にも、実は羽根があるのかもしれないと思う。
鳥は宇宙のどこかを目指し、すい星は地上に突撃しようとしているけど。
「なんか悲しかった。おれもぶち切れたら星になるかもしれないと思った」
カウンターの向こうで、勇一くんは悲しそうな顔をする。
「よだかって星になったの?」
スタンプから顔を上げて、あたしは勇一くんに訊く。
勇一くんはうなずく。
「なった。味方が家族しかいなくて、他はいやなヤツしかいなくてさ。家族はめっちゃ尊敬されてっけど、よだかはバカにされてんの。でも、よだかのせいじゃないんだ。
苦しいことばっかでさ。結局ぶち切れて星になった」
「そうかあ」
あたしも調子を合わせて、ちょっと落ちこんだ声をだす。
「おれはバカにされたくない。星になるならもっと楽しくなりたい」
「どうやってなるの?」
「わかんねえけど」
勇一くんは笑った。あたしもつられて笑う。
なれるよ、あたしもわからないけど、と言ってあげたい。
けれど、言ったあととても恥ずかしくなりそうで、言えない。
勇一くんが図書室から出ていったあと、あたしはスピリちゃんにお礼を言った。
「教えてくれてありがとう」
「のー ぷろぶれむ。でも……」
スピリちゃんはあたしを見ずに口ごもる。
というか、勇一くんがよだかの星の話をしてから、ずっと本の背表紙を見ている。
よだかの星は、返却本のワゴンにおさまっている。
だから、よだかの星は静かに動かない。
でも、スピリちゃんがじっと見ているものだから、あたしは何だか、それがよだかみたいに光をはなっているような錯覚をおぼえる。
「でも、何?」
「わい でぃじゃい びかま スピリ」
「あのね。スピリちゃん」
あたしたち以外、だれもいなくなった図書室で、あたしはスピリちゃんを見る。
茶色がかった髪が眉にかかっている。きれいで小さな横顔。
スピリちゃんの横顔は動かない。返事もしてくれない。
「あたしは、英語が本当に分からないの。アルファベットも覚えられないの。すごくむずかしいの」
「知ってるわ。でも、それはあなたの責任ではない」
スピリちゃんの声はかすれている。
女の子の声から希望とか前向きな何かを完全に分離してしまえば、こういうかすれ方になるのかもしれないと、あたしは悲しく思う。
※※※※※※※※
英語が分からないあたしでも、スピリちゃんと出会ったことで、覚えた単語がある。
スピリ。アルファベットの書き方も、これだけはちゃんと覚えることができた。
spirit
意味は精霊。意味も辞書で調べた。
草や木や動物や人や物に宿っているふしぎな存在、という意味らしい。
あと、肉体からとき放たれた自由な霊、という意味でも、精霊は使われる。
スピリちゃんは後ろの方だと、あの子は言い張る。
けれど、あたしはちがうと思う。
たしかに、幽霊とは時間帯がちがう。これは事実。
幽霊は夜しかあらわれないそうだし、昔の絵の幽霊には、足だってない。
それに、スピリちゃんは幽霊のポーズ第一をとらない。
これはだれでもできる。
まず腕を両方、胸の高さまで上げる。
それから肘を折って、二の腕を体に引きよせる。
最後に、手首の上の手のひらを前に折る。
これで完成。とても簡単なポーズなのに、スピリちゃんは絶対にこのポーズをとらない。
面白半分で一緒にしてみようとさそうと、
「あたしはスピリなの!!」
と怒る。
それから大げさに小さな肩をすくめて、舌打ち。決め台詞的に、
「とぅうううー いでぃお!!」
とさけぶ。
この時のスピリちゃんは、もう顔全体で、馬鹿みたい!!!! といら立つみたいに、怒っている。
そんなスピリちゃんが、あたしから見て幽霊である理由。
それは、この子の声がだれにも届かないということだ。
どんなに大きくさけんでも、あたし以外の人の鼓膜が震えることは、絶対にない。
声どころか、やっぱりあたし以外のだれもスピリちゃんを見ることはできない。
スピリちゃんは聞こえるのに。
図書室から出ることができない代わりに、図書室に近づく人の足音は分かる。
あたしは聞こえないのに、この子は誰かがドアを開く前に、分かる。そして教えてくれる。
だからあたしは、今のところ『独り言を口走る変な図書委員』にならずにすんでいる。
もちろん、予防的に声はおさえているけれど。
とにかく、世界はまだ破滅していない。
そして勇一くんは毎日図書室に来てくれて、本の内容も話してくれる。
あたしは勉強になるし、ママと違って、あたしを見て、内容をちゃんと教えてくれることが……。
すごく嬉しい。嬉しいというか、何か、くずぐったい。
それに、実はスピリちゃんだって、楽しみにしているはず。
だって、この子は本をさわることができないから。
本どころか、スピリちゃんは、あらゆる物にさわることができない。
そもそもさわろうとしない。
ちょっと前に、あたしと大ゲンカをして、空中でふり回した手が本棚の本をすりぬけたことがあった。
すりぬけたんだから、痛くないはずなのに、スピリちゃんはとても悲しそうな顔をしていた。
多分、自分が幽霊だと認めるのが、嫌なんだろうな。
だから、どんなに怒っても、あたしにはつかみかかってこない。
どんなに友だちのように思っても、言葉が通じないからあたしたちはケンカをしてしまう。
仲直りをするにも、下校だって一緒にできないから、次の日までもんもんとしてしまう。
だからかな。
スピリちゃんはあたしが図書室を出るとき、またね、とは言わない。
その代わりに、いつも『やっと眠れるわ』と肩をすくめる。
どうやら、この子はあたしといない時は、眠ってばかりいるらしい。
夜中にたまに起きて、窓の外の空を眺めたりするそうだ。
去年から、夜の空にはすい星がいつも尾を引いている。
まだ生きていたころ、スピリちゃんは昼間の空にも、すい星を見たそうだ。
昼間に見れるすい星なんて、あたしは聞いたことがない。
しかも名前だってちがう。ママにきいたら、あのすい星の名前は、ヘールボップすい星というらしい。
でもスピリちゃんにとっては、あれは、みっくのーとぅすい星。
うん。全然違う。
けれど、スピリちゃんがいた世界ではそうだったんだろうな。
この子の話は、あたしが理解できないものが多い。
大人も子どもも板チョコを小さくしたみたいな、折りたたみ式の電話を持っているとか。
電話は電話線がなくてもつながっていて、計算もできるとか。
計算だけじゃなくて、[いんだねっ]もできるとか。
あたしの想像を超えている。
あ、ポケットベルなら、去年、白須江涼子ちゃんのCMで見た。
でもあれは文字を送ることしかできない。
そういえばケイタイ式の電話も、CMでたまに見たかも。
けど、たしかあれは本のしおりみたいな大きさだったはずだ。厚さはブンコ本サイズ。
折りたたみなんてできるはずがない。
あたしはたまに、もしかしたら、スピリちゃんは並行世界から来たのかもしれない、なんて思ったりする。この地球と似ていて、科学が進歩している世界。
そこにはポケベルがなくて、折りたたみ式の電話をみんな持っている。
そうして、[いんだねっ]をするんだろうな。
勇一くんからよだかの星について話してもらってからしばらくたった日。
あたしは[いんだねっ]について、スピリちゃんに教えてもらえた。
けど、やっぱりよく分からなかった。
世界中の人と文通ができる場所が[いんだねっ]らしい。
そして分からないことは[いんだねっ]でしらべればいいらしい。
うん。何それって感じ。
全然分かんないよ、と言いかけた時……。
スピリちゃんが例のジェスチャーをした。
Aラインの白のワンピースから出た、うすい肩をななめにかたむける。
白くて細い腕が、口の前でバッテンを作る。
ここまではお決まりだけど……。
唇から、頬から色が引いていた。
スピリちゃんだけ寒いのかな、と勘違いするくらい、髪の毛の茶色も、茶色がかかる肩も震えている。
とても怖い何かがくる。
この子のおびえにつられて、あたしも思う。
そうして、8才の時に見たテレビを思い出す。北海道の小さな島をおそった津波。
夜中にたくさんの人や物をのみこんだ。
あたしは津波は見たことがないから、分からなかった。
けれど、生きのこった人がインタビューにこたえていた。
ニュースのアナウンサーさんみたいな、すらすらとした話し方ではなかった。
かかえきれない出来事が、感情が胸にうまっている。
うまりすぎて、言葉が出てこない。けれど、ひっしにカメラのこちら側のあたしたちに伝えようとする。そんな感じが、肩の震え方から伝わってきた。
その時、スピリちゃんも同じ震え方をした。
そしてドアが開く。あたしは1回ぶるっとして、それから安心。
入ってきたのは、図書委員会の顧問の先生だった。
他の先生よりも背が低い。タマゴみたいな体の形をしていて、声があったかい。
優しい先生だけど怒るときびしい。
すいません、と言っても、何が悪かったのか、説明できるまで許してもらえない。
実はこの先生は、人格者として有名みたい。
あたしがこの小学校に入る前は、頑固で融通が利かなくて不器用……と、良い所がない人だったそうだ。これは本人が話すんだから、間違いがない。
で、あたしや他の子を叱る時、先生は必ず言う。
「変われない人間なんかいないんだよ」
これは先生の決め台詞。なんと、先生の休みの日の趣味は、少年院の訪問ボランティアで、この台詞を決めながら、悪に走ってしまったお兄さんたちを更生させているらしい。
で、たくさんの不良たちが、先生のおかげで人生に前向きになり、会社を興して成功する人もいる……というのも、前にテレビで見た。
学校にも取材のカメラがきたことがある。あたしはとても緊張したけれど、机にうつむいて鉛筆を握る後頭部しか、映っていなかった。
そんな素晴らしいと世間的に評判な先生だけど、スピリちゃんはこの先生が苦手だ。
いや、この人だけに限らず、大人の男の人のことが全員苦手だそうだ。
理由はスピリちゃんも分からない。
そもそも、この子は自分の名前すら分かっていない。だから、自分のことをスピリと言う。
先生はカウンターに本を5冊おいた。善意の方から寄贈を受けたらしい。
全部が動物図鑑だった。装丁がやたらと立派だから、多分とても高い。しかも新品の匂いがする。
贈り主はお金持ちさんだな。多分、少年院を出てから頑張って、偉くなった人だろう。
先生は、いつもと同じように、ラベルを貼ったりする作業は明日でいいから、と言う。
そのまま職員室に戻っていった。
どんなに高そうな本でも、同じ言い方をする先生のことを、あたしはすごいと思っている。
色んな人があの人を尊敬するのもふしぎではない。人間は見た目じゃないんだな!!!!
