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風にたなびく青い若草がヤラズの頬をくすぐった。身を包む日差しの熱さに夏を感じる。
うつ伏せだった体を仰向けにすると、青々とした森の木々が見下ろした。
青々と、というのは比喩ではない。木々はサファイアやラピスラズリ、マリンブルーのように、繊細な濃淡を描く青い葉を茂らせていた。木々だけでなく、地面に生えた雑草さえも青かった。遠目から見ると、きっと美しい色調の変化を目の当たりにできるだろう。
想像しかできないのは、こんな森を見たことも聞いたこともないからだ。
ではここは一体どこだろうか。
首を巡らすと、少し離れた場所に少女が倒れているのが見えた。
明るいミルクティーベージュの髪をした、都会的なワンピースに身を包んだ可愛らしい少女だ。
その姿を見て、ヤラズは少女を追いかけて不思議な穴に吸い込まれたことを思い出した。
比喩でもなんでもなく、本当に壁に空いた穴に落っこちたのだ。
ーーそう、まるで白兎を追うアリスのように。
いずれにしろ、ここがどこだか教えてくれるのは少女に違いない。
ヤラズは起き上がり、少女に近寄り肩を揺すった。
「大丈夫ですか?」
少女は呻き声をあげた。閉じられたまぶたが繊細に震え、そっと開かれた。覗き込むヤラズと見上げる少女の視線が交わった。
ヤラズは少女の姿を何度も目にしていたが、改めて彼女の美しさにハッとした。
意志の強そうな眉、まるく膨らむピンク色の頬、雌鹿のように大きな琥珀の瞳。悪戯な無邪気さを感じさせれる顔立ちは、まるで本物の天使のようだ。
一方少女はヤラズを見ると体を強張らせた。
「ーーーー?」
「え、なんだって?」
「ーー?ーー、ーーーー」
どうやら少女は日本とは違う国の言語を用いるようだった。不思議な発声と独特なイントネーションはヤラズの知る言語のどれとも違って聞こえた。
ヤラズの困惑を察したのか、少女はヤラズから体を離すとワンピースのポケットから革手袋を取り出した。それはよく使い込まれた赤革のハーフグローブで、裾の部分には繊細な白いレース施されていた。少女は革手袋をはめると、理解不能な言葉とともに印を結んだ。
「……どう?わかる?」
少女は流暢な日本語で尋ねた。
ヤラズは驚いて頷いた。
「は、はい