と、納得しながら、5冊の本を、1冊ずつ、カウンター後ろの専用ワゴンにとした、その時……。
スピリちゃんが、
「あああああああああああっ!!!!!!!!!!!!」
とさけんだ。
あたしはびっくりして、スピリちゃんを見た。
スピリちゃんは、自分の頭のかみに指を全部立てて、かきむしっていた。
大きな目がもっと大きくなっている。
目の中心の黒い部分が、ものすごく大きくなって、茶色をほとんどなくしている。
いつもは可愛らしい口が大きくひらいて、きれいな歯の列がてらてらと光っている。
あたしは何が起きたのか分からない。何がスピリちゃんをこんな風にしたのか。
それは分かる。先生が置いていった本だ。
カウンターの板の上に、5冊つみ上げられた本の一番上の1冊。
サクランするスピリちゃんのシセンは本の表紙から動かない。というより、動けないのだろう。
でも、あたしは理由が分からない。
本の表紙には、川でシャケを狩るクマが一匹、写っているだけだ。
スピリちゃんはさけび続ける。
あたしはその異様に圧倒されて、しばらく何もできなかった。
けれど……。この子の茶色い髪の毛が、腰のあたりのはしっこから、赤に変わった時。
その赤の内側が白く輝き始めて、そこから煙みたいなものが立ちのぼりかけた時。
あたしの体はやっと動いた。
クマの本を両手でつかみ、かかえこむ。
そのまま床にうずくまる。
落ちついて、スピリちゃん……!!!!
と、心の中で祈る。
あたしはそれしかできなかった。怖かったからだ。
スピリちゃんが燃え始めたことが怖かったんじゃない。
この子を、怪奇現象を目撃するみたいにびっくりした目で、見てしまうことが怖かった。
だって、もしあたしがスピリちゃんなら……。
そんな目で見られたら、絶対に傷つく。幽霊とかお化け、怨霊、悪霊、地縛霊と呼ばれるよりも、もっと世界は破滅してしまう。
だから、あたしは床にうずくまったまま、じっとしていた。
そうするあたしの耳に、図書室の時計の音がずっと響いていた。
心臓のどくどくんという脈の方がパワフルで、そっちの方が大きな音を立てている気がした。
「あい あぷりしゃえいちゅー」
「え?」
クマの本をかかえてうずくまったまま、あたしは顔だけをあげた。
スピリちゃんがあたしの横にしゃがみこんで、とても悲しそうな顔をしていた。
スピリちゃんの髪はきれいな茶色にもどって、まぶたとか、ワンピースの膝部分にゆるく落ちている。
「ごめんね。わたしはお化けみたい。のー。のっと らいく ばっ じゃすと おんり あ ごうす」
「スピリちゃんは……」
言いながら立ち上がり、スピリちゃんを燃やしかけたクマの本をワゴンの奥にかくす。
そうしてふり返る。
スピリちゃんはあたしを、しゃがんだまま見上げている。だれも知らない海の果てに漂流してしまった女の子みたい。
気がつけばだれもいない島に流れついて、独りで途方にくれる。そんな女の子。
もしかしたら、この子は毎晩こんな顔で、すい星を見上げているのかもしれない。
それは、たった1人で。
「スピリちゃんはスピリちゃんだよっ。だって、スピリちゃんだもんっ!!!」
自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。
けど、これがあたしの気持ち。嘘も偽りもない。
本当の本当を、あたしは声にこめた。大きな声を出してしまった。
廊下をだれかが歩いていたら、聞こえたかも。
でも、いいや。あたしは変な図書委員になるだけだ。世界はちょっとだけ破滅する。
けれど、スピリちゃんが燃えちゃうよりもまし。
「必要以上に大きな声だわ」
「うん。大きな声で言いたかったの」
「そう。ありがとう。でもね。わたしはスピリじゃないの」
「え?」
あたしの目は丸くなったと思う。とてもびっくりしたから。
スピリちゃんは立ち上がって、あらためて、あたしをじっと見てきた。
この子はあたしよりもほんの少しだけ小さい。だからあたしを見上げる形になる。
もしスピリちゃんが同じクラスだったら、あたしが列で2番目になれるのに。残念。
「まい ねーむ いず あんじゅ きのした。日本語なら、木下アンジュ」
「……思い出したの? 名前を」
あたしは訊きながら、とてもドキドキしていた。運動会の徒競走の前みたいな、ドキドキ。
何かが始まる、そんな予感。
「うん。名前は思い出した。他はあなたがいない時の でいたいむ みたいにぼんやりして完全じゃないけど。
でも思い出したわ。まむ とか、おとうさん、とか、おばあちゃんとか……。それだけじゃなくて、思い出しちゃったの。わたしの、ね」
そこで口をとじて、スピリちゃん、もとい、アンジュちゃんはワゴンに視線を移した。
並ぶ本たちの奥に、クマの本が息を潜めてかくれている。
「人間だった時の最後の めもるぃ。わたしが殺された時のことをね。思い出しちゃった、の」
眉に痛みを込めてよせるアンジュちゃん。
本当に死んじゃった人みたいに、血の気のない顔。
この子が[めもるぃ]と声に出した時の、英語独特のくぐもった発音がとても重くひびいて……。
アンジュちゃんは友だちだよ!!! 生きてるとか死んでるとか関係ないよ!!!
と、あたしは大きな声でまくしたてたくなった。
けど、できなかった。
アンジュちゃんには、思い出したことを聞く人が、必要だったから。
あたしだって、冬休みが始まるちょっと前からの付き合いなんだから、それくらいは分かる。
そして、分かるということにあたしはほっとした。
でも、ほっとするのと同じくらい、それしかできないあたし自身に、がっかりした。
※※※※※※※
物に触るということが、ちゃんとできる体で生きていた時。
アンジュちゃんは、お父さんの方の祖父母の家にいた。
その家は雨戸がざらざらしていて、たたみは線香の匂いがしたそうだ。
庭から海が見えて、朝方は太陽がのぼる。
そうして明け方の暗闇を、水平線が白く割ったらしい。
アンジュちゃんは毎朝、朝日を見ていた。太陽のずっと向こうにアメリカがあると思っていた。
そこにはアンジュちゃんのお母さんがいる。
今も服のデザインをして生活をしているそうだ。
お母さんはずっと前に離婚をしていて、毎月手紙をくれていた。
アンジュちゃんの体の大きさに合った服も送ってくれる。
でも、おじいさんとおばあさんは、お母さんのことがとてもきらいらしい。
というよりも、うらんでいるように、アンジュちゃんには見えたそうだ。
理由は、アンジュちゃんのお父さん。
アンジュちゃんの記憶の中では、お父さんは仏壇の中で微笑む人。
目が黒くて小さくて優しい。ちょっと困ったみたいに眉の根を寄せてる。永遠に寄せてる。
そして、そんな、記憶の中では不動のお父さんの人生を、めちゃくちゃにしたのがお母さんだと、祖父母の2人は思っていたみたい。もしお母さんが2人の前にあらわれたら、包丁を持ち出すこと請け合い、くらいに怒っていたらしい。それは、怒りというよりも憎しみ。
でも、祖父母は、アンジュちゃんの前ではそういうことはあんまり言わなかった。
けど、アンジュちゃんが目のとどく所にいない時は、2人でお母さんのことをのろっていた。
でも、アンジュちゃんはよく分からない。
やさしい人たちに悪口を言わせるお母さんが、どういう人なのか。
故人となってとても長い時間が経ったのに、許されないほどの何をしたのか。
されたお父さんがそこまでの完璧な被害者だったのかも。
そもそも手がかりが少な過ぎたから。
アンジュちゃんの中の、お父さんの思い出の8割は仏壇の中だけど、残りの2割は冷蔵庫の前の人だ。
とても疲れている顔で、儀式みたいに冷蔵庫を開けるお父さん。
口数は少ない。けど、冬にいれてくれるココアは温かくて美味しかったらしい。
それが、生きていた頃のお父さんとの思い出。
アンジュちゃんとお父さんは、アメリカで2人暮らしをしていた。
でも、思い出せるのは『していた』ってことだけ。
アンジュちゃんは、自分の名前は思い出せるのに、この頃のことを思い出すことができない。
何か、印象が薄いみたい。
でも、色んな淡い記憶の合間に、つないだお父さんの手の厚さとか、温かさの感覚が思い出されるそうだ。
特に、空港行きのバスに乗り込んだ時の手の強さは、はっきりとこの子はおぼえている。
でも、飛行機の窓からの景色はすっぽりと抜けてる。それはまるで、行方不明の落とし物。
そんなアンジュちゃんが、死んでしまった今でも思い出せる一番古い記憶は……。
光がさらさらする湖。
湖の向こうには、こんもりとした緑の山。
その山は富士山みたいにのっぽじゃないけれど、雪をかぶっていて、王様みたいにどーんとした山だったらしい。
山と湖を、お母さんのつばの広い帽子と髪が隠していた。
髪の色は茶色。アンジュちゃんと同じ色だ。
そしてつばの広い帽子は麦わらの色。
茶色の髪が柔らかくかかる目も同じ色。
お母さんの瞳には、とてもはっきりと強い光が宿っていたそうだ。
お父さんは仏壇と変わらない。ちょっと困ったみたいに眉を寄せる、小さな黒い目の、優しい顔の人。でも、冷蔵庫を開ける時みたいな疲れた雰囲気ではない。
そんなお父さんも、強い色の目のお母さんも、アンジュちゃんからしたら、とてもくつろいでいるように見えたそうだ。
でもその記憶と、おじいさんとおばあさんのお話は、ぜんぜんつながっていない。
だからアンジュちゃんはとても困ったみたい。
お父さんは天国だし、お母さんはアメリカ。
しかもお母さんは日本語で、『愛してる』としかメッセージカードに書いてくれない。
多分、気持ちを全部、一緒に贈ってくれた服にこめていてくれたんだろう、とアンジュちゃんは思っている。だから、この子はお母さんの気持ちを疑ったりはしない。
でも……。
愛している、という言葉だけでは、真実を見つけることはできなかった。
お父さんとお母さんの間にあった真実。
何があってお母さんは何を選び、お父さんはどう傷ついたのか。
家族になってからアンジュちゃんが生まれて、別々になるまでの道のり。
全部をアンジュちゃんは知りたかった。でも、何1つ、確かめることができなかった。
もちろんアンジュちゃんは2人の経緯を、何回も訊こうと思った。
でもそのたびにあきらめてしまった。
だって、どう訊けばいいのか、分からなかったから。
アンジュちゃんは、お母さんに不平不満を言いたいわけではなかったから。
訊くこと自体が、お母さんをとても傷つけるんじゃないかと、思ってしまったから。
それで、アンジュちゃんは『わたしも愛しています』とだけ日本語で返事を書いていたそうだ。
それから、追記に自分の身長と体重を添える。
もちろん、お母さんがくれた服を着て撮った写真を手紙に同封するのも忘れない。
この、同封の写真を撮る時が、アンジュちゃんは一番嬉しかったそうだ。
お母さんが、カードと一緒に送ってくれる服は、手ざわりが普通の服と全然ちがう。
デザインも細かいところは他のとそんなに変わらないはずなのに、印象が別格。
特別な想いがこもった服だと、アンジュちゃんは感じていた。
そしてその服を着ると、アンジュちゃん自身も特別な女の子になれた気がした(あたしは十分に特別にとびきりきれいな女の子だと思ってるけど)。
嬉しいのはそれだけではない。
写真の撮影役は、いつもおじいさんがしてくれていた。
髪を整えてくれてたのはおばあさん。いつも仕上げにお姫様みたいなティアラをかぶせてくれて、ティアラはたまに服と全然合ってなかったのだけれど、それでもアンジュちゃんは嬉しかったそうだ。
そして、とても感謝をした。服を送ってくれたお母さんに。
ティアラをかぶせてくれるおばあさんに。
そして、丁寧に慎重にカメラのシャッターを切ってくれるおじいさんに。
撮影が終わっても、祖父母の2人は服を捨てたりはしなかった。
それどころか、とても大切にしてくれた。
だって、保存のために、大きくて立派なたん笥も買ってくれたんだから。
しかも、そういうたん笥は、皆で住んでいた家の周りにはなかった。
だから、JRの大きな駅がある街にまで、わざわざ出ないといけなかった。
アンジュちゃんが殺された日も、祖父母の2人はこの子をつれて、街に出ていた。
その朝、3人はいつも通りの時間に起きて、朝ごはんを食べた。
それから皆でゆっくりと準備をして、平日ダイヤのバスに乗った。
1時間ほど揺られてから終点で降りて、JRに乗り継ぐ。
そしてさらに30分ほど電車で揺られて、3人はその駅で降りた。
改札を出た時は昼を少し過ぎていた。
アメリカの街みたいなタイルの道を、祖父母の2人に手をつながれながら、アンジュちゃんは歩いた。
正月が終わって少したった街は、人がいっぱいだったけれど、ちょっと寂しい感じがした。
見上げると空が、ビルと人とで小さく細くなっていた。
昼の、太陽の横にすい星が白く見えた。
この子が覚えているのはここまで。
気がつくと、知らない場所で、知らない男の人に首をしめられていた。
マフラーがしめヒモ代わりだった。
男の人は、べったりしたキノコみたいな髪型の、お月さまみたいな丸顔で、手がとても大きかった。
指がぜんぶ丸くて太く、毛深い。
たまごが古くなったような変な臭いがして、アンジュちゃんが顔をしかめた時。
男の人は、人間じゃないみたいな、怪物のような暗い目で、アンジュちゃんを見据えたまま……。
マフラーにこめた力を強くした。
アンジュちゃんは気が遠くなった。
気がつくと夜になっていた。
揺れが伝わってくる椅子。四角い窓。車だと分かった。
うしろの座席から、前の運転席を覗く。
と、アンジュちゃんの首をしめた怪物の横顔が見えた。
アンジュちゃんはさけびたくなった。
けど臭いがきつくて、むせかえりそうになって、だから冷静になれた。
あらためて、横顔を観察。
何の色もない目が本当に怖いと、アンジュちゃんは思った。
からっぽ。本当にからっぽ。
でも、憎しみみたいな何かがうずまいている感じ。
祖父母がお母さんに抱くのとは違う。もっと分別のない、怖い何か。
ハンドルをにぎる手が上下にぶれるたびに、座席はぶわんぶわんと左右に動く。
アンジュちゃんはそのたびに座席の下に落ちそうになる。
一方、怪物は前を見ない。
ハンドルをにぎるのと別の手を見続ける。
そのクマみたいな手の中には、折りたたみ式の電話が白く四角く光っていた。
アンジュちゃんは、自分が怪物に誘拐されたのだと、この時、悟った。
そのあとの記憶は、はっきりとしないみたい。
多分、アンジュちゃんは怖すぎて、思い出せないんだろうな。
そして、この次がアンジュちゃんが生きていたころの、最後の記憶。
暗い天井をふさぐみたいに、アンジュちゃんに覆いかぶさってくる怪物。
バタバタと手や足をうごかして、抵抗するアンジュちゃん。
小さな爪が怪物の目をひっかく。
怪物の口から、変な声とひどい臭いの息がもれる。
けど、そいつはアンジュちゃんにのしっとかぶさったままで。
顔も舐めるみたいに近づけたままで……。
手だけがふりあげられる。
その手はアンジュちゃんの頬や耳やこめかみを一度にまとめて打つ。
クマみたいな手が、とても大きいからだ。
それはアンジュちゃんのお父さんの手とは全然ちがう。とても凶暴な、苛烈な手だった。
その物凄い衝撃に、アンジュちゃんは魂が、はじき飛ばされてしまった。
そして見てしまった。
ベージュのダッフルコートにつつまれた小さな体を。
体にのしかかる怪物を。クマみたい丸くアンジュちゃんを標的にして盛り上がる背を。
アンジュちゃんの目の前で、怪物はアンジュちゃんの遺体のおでこに鼻をすりつける。
暗い床に広がる茶色の髪の毛のニオイをかぐ。
その丸い肩はもう一度、手をおもむろにふり上げる。
そして遺体はまたぶたれて……。
もう、いやだ、とアンジュちゃんはさけぶみたいに思った。
それが最後の記憶。
クマの本の表紙の写真は、クマがシャケに取っていたポーズは、アンジュちゃんに乱暴をする怪物にそっくりだった。
クマがふり上げてはじいた水面には何もない。
でも、アンジュちゃんはその水面に自分の姿を重ねた。
そして、宙をとぶシャケには、アンジュちゃんの魂を。
※※※※※
「どうしかしたんですか?」
「え?」
「ええと……おつりを、ですね」
こまった声でそう言って、摩周さんは目を水色の皿に落とした。
この町ではあまり見ない感じのメガネがおしゃれで、あたしは素敵だと思った。
ふちの色がミルクをとかしたチョコレートみたいなマーブルで、都会の人っぽい。
実際このお兄さんは都会から来た人だ。
千円札の夏目漱石が若くなって、ひげをそって、かみの毛をおろしておしゃれなメガネをかけたら、摩周さんになると思う。
あたしが相談するべきは、先生でもママでもパパでもなくて、やっぱりこの人ではなかったのかと、真剣に思う。
研究のために日本全国を回っているこのお兄さんなら、あたしの話だって、真面目にきいてくれたかもしれない。
けっきょく、あたしは臆病だった。だから、こんな結果になってしまった。
ひどい後悔をしながら、あたしは袋に入れられた野球の本を、むねの前でぎゅっとだきしめる。
新しい本のにおいがする。
水色の皿の上では、おつりの百円玉とか十円玉が、それぞれの色で光っている。
今さっき、あたしが買った本のおつりだ。指をのばすべきだけど、あたしは本をだきしめることしかできない。多分、いや、ぜったい泣いてしまう。
だって、もう鼻が痛くなってるんだもん。
カウンターをはさんで、摩周さんがとてもこまっている。
あたしは小皿の上のコゼニをわしづかみにする。
そうして本屋さんの入り口にかけ出す。
摩周さんの声が後ろからする。
何かがポケットから落ちた気がする。
けどあたしは止まらずに、商店街を走り続ける。
手と頬に、冷たいものが当たった。
あたしは立ち止まって、空を見上げる。雨が細い。
……アンジュちゃんからクマのことを聴いたあたしは、とても怖くなった。
そして、アンジュちゃんのために何かをしなければと、思いつめた。
でもそれは、あたしの心の動きは、本当にアンジュちゃんを思っていたのかな。
自信がない。
ただ、とても悲惨な暴力の話をきいて、混乱しただけかもしれない。
世の中に、アンジュちゃんみたいな子を誘拐する人がいる。
車にのせて、そしてだれもいない建物につれていって、死んじゃうくらいに酷いことをする。
そんな怪物がいる。
あたしはとても怖くなった。
大きな体の男の人に背がぞくぞくとするようになった。
そして……。
まず、あたしの中の恐怖に気づいてくれたのは、図書室担当の先生だった。
先生の体格はクマじゃなかったから、正直に話すことができた。
世界の破滅?
関係ないよ。だって、アンジュちゃんの世界はもう、クマの怪物に破滅させられているんだもん。
それに先生なら、あたしの知らないことを知っていて、解決方法を見つけられるかもしれない。
少年院のお兄さんたちの、色んな悩みを聴いてあげて、正しい道を示してあげれる先生なら……。
と、あたしはバカみたいに期待していた。
ううん。みたい、じゃない。本物のバカだ。
先生はあたしの話すことを信じてはくれなかった。
でも、でたらめを話すなと、怒ることもしなかった。
ただ、あたしの目をじっと見て、何かを探すような目で、
「アンジュちゃんは君の隣にいるんだね」
と訊いてきた。指が図書室のカウンターを小刻みに叩いている。
あたしは、そのリズムにちょっと不安になった。
それでも、はい、と頷く。
そうして、アンジュちゃんを横目で見ながら、つけ足す。
「アンジュちゃんは寝ています。すごい眠いって、いつも言ってます。前はそんなことはなかったのに……」
「前って、いつのことかな」
「クマの話をあたしに話す前、です」
「分かった。話してくれて、ありがとう」
先生は小さく笑顔を作ってくれた。
あたしはこの時、間違ったということが分かった。
先生の目が笑ってなかったから。
お化けとか、怨霊とか、得体の知れないものを見る目つきになるのを、必死にこらえている。
そんな目だった。
うちに連絡が来たのは次の週。
ママが学校に呼ばれた。
その日から、ママの切り絵作業は中止になった。
それから、JRの大きなエキのある病院につれて行かれた。
この時には、土日でもないのに、パパも仕事を休んで、ついてきた。
あたしは、とても大きなことになっている、と思った。
病院ではおじいさんの先生とお話しをした。
サンタクロースがダイエットに成功をしたみたいな、優しい感じの先生だった。
あたしは初めはとても緊張していたのだけれど、おじいさん先生がとても優しくきいてくれたので、すらすらと話すことができた。
先生は最後まであたしの話を、邪魔しないで聴いてくれて、
「大変だね。君も。アンジュちゃんも」
と言ってくれた。目も、得体の知れないものを見るそれではなかった。
だから……。
あたしは泣いてしまった。分かってもらえた気がしたから。
そんなあたしに、ほほえんでくれてから、先生はパソコンのキーボードをカタカタと打ち始めた。
あたしが泣いているあいだ、ずっと打っていた。
パパもママも、テレビとか映画の人みたいに、じっとしていた。
裁判の判決を待つ人たちとか、大事件が起きて、家族の無事の知らせを待つ人たちは、こんな顔をするんだろうな。すがるように結果を待つ人たち。
あたしは泣きやんで、そんなパパとママ、先生を交互にちらちらと眺めた。
「うーん」
「はい?」
「いや。おかしいなあ。パソコンの調子が悪い。キーボードがうまく打てない。いや、ちがうか。僕が速く打ちすぎるんだな。指の調子がよい」
先生は画面に夢中だ。たしかに指が速い。残像みたいな影も見えるくらいの、高速。
あたしはちょっと見とれた。
そんなあたしに目を戻して、先生は口を横に、にっと広げてわらった。
「僕も本が好きなんだよ。特に、未来の話は心がおどる。いんだねっ、はインターネットだね。大学で研究がされているんだ。
幽霊が見える男の子の映画も、ハリウッドで撮影中だ。インターネットも幽霊の映画も、新聞で特集がくまれていた。
携帯電話の小型化の記事も、僕は読んだよ。やっぱりわくわくするね。まあ、パソコンも電話も、基盤を使っているのは同じだからね。大学の後輩が研究をしているんだ。彼とは勤め先も専門もちがうけれど、色んな話をきくよ。未来ってのは、自動車が空を飛ぶよりも、パソコンが手のひらと同じ大きさになることでやってくるんだって、後輩は言っていた。優秀な人物だから、そうなんだろうな、と僕は思ったけど、やっぱり君みたいにびっくりしたよ」
おじいさん先生の声はとても優しかった。自分の孫に童話に話して聴かせる老人。
怖くもない。むしろ安心すらしちゃう。
でも……。
だから、あたしは分からなくなった。図書室担当の先生の方が、得体の知れないものを見るような目をしてくれた分、まだ分かりやすかったと思う。
あたしは何も言えなくなった。
そんなあたしを、先生はじっと、何かとても壊れやすいものでも見るように、見てから、こう付け加えた。
「君は何も、間違ったことは言ってないんだよ」
※※※※※※
そのあと、いくつかの検査を受けた。
ママだけが呼ばれて、おじいさん先生から結果を聴かされた。
その日から、ママの口癖は、
『特別じゃなくても、いいのよ』
になった。1番じゃなくても、いい。特別じゃなくても、いい。
この口ぐせは、あたしの周りの全員に感染した。本当に、病気みたい。
パパも、ママも、学校の先生も、クラスのみんなも、勇一くんだって、あたしに言ってくる。
みんな無理に明るく。または優しく。たまにとても心配そうに。
……この変化から、あたしはおじいさん先生がママにどんな説明をしたのか、分かってしまった。
あたしは特別になりたい子ども。
でも、能力的に無理だから、現実とちがうことを事実だと、自分に思い込ませている。
それで、精神のつり合いを取っている。
でもこれは、あたしが悪いのではない。環境が特殊過ぎる、ということらしい。
だって……。
パパは有名なバレーボールのコーチだし、ママは切り絵の個展を開く芸術家だ。
クラスのみんなだって、バスとかお父さんお母さんの送りむかえでちょっと大きな街の塾に通うくらい、頭が良い。受講しているのは、みんなそろって特進クラス。
テストの平均点だって、うちの学年は異常に高い。
あたしが60点しか取れなくても、みんな余裕で90点とか取ってる。
しかも100点以下だと、ゲームで負けたみたいに、悔しい顔をする。
そう。これは『あたし以外のみんな』だ。
当然、勇一くんもこの『みんな』に含まれる。
いつの間にか……彼も、そうなっていた。
「おれ、ここ来て頭よくなったみたいだ」
と、不思議そうに返却された答案用紙を見たりする。
点数は100点満点。この時の平均点は91点だったから、勇一くんはクラスでも上位に食い込んでいた。
最近の小テストは、みんなのレベルに合わせるように、やたらとむずかしくなっている。
あたしの平均点は滝の絵を描いたみたいな下降を続け、反対に勇一くんのそれは100点に固定されたままだ。接着剤でくっつけたみたい。
こんな風に、遅れているのはあたしだけ。
みんなとっくに英語の勉強をはじめている。
けれど、あたしはアルファベットもおぼえられない。
でも、そんな現実は思い知っている。それは嫌なほど。
だから……。
あたしはアンジュちゃんを生み出した、とおじいさん先生は分析したらしい。
英語にコンプレックスがあるから、英語を話す友だちを作った。
新聞とかテレビとか、色んな情報を深層心理がつなぎ合わせて、アンジュちゃんに語らせる。
アンジュちゃんのお父さんとお母さんが離婚したのは、あたしの、自分の家族についての不安のあらわれ。
つまり、全部あたしの妄想。
……ふざけている、と思う。
アンジュちゃんは本当にいるのに。自分を幽霊だと認めてしまってから、いつもうつらうつらとするようになったけれど。
ちゃんと、
「アンジュちゃん、おきて」
と声をかけたら、おきてくれるのに。
つっぷしていた図書室のカウンターから、ちゃんときれいな顔をあげてくれるのに。
でも、だれも認めてくれないし、アンジュちゃんは怪物に殺されたままだ。
だから、あたしはあせる。たまにさけびたくなる。
そして本当にさけんでしまう。
学校のトイレとか。かえり道とか。図書室以外のどこかで、あたしは怪物が怖くなる。
だから、さけぶ。
そんな時は保健委員の子が、あたしを保健室に連行する。
そこには女の先生がいて、ベッドに寝かせてくれる。
あたしは、1人だけ、みんなと切りはなされた時間に浮かんだような、ぽっかりとした気分になって、メモ帳をポケットからとり出す。
これは、おじいさん先生があたしにくれたプレゼントだ。
みんなに話せないことは全部このメモ帳に書くといいよ、とおじいさん先生は言ってくれた。
ため込むのはよくないからね、とも。
だからあたしは、アンジュちゃんと話したことを、全部書く。
あの子が見た景色とか、あの子の世界でおきたこととか、とにかく全部だ。
でも、どこかで落としてだれかに読まれたら恥ずかしいので、キーワードだけを書きつらねる。
たとえば、パパの好きなダイエーホークスは、ソフトバンクになっている、とか。
ダイエーホークス=ソフトバンク
みたいに。
ちなみに、あたしが怪物がこわくなくなる場所が2つある。
パパがいてくれる日の家と、摩周さんが店番をつとめる本屋さんが、この2つだ。
本屋さんは、みんなが通う塾と同じ街にある。
だからかな?
学習教材がたくさん棚に並んでいる。
図書委員のあたしは、この本屋さんで購入図書の研究をしたりする。
もちろん購入を判断するのは先生だけれど、先生はどんな本が読みたいか、よく聞いてくれる。
だから、こちらも頑張りたいと思う。
これは、アンジュちゃんに会う前からの、図書委員としての使命だ。
そして、摩周さんはあたしが図書委員になった春に、この町に引っこしてきた。
あたしたちが話すようになったのは……。
たしか、あたしが購入図書のことを考えながら、むずかしい顔をして、絵本コーナーにつったっていた時。
摩周さんが声をかけてくれた。若いおしゃれメガネの夏目漱石に話しかけられた!!! とあたしはびっくりした。
あの時の思い出は、何故か胸がくすぐったくなる。クマの怪物のことも、忘れる。
そんな摩周さんの前では、あたしは普通でいられる。
色んなことも話せる。でも、アンジュちゃんのことは話せない。可哀想な子だと思われたくない。
だから、あたしはそれ以外のことを、必死で相談する。
たとえば、勇一くんのこと。
勇一くんは、花丸スタンプ10回目を達成した。
成績もクラスで一番になりつつある。結構前から100点の常連になっていて、しかも雪合戦は負け知らずだ。勇一君が雪玉を投げる。そんな必死な投げ方じゃないのに、雪玉は待っていたみたいに、相手の子の鼻先に飛んでいく。吸い込まれるみたいだ。
……雪がふる前、100点の常連になる前、勇一君は徒競走でもトップでゴールをかけ抜けていた。
今は学力でも、みんなの先をひた走りつつある。
そんな勇一くんを、彼のお父さんもお母さんもとても喜んだ。
そして、晴れて勇一くんは読書マスターとして認められた。
次はスポーツマンを目指すらしい。
でも、どんなスポーツをすればいいのか、勇一くんは分からないそうだ。
サッカー、野球、卓球、陸上、バレーボール。
どのスポーツをやっている人も、勇一くんにはよだかの星みたいに、輝いて見える。
「何が似合うと思う? 俺」
「うーん。考えてみる」
「おう。頼んだ。分かったら教えてくれ」
「うん」
こういう会話の時、あたしは正常だ。勇一くんも、すごく明るい顔でわらってくれる。
うれしい。
だから、あたしは真剣に考える。やっぱりバレーボールがいいかな。
あたしのパパ、バレーボールのコーチだし。
いや、でもこれはあたしの気持ちだから、押し付けたらダメかも……。でも、うーん。
と、悶々としていた気持ちを摩周さんにぶつけた時、摩周さんは
「うーん」
と言って、腕を組んだ。
目を閉じて、うつむく。
そのまま、ひとさし指で眉の間をおさえる。
「野球がいいんじゃないかな。クラスメイトの彼におすすめするのは」
目をつむったまま言う摩周さん。
首をかたむけて見上げるあたし。
「何で、ですか?」
「目に浮かぶ気がするんだよね」
「え?」
「メガホンを持つ君がね。けっこうきれいに成長した君が。首とか頬を赤くしてね。汗を細い顎からたらしながら、必死にさけんでるんだ。
掲示板が大きくて、それから……。フラッシュをたいてる人たちもいる。大きな試合。甲子園かな。
光が割れたガラスみたいになって、君をふくめた全部にふりそそいでる。僕は勇一くんって彼の顔は知らないけれど、応援する君は目に浮かぶ」
……多分、アンジュちゃんのことを相談するならこの時だったんだ。
だって、摩周さんはとても不思議なことを、普通に話していたから。
でも、あたしは、未来のあたしの姿がきれいとか、勇一くんを必死に応援しているとか、ドキドキするくらい衝撃で。
結局、そのまま帰ってきてしまった。
帰りのバスには、塾の子たちも乗っていて、あたしをちらちらと見てきた。
たぶん、あたしが、野球、甲子園、野球とうわごとのようにつぶやいていたからだと思う。
次の日、あたしは勇一くんに野球をすすめた。
勇一くんは、
「バレーボールって言われるかと思ってたけど、サンキュっ!!!」
って、わらってくれた。
それから、本の読みすぎでカサカサした指がのびてきて、あたしの前髪をくしゃくしゃにした。
勇一くんと、ちゃんと話せたのは、その日が最後だった。
バレンタインデーに、あたしは(アンジュちゃんに後押しもされて)チョコレートを用意して待っていたけれど、勇一くんは図書室には来なかった。
もう、勇一くんは読書マスターを目指す人ではなくなっていた。
「まあ。人生は長いわ。あなたは、わたしと違って、生きているから」
アンジュちゃんが、ちょっとばつが悪そうに肩をすくめて、それからあくびをした。
そのあくびはあたしにもうつって、なぜか目のはしから涙がにじんだ。
……春休みの前。
あたしは転校することになった。
環境を変えるべきだと、パパとママは長い話し合いの末に、そう結論を出した。
家族は一緒に住む。
パパは土日に帰ってくるパパじゃなくなる。
ママは個展を開くペースを落とす。
そして、あたしはあんまり良くない意味での、特別な学校に行く。
勇一くんたちみたいな特別じゃないのが、ほっとするというか、肩の力が抜けるというか、複雑だけど、そこの先生たちは優しいらしい。
その学校は、ちょっと問題をかかえて通学ができなくなった子たちのための学校だから、大船のタラップを踏ませる気分で大丈夫ですよ、とパパとママに言ったのは、他ならぬ図書室担当の先生だったりする。
先生のことも含めて、この全てを、パパとママから話された時。
あたしはちゃんと最後まで大人しく聴いた。
それから、一呼吸おいて、さけんだ。
わめいた。
ひざがぐにゃっと曲がって、尻もちをついた。
そのままあおむけに転がって、泣きながらさけんだ。
自分で自分じゃないような声が出て、その後はおぼえていない。
気がついたら、ベッドで寝ていた。天井が病院だった。
シーツから薬の匂いがした。
おじいさん先生がお母さんと話していた。
でも、あたしは眠くて、眠すぎて2人がどんな会話をしているのか、分からなかった。
もしかして、アンジュちゃんが眠い時も、こんな感じなのかな。
……みたいなことを、落ちたまぶたで閉じられた世界の中、思った。
何日か入院してから、あたしは退院した。
おじいさん先生は、いつもどおりに過ごさせてあげてください、とお母さんにお願いしてくれた。
だからあたしは自由に行動することができて、アンジュちゃんにもちゃんとお別れの言葉を言えた。
「ゆっくり眠れるわ」
「え?」
どういう意味から分からないあたし。
そんなあたしを、軽蔑の目で刺してくるアンジュちゃん。
「意味が分からないみたいね。教えてあげる。わたしは死者なの。のっと スピリ、 そお にーじゅ すりーぷ。死者は沈黙し、眠るもの」
「ぜんぜん意味が分からない」
自分の声が震えているのが分かる。
そんなあたしに、アンジュちゃんは表情を変えない。でも、茶色の髪のはし、腰のあたりがちょっとだけ赤く、きらめく。
「すい星、毎晩出てるでしょ」
「うん」
「あなたは、暗いこの図書室で、わたしが夜空を見上げている、と思っているでしょう」
「うん」
「のー」
アンジュちゃんは小さく首を横にふった。
「ちがうの?」
「ちがうわ。わたしは、死んでから、ずっと暗い場所にいるの。眠くなるほど色というものがなくて、黒と白しかない。黒に白が輪郭を与える。
そんな ものとぅーん な世界。色を変えるのは2つの時しかない。
1つは、すい星を見ている時。青い尾の光が、わたしも照らしてくれる気がする。もう1つは、あなたがあたしを起こす時。この部屋にひしめく墓石の列は、本棚に変わる。
あらゆる本の表紙には、シキサイが与えられる。静かな空間が、妙に生き生きとして、わたしは自分がまるで生き返ったように思う。
ちがうのにね。死者は死者に過ぎない。あなたがいなくなったら、わたしは死者として眠るだけ。それは正常なことなの。せいせいするわ」
アンジュちゃんは……まったくせいせいとしているようには見えなかった。
白くてきれいな頬が、涙で濡れすぎていた。
あたしは言葉につまった。
「でも、あたしは……」
「わたしが死者として完全に眠ることを、心苦しく思うなら、約束して」
「約束?」
「そう。ぷろみす みー。あぼいどぅ べあ まん。クマオトコには、近づかないで」
※※※※※※※
転校を次の週にひかえた木曜日。
あたしは色々なことを後悔しながら、摩周さんの本屋さんに行った。
勇一くんにあげる野球の本を買うためだ。
絵じゃなくて文字の多いものを、あたしは選び、レジの摩周さんに出した。
会計をすませて、実は今日が最後なんです、と告白をする時になって、あたしは胸がぐっとつまった。時計の音がとてもゆっくりとなって……。
世界が止まって、これが走馬灯かな? ってくらい、色々なものが一気に押しよせてきて。
あたしは、選んではいけないことばかりを、選んでしまったのかもしれない。
親切な人の言葉は、正しいとはかぎらない。
相談をする人を間違えた結果、一番大切な友だちを……。
摩周さんの声で我に返り、それから、自分に都合のよい、もしもを想像して、苦しくなって、涙とか変な声が出てきて、そのまま入り口にかけ出す。
自動ドアから飛び出て、商店街を無我夢中でかける。
摩周さんの声がずっと後ろの方からする。何かがポケットから落ちた気がする。
あたしは止まらず、走り続ける。
ふり出した細かい雨に打たれながら、バス停に到着。
ちょうど来たバスにのり込んで、運よく座ることができた。
こんな、無駄な運だけよいのは、どうなんだろうと、思いながら、車窓の外を眺める。
もう、見ることのない景色。細かな雨に白くかすれた商店街。
アンジュちゃんは、この街を見たことはない、と言っていた。
あの子の世界では、街はニュースになるくらい、とてもすたれていて……。
あたしたちの街と合併済みで。
そもそもアンジュちゃんの図書室だって、あの子の世界では、廃墟になっていて。
クマがあの子をつれ込んだのは廃校になった小学校で。
つまり、全然違う。あたしの知っている世界と、あの子の世界は、つながらない。
だから、あの子の真実は、あたしにはでたらめで、そんなでたらめに、あたしはふり回されてしまったのだろうか。
……そんなことない!!!!
と思う。
多分、いや絶対、どこかでつながっている。
そのつながりが、今のあたしには分からない。それだけのことだと思いながら、手が、その日着ていたパーカーのポケットをさぐる。
メモを見たい、と思ったから。
でも、なかった。
商店街で落とした何かは、メモ帳だと分かって、あたしは変な声をあげてしまった。
バス中の視線を浴びながら、もどろうかとも考えた。
けど……。
もう、雨でダメになっているかもしれない。
車窓の外の雨は、強くなって、街はますますかすれている。
あたしはうつむく。目の前がにじんで、涙があふれてくるのが、分かる。
次の日。
図書室に行くと、アンジュちゃんはいなかった。
あの子がいつもつっぷして眠っていたカウンターは、ただの木の板以上でも以下でもなくなっていた。
そして、図書室は本当にただの図書室にもどっていた。
あたしはその日の仕事をこなして、担当の先生に挨拶をしてから、図書室を出た。
廊下を歩こうとすると、後ろからあたしの名前を呼び止められた。
振り返ると、図書室のドアを開けて、先生が立っていた。
先生はつかつかとこちらに歩いてきて、あたしに、こう言葉を降らせた。
「変われない人間なんかいないんだよ」
真剣な目と、声だった。
あたしはちょっとびっくりした。なんて中身のない言葉だろう。
変な笑いがこみ上げそうになるのを、それでも、あたしは必死でこらえた。
先生はいたって真面目だ。全部、あたしの将来とか、色んなことを思ってくれた、結果なんだから……。
だから、あたしはアンジュちゃんを真似して、頑張って唇のはしを上げる。
「ありがとうございます」
お辞儀をして、今度こそ玄関に向かった。
そうして下駄箱の場所におりて、だれもいないのを確認。
勇一くんの箱に、野球の本を入れて……。
ぜんぜんドキドキしない、というよりも、静かに悲しいだけの自分にびっくりしながら、下校した。
※※※※※※※
10年がたった。
あたしは22歳になった。
この10年は色んなことを必死になっているうちに、過ぎてしまった。
例えるならば、突風。
予感めいたものが、震動のように地面を伝って、覚悟をすると、一気に吹き寄せる。
姿勢ぐらいは保とうと必死になっているうちに、全ては過ぎ去る。
特殊学級での日々しかり。
高校に進む代わりに受けた大検に落ちた後のリベンジ合格しかり。
高校3年生になった勇一君をスポーツ新聞で確認した時の高揚しかり。
メガホン片手に甲子園に駆けつけて、全力の応援のすえ、逆転負けしたエースピッチャーの勇一君を外で待っていた時に……。
バスにのり込む彼に抱きついて泣く女子生徒を、困ったように見おろして、衆目の中でそっと抱きしめる勇一君の周りで、囃すようにあがる歓声に耳と心を痛めた時しかり。
全部があっという間だった。
あたしは大検には受かったけれど、頭は特別良くも悪くもないままだった。
それでも何とか英語の教育に一定の評価がある短大に進学。
留年もせずに就職。
東京の中堅の会社に潜り込んだ。
扱うのは輸入雑貨。ワイン。そして……アメリカのデザイナーズブランド。
あたしはちゃんと覚えている。
アンジュちゃんのお母さんが、デザイナーをしていたことを。
まあ、就職してしているのはデータの入力とか帳票の整理だし。
ブランドの輸入事業セクションなんか、花形も花形で、なみいる大卒の戦士たちを押しのける技量などないのは、百も承知の上で……。
アンジュちゃんのお母さんと、話す機会をたんたんと狙いながら、あたしは毎日コピーを取ったり電話の取次ぎをしたりしている。
ちなみに、合コンとかには出ない。
この10年間、ずっと続けてきた習慣、もとい、必殺の一撃に磨きをかける必要があるからだ。
そう。あたしは会社から真っすぐ帰宅する。
そして、押し入れの奥から、釘バット君3号(1号と2号は折れてしまったのでこれは3代目)を取り出し、丁寧に布に包む。
愛する自転車であるチャリオット君3号にまたがり、神社に向かう。
そして、境内で上段にかまえ、おもむろに素振りを開始。
あたしは無心で振ろうとする。でも無理。
10年前に落としたメモ。あの内容が頭の中で、ぐるぐる回る。
携帯ではインターネットができるようになった。
メールだって普通にやり取りする世の中だ。
ダイエーホークスはソフトバンクになった。
何より……。
アンジュちゃんの図書室があった学校は、廃校になった。
あたしの家があった町は、市町村合併で、もう名前が違う。
全部、あの子の言った通りになっている。
小学生の頃のあたしがいた過去は、アンジュちゃんの生きている現在につながっているのだ。
このつながりを……。
素振りに腕が悲鳴をあげて、あたしは釘バット君3号を境内の土にぶらりとおろす。
そのまま空を見上げる。
黒い葉が作る模様の向こうに、夜空がある。
輝くのは、青い尾のすい星。名前はマックノート彗星。
アンジュちゃんが、みっくのーとぅと言っていた、あれだ。
でも、彗星だけではない。
あの子が話してくれた言葉。ネイティブの英語を、今のあたしはちゃんと理解できる。
『しゅどぅんすぴあう』は『Should'nt speak out』。声をあげるべきではない、だし。
他にも色々分かる。
そして、全部はアンジュちゃんの予言通りに進行している。
だから、あたしは1つ、確信していることがある。
頭上の彗星が、日中に見える日が来る。その日は正月が明けて少したった日だ。
本当は今、この瞬間に、あたしはアンジュちゃんが住んでいる町に向かって出発したい。
新幹線に乗れば結構すぐにつく。そしてあの子を探せる。
でもダメだ。バタフライ効果が起きる可能性がある。あたしが何かをすると、アンジュちゃんの予言していた未来から、世界がずれる可能性がある。
そして、その世界でも、アンジュちゃんが無事という保証はない。
だから、あたしはぎりぎりまで待つ。
正月休みに帰省もせず、休日出勤の電話番を一手に引き受けて、しかも一切使わずにためた有給は……このためにある!!!!!
そう意気込み、かなり大きく勇んで、あたしは上司の机に有給届けを叩きつけた。
本当はすだれ頭にぴしゃりと叩きつけてやりたかった。
合コンでないの? 彼氏いないんでしょ?
などとちくちくセクハラしてくる上司に、これからいたいけな少女をあたしは救いに行くんです!!!
とどや顔を決めたかった。
が、あたしは少女を救う英雄(予定)だが、社会人である。アンジュちゃんを救った後も、人生は続いていく。
それにこの会社のボーナスは意外に割りが良いので退社する気にはなれない。
何よりも、だ。この会社で出世をするという大志を抱いて実現すれば、アンジュちゃんのお母さんにもあえるかもしれない。
母と娘をとりもつ。それがあたしというガールのアンビシャス(大志)なのである。
ちなみに、こんな大志を抱かせ続けたのは、断じて、12歳の時に図書室担当の先生がかけてきた、空疎な言葉なんかではない。あたしは変わりたくなんかなかった。
あたしは自分に満足していた。アンジュちゃんの友達であるあたしが好きだった。
でも、足りなかった。甘えやすそうな人に甘え、間違った選択をして、悲惨な結果になってしまった。今でも、あたしはアンジュちゃんが消えてしまったという事実に対して、はっきりとした責任と悲しみを感じている。そして素振りをするたびに実感する。あたしはあの頃、足りなかった。
知識も、力もなかった。だから、必死に積み重ねてきたのだ。
クマ男と具体的に戦う力を。大人として動く経済力を。
……と、長年の積もりに積もった色々のせいでハイテンションになったあたしは。
正月の帰省ラッシュが終わって、ちょっとだけ物悲しい新幹線のグリーン席で幕の内弁当をかき込みながら、すっ飛んでいく景色に闘志を燃やした。
2席分のチケットを購入したために空となった隣には、バイオリンの大型ケース。
もちろん中身はバイオリンではない。釘バット君3号である。
あたしは、クマの怪物の肩にこれを叩きつけ、降参させて、アンジュちゃんを救うのだ。
と、意気込んだあたしは、馬鹿だった。
いや、馬鹿というよりもうぬぼれていた。
しかも、そのうぬぼれは、あの子を救わないといけない、その瞬間まで続いていた。
レミングスは。はるかな昔、崖に飛び込んだネズミたちは。
空も駈けれるし、そのまま水平線を目指せると、思っていたのかもしれない。
それは、落下の瞬間まで。
アンジュちゃんの予言を信じて、昼にあらわれる彗星を待ち続けること2日目。
それは、本当に上空に現れた。
「今日だ……!!!!」
実家の2階のベランダから、その白い軌跡を見上げて、硬く両手の拳を握った。
教師としての定年退職を10年後に控えつつ、コーチ業も成人病の関係で引退した父。
そして視力が衰えて切り絵から遠のいて専業主婦として静かにくらしている母。
この2人に迷惑をかけるわけにはいかないので、あたしはレンタカーを借りた。
だてに仮免許を10回落ちたわけではない。安全運転はおりがみ付きだ。
あたしは、ものすごく慎重に、例の母校に到着した。
2時間かかった。陽は沈んでいない。
あたしはトランクルームから取り出した釘バット君3号の素振りをしながら、武者震いと共に尿意を覚えて、木陰で用も足したりした。
そうしながら、落陽の時を待った。
そして……。
全部はアンジュちゃんが話した通りに進んだ。
男は少女を図書室があった部屋まで肩にかついでいったし、あたしもちゃんと一部始終を確認した。
その子を離しなさい!!!!
と叫ぼうとする前に、おまわりさんにだって連絡した。
興奮というか恐怖でろれつがあんまり回らなかったけれど、ちゃんと住所は伝えた。
多分、男が少女を誘拐したとか、そんな要旨だって伝わったはずだ。多分。
でも……。
決めの台詞を、物陰から飛び出て男の後ろに回って叫ぼう!!!
……として、できなかった。
膝が震えた。震えは背を伝わって、横隔膜とか気道を締め上げて、あたしの喉をつまらせた。
なんで?
ありえない。
どうして?
こんなに決意してきたのに、なんで今、あたしは、怖い、の?
男は、クマの怪物はあたしに気が付かない。
怪物の肩の上で、少女のマフラーの赤とか髪の栗色とかダッフルコートの裾の白が揺れる。
そうして揺れたまま、男と共に、図書室の闇に吸い込まれる。
銀杏の実みたいな、腐敗した臭いだけが、薄闇を伝って、あたしの鼻にのぼってくる。
あたしは動けない。
怖い。
あたしを我に返したのは、悲鳴だった。
それはアンジュちゃんの。
何をしているんだ。あたしは。救うんじゃないのか。
英雄になるとか、大志とか、どうでもいい。救うんだ。
アンジュちゃんを……!!!!
奥歯を噛む。足は走り出している。
図書室の闇に飛び込む。
「その子をはなしなさい!!!!!」
あたしは叫んだ。
釘バット君3号だってちゃんと振りかぶった。
でも、そこまでだった。
丸い肩ごしに振り返った男が、その瞳があたしを射抜いた。
視線は虚無。アンジュちゃんが言っていたことは本当だった。
ガラスの砕けた窓から吹き込む風が、薄めきれない、臭気。
でも、それは生ぬるい。ぬるいというよりも、優しい。
この男の瞳に比べれば、だけど。
瞳は虚無。視線の先の相手に、つまりこの場合はあたしに、あたしの命に一切の価値を認めない。
そんな目。人間は人間を必要とする。
船が難破したら、波間で人は助けの手を求める。手は、人間の手だ。人は人を求める。命に価値を認める。でも、この男は違う。
誰の命も、ゴミ以下に思っている。
あたしの膝は震えた。意志よりも、膝がもたなかった。もし、待ち時間に用を足していなかったら、あたしはこの時に失禁しかけていたと思う。
そして、釘バット君3号を後ろからつかまれた時、確実に完全に失禁していたはず。
「駄目ですよ。Jeune femme(お嬢さん)」
鼻にかかった落ち着いた声が、後ろからした。
Jeune femmeはフランス語。短大の語学の第2言語で、あたしはとったんだっけ。
いや、でもそうじゃなくて。
しっちゃかめっちゃかな混乱の中で……。
「はっはっはああああああ!!!!!!!!」
あたしからもぎ取った釘バット君3号を片手に、図書室だった廃墟を跳躍する黒い影。
はためくマントがコウモリみたいな形に広がる。
コックさんみたいなシルクハットが微妙にださい。タキシードは何のコスプレだろうか。
……いや、一周まわってカッコいいのか。
あたしは分からない。とんでも動転していて、頭が退化しまくってる。
そんなあたしの前で、シルクハットのコウモリマントさんは、釘バット君3号を横になぎはらう。
棚があらかた撤去された図書室の闇は、切り裂かれる。
クマ男の巨体は斜めにぐらつく。肩に釘バット君3号の釘がめり込んでいる。
「ああ……っ!?」
低い、うなるような声と共に、アンジュちゃんをはなす男。
のっそりと立ち上がる。
いや、立ち上がるとかじゃない。そびえて、見下ろす。
お寺に眠っていたちょっと大き目なご本尊様が微笑みを消して、憎悪を邪悪を胸に拳を握りのそりとそびえたら、こんな感じになる。
あたしは死んだと思う。殺される、とも思う。
鼻を腐臭がつきあげる。それは未来を裏付けるみたいに。
でも……。
カルヴァンアンドクラインかな。上司がしつこいくらいにつけているから、覚えたこの香りが、鼻をくすぐった。同時に響くのは、シルクハットさんの笑い声。
手にはクマ男の肩から引き抜いた、バット。
「はっはっはあああああ!!!!!! 君は見た通りの動きをするんだな。間抜けな立ち上がり方!!!! そして」
シルクハットが宙を吹き飛ぶ。
クマ男が裏拳を放った。
ごうっ
と空気が割れるような錯覚。でも、そんなことはない。
シルクハットさんの頭は吹き飛んでない。代わりにあらわになったのは、つむじが薄く悲しくなった後頭部。
あたしは、すだれ頭じゃないことに安心した。当たり前だけど、この人は上司ではない。
というよりも、テンションが全然違うけれど、この人は……。
「放つ無駄に鋭い裏拳!!!! しかし私は避ける!!!! 何故なら見ているからな!!!!!!」
ちょっとだけ下にしゃがんだ姿勢から、コウモリマントの男性は、ぴょんぴょんと跳躍をはじめる。
アニメの小鹿っぽい飛び方。
「さあおいでごく潰し君。自宅警備歴25年の若造らしく。私に挑むがいい……!!!!!!」
釘バット君3号を肩にかついで半身を切り、もう片方の手で招くように挑発するコウモリマントさん。
ううん。もう、声でバレバレだ。
摩周さんだ。
まさかこんな所に摩周さんが来るなんて。
どうして?
分からない。
でも、摩周さんがはねている理由は、分かる。
距離を取らせているんだ。クマ男と、アンジュちゃんを離そうとしている。
そう。この場合一番駄目なのは、アンジュちゃんが人質に取られること。
分かったから、あたしは膝に無理やりかつを入れて、図書室の闇を走る。
そうして少女の小さな体にたどり着く。
「はっはっはあああ!!!!!!!!! 当たらんよ!!!!!! そしてどうということもない!!!!!! 愛を知らない者の拳など、ただの暴力!!!!!!」
あたしの後ろで声が響く。クマ男の咆哮も。
あたしはアンジュちゃんを、床についた両膝の上に抱きかかえる。
ぐったりとしているけれど、息はしてくれている。
「わはははは!!!!! 実は私も愛を知らない!!!!! だが未来は見てきた!!!!!! 君の裏拳は右から来る!!!! 私はそれを左に受け流す!!!!!」
ガタンとかゴトンとかゴボンとかぐしゃあとか、変な音が響きまくる。
でもあたしはアンジュちゃんを守るように抱えるのに必死で、振り返ることなんか、できない。
「拳を潰したな!!!! 愚かだな自宅警備員!!!!! 君は玩具を1つ潰した!!!! 潰したのは1つにしておくべきだった!!!!!
慎ましく口を閉じ生を悔いて生きれば、私と死闘を演じることもなかった!!!!! 痛いだろう? 拳は!!!!
しかし君に潰されたおさなごの方がもっと痛い!!!!! 怖い!!!!! 苦しい!!!!! 助けて!!!!! 泣いた!!!! 叫んだ!!!!!
だが自宅警備員の邪悪なすねかじりには分かるまい!!!! そして……」
摩周さんの声は闇に響き続ける。
声というよりも、ヒステリックな笑い。それは悲鳴に近く、あたしはこの声を叫んでいるのが、本当に摩周さんなのか分からなくなる。
だって、10年前の摩周さんは、もっと落ち着いていて、素敵なお兄さんだった。
「すねはかじるのではなく、砕くもの!!!!!」
狂気の掛け声。
大きな何かが砕ける音。
それから……。
「ふっ。ふふふ。痛いだろう? それが痛みだ。もう君は歩けない。だから私はJeune femme(お嬢さん)のバットは使わない。これはゴルフ・クラブではないからね。
そして私が履いているのは安全靴だ。だから、もう分かるだろう? 私の前には君が転がっている。拳は砕け、すねも粉砕骨折。ああ。無常だね。物事は」
声が優しくなった。カルヴァンアンドクラインの香水が強くなった。
しくしくとした、怒られた子どもみたいな泣き声が、闇を濡らす。
この幼い、稚児めいた泣き声をもらすのは……クマ男だ。
つまり、怪物は降参したのだ。
そして、諭すような優しい声は、記憶の中の摩周さんのそれそのもの……だと、あたしが思った時。
声は響いた。響いたというよりも、闇を切り裂いた。
「だから君に捧げる!!!! ツバサ君の恩師が放った名言を!!!! 頭蓋骨は友達っ!!!!!!!!!!!!!!!!」
え?
とあたしが肩越しに振り向いたのと、声に比べて控えめな鈍い音が響いたのは、ほとんど同時だった。
……摩周さんの安全靴が、クマ男の頭部にめり込んでいた。
酸っぱいものがせり上げて、あたしは自分の肩に胃液を吐いた。
※※※※※※
病室の窓からは、冬枯れた並木道が見える。
窓ガラスには、あたしが映っている。ずいぶんと間の抜けた顔だ。
同じガラスに映るアンジュちゃんの、眠れるお姫様具合とは、ずいぶんな違いである。
「娘が貴女に助けられました。この感謝はあらわしつくすことができません」
と、あたしに言って、病院の先生に呼ばれて席を外したアンジュちゃんのお母さんも、やっぱりあたしとはえらい違いだ。
自在につかいこなす日本語は流暢過ぎて、むしろ違和感を覚えてしまった。
多分、元旦那さんから、ちゃんと正確な発音を習ったんだろう。
これが予想外なこと。
アンジュちゃんを美しく成長させて、パリッとしたスーパーキャリアウーマンにしたらこんな感じだろうな、という想像にどんぴしゃりな外見。
これが予想内だったこと。
予定通りだったのは、あたしが、アンジュちゃんのお母さんがくれようとした小切手(額は書かれていなかった。映画でしか見た事ない。凄い)を謝絶したこと。
色んな物欲がビールの泡みたいに、一瞬で心に浮き立ったが、どうにかあたしはこらえることができた。
代わりに、ちゃんとお願いする。
もし、アンジュちゃんが目覚めてくれたら、一緒に暮らしてあげてと。
そのお願いをきいて、アンジュちゃんのお母さんの目の縁が赤くなった。
唐突に図書室の少女を思い出す。やっぱり親子だな、と思う。
アンジュちゃんのお母さんは、はい、と日本語で約束してくれた。
良かった。
あたしはそんな彼女に、ちょっと申し訳なさそうな声で、ついでにわが社にもごひいきを、お願いします、とお願いした。
アンジュちゃんのお母さんは笑ってくれた。善処します、と正確な発音で答えてくれた。
そうして、こう付け加えてもくれた。
「でも、貴女が首になったら、容赦はしませんけどね。しかるべき圧力は、すでにかけてありますが」
にっこりと笑う、彼女の笑顔が怖い。
……と、思うのも失礼なのかもしれない。
有給を取得して帰省した間に、殺人事件に巻き込まれて、状況的に容疑者の1人となったあたしが、会社から解雇されないように働きかけてくれたのは……。
まぎれもない、この人だからだ。
そう。あたしは容疑者の1人となってしまった。
あの夜、警察が到着するまでの間に、摩周さんは現場から立ち去っていた。
持ち去ったのは釘バット君3号。
本当はクマ男の死体も抱えて去るつもりだったらしい。
実際、頑張って腕と首に手を回して、地引網の漁をするみたいに、引っ張ろうともしていた。
けど……。
「ぐわふっ!!!! ……うっ……ふっ」
摩周さんは、ちょっと気持ち悪い声をあげて、あたしの目の前でのけぞり、後ろ手で、腰をおさえた。
つまりはぎっくり腰。
「あの……大丈夫、です、か?」
「うっふ。さすがにこれは見えなかった。ふっふ。未来視の精度が落ちるのは問題ですねえ。しかしJeune femme(お嬢さん)が気になさることではありませんよ」
「摩周さんですよね。メモ帳、見てくれたんですか。だから、ここが分かったんですか? 信じてくれたんですか?」
摩周さんは、あたしの言葉に、コウモリマントも含めて、石化したみたいになった。
「そんなわけはないでしょう。Jeune femme(お嬢さん)。彼は善良な書店経営者ですよ。神田の本屋はそれなりに繁盛している。私はただのヒーロー。そう、言うなれば……」
石化したままそこまで言ってから、いきなり摩周さんは、がばりとあたしに向き直った。
羽根を広げたコウモリが逆さまになったみたいなマスクが、目を覆っていた。
そのマスクの奥の目が、子どもみたいに笑う。
「ノーネームヒーロー!!!!! 私に名などない!!!!! しかし摩周氏から伝言は預かっている!!!!! 聴きたいかな?」
「はい。聴かせてください」
あたしは摩周さん、もとい、ノーネームヒーローさんに即答した。
「本屋の繁盛は貴女との出会いのおかげです。だから、少女を救いたければ……おっと。時間が来たようだ」
ノーネームヒーローさんが窓の外を見た。
暗い空を赤が照らし始めている。響くのはサイレン。パトカーだ。
「救いたければ、何ですか?」
「貴女が昔のままの貴女かどうかは、ヒーローの目の精度から判別できる。もし、昔の貴女でない場合は、これをお返しします、だそうです」
ノーネームヒーローさんは、タキシードの胸元から、小さなメモ帳を取り出した。
ずいぶんとよれよれ。雨に濡れた跡だろう。
つまり、これは10年前のあの木曜日に、あたしが落としたメモ帳なのだ。
これを受け取った時。
ノーネームヒーローさんはまた笑って、腰をさすりながら立ち上がった。
それから、釘バット君3号を肩に担いだまま、割れた窓ガラスの向こうに、ひらりと跳躍。
うっふうう、というちょっと気持ちの悪い声と共に、窓の向こうの赤い闇に消えてしまった。
かっこをつけて飛んだはいいけど、ぎっくり腰が痛んだんだろうな。
と、思いながら、膝の上のアンジュちゃんのためにできることを探していた時。
パトカーが到着。
警察が踏み込んできた。
あたしは重要参考人として、連行されることとなった。
で、色々あって、釈放されるまでの間。
あたしは考え続けた。
摩周さん。ノーネームヒーローさんの、未来視という言葉。
彼を駆り立てた狂気。
書店の繁盛は貴女のおかげです、という伝言。
そして、昔のあたし。
全部は断片だけど、無理矢理つなげていけば、ひどくいびつでも、それは1つの事実を浮き彫りにする。
クマ男と戦っていたノーネームヒーローさんは、何度も[視た]と言っていた。
未来視。未来を見る。
摩周さんは神田で本屋さんを経営している。経営者に必要なのは、ビジョン。先見の明。
これが、単純な才覚の比喩じゃなくて、本当に未来を視ることだったら……。
そして、それを現実にしたのが、昔のあたしのせいだったら。
多分、全部のつじつまが合う。
お父さんをバレーボールのコーチとして有名にしたのは。
お母さんに切り絵の個展を開かせたのは。
クラスの子たちが異常な高得点を、テストで取り続けたのは。
勇一君がたくさんの本を読めるようになって、甲子園にも出場したのは。
図書室担当の先生が、少年院の子どもたちを更生させるほどの、立派な教育者になったのは。
おじいさん先生のキーボード入力が、いきなり速くなったのは。
全部、あたしのせいだ。
何よりも……。
あたしだけが、アンジュちゃんを見ていた。
でもこれはちょっとニュアンスに誤りがあるかもしれない。
つまり、アンジュちゃんが[見せる力]をあたしが引き出していた。
見せる、または存在を示す力。
アンジュちゃんは、あたしがいる時だけ、世界がはっきりする、と言ってくれていた。
つまり、あの子はあたしがいることで、存在ができていたのだろう。
そして、あたしは結局転校した。大人に助けを求めて結局全てが駄目になって、だからこそ自分が英雄になりたいと思った。
望んだのは、誰かの何かを開花させることではなく。
あたしが、あたし自身が強くなる、力。でも、実際はクマ男の瞳に意思を砕かれるくらい、貧弱な力しか、得ることはできず……。
アンジュちゃんは意識不明の重体で。
……。
「あ」
と、あたしは馬鹿みたいな顔をした。
警察から釈放された日のことだった。
取り調べを担当した刑事さんに、腰を屈めて礼をした瞬間、それは閃いた。
現在と過去は一方通行的にリンクしている。
でも、アンジュちゃんは……。
そう。あの子は。
摩周さん、ノーネームヒーローさんが未来を視ることができるように。
昔のあたしが、関わる人全員の才能を開花させたように。
あの子は、魂は時間を逆行できるんじゃないか。
アンジュちゃんは、クマ男を思い出す前、彼女自身のことを、スピリと自称していたけれど、それは本当の意味で正確だったんじゃないか。
つまり、あの子は幽霊なんかじゃなかった。
現在に体を残したまま、魂だけで10年前の過去に飛んだ。
そうして、あたしに出会った。肉体の無い魂は、結局消えてしまうのかもしれない。実際、あの子は転校の前に消えてしまった。
でも、本当にそうなのだろうか。
魂が時間を飛び越える。行くことができるなら、もどってくることもできるはず。
そう。誰かが呼びかける、声とか手とかじゃなくて、もっと深いところで働きかけることができる、誰かが呼びかける。
そして、それができるのは、あたししかいない。
……と、ほとんど希望的観測で、あたしはアンジュちゃんの病院に向かった。
たよりにしたのは、警察の取り調べ期間中に受け取った感謝の手紙。
送り主はアンジュちゃんのお母さんだった。
ぜひ、娘に会いに来てください。眠ったままですが、この子は貴女にとても感謝していると思います。
とのメッセージと、病院の住所が整った美しい筆記体でしたためられていた。
で、あたしは今、アンジュちゃんの病室にいる。
お母さんは先生に呼ばれて、席を外している。
まず窓の外を見る。ノーネームヒーローさんがいないかどうか。実はこっそりこちらを覗いているんじゃないか。あ、未来視の人だから、遠くからでも視れるのか。
何回も視たと言っていたから、もしかしたら今のあたしだって見えていたのか。
色んな悲劇をたくさん視てしまって、あんな風に狂った感じの叫び声をあげるヒーローになってしまったのか。
なんか、すごい責任を感じてしまう。
申し訳ない。でも、あたしの力が彼をこうしなかったら……。
あたしもアンジュちゃんも死んでいた。
だから、とりあえず、窓に向かって口角を上げてみる。こめるのは感謝と謝罪。
それから、雨に傷んだメモ帳を取り出して、昔のあたしを思い出す。
アンジュちゃんはあたしの横のベッドで眠っている。
可愛らしい鼻につながれたチューブその他が痛々しい。
はやく取ってあげたい。でも、まずこの子に起きてもらわないといけない。
あたしは小さく息を吸い込む。
病院の薬品臭。何故か思い出すのはカルヴァンアンドクラインの香水。柑橘系。
ノーネームヒーローさんのこと。
彗星が太陽の横に現れた日のこと。
英雄になりたい、ではなく、ただアンジュちゃんを想っていた、あの夜の瞬間。
多分、あの時、あたしは昔に戻った。
あの夜のあたしが、この子の能力を発現させたのだ。
だから……。
あたしは、あの夜の自分と、そして10年前の自分を重ねる。
もう、言葉は決まっている。
昔のあたしが何回も、この子にかけてきた言葉だ。
「アンジュちゃん、おきて」
あたしは変化を祈って、アンジュちゃんをじっと見る。
少女の白い頬に、薔薇の色がさす。
そして……。
病室の入り口で、アンジュちゃんのお母さんが叫ぶ。
あたしは一度アンジュちゃんから彼女に目をあげて、微笑み、視線を少女に戻す。
何と言おうか。そう言えば、起こすことに夢中で、その後のことを準備していなかった。
やっぱり、おはよう、がこの場合良いのだろうか。
あたしは幸福に考えあぐねる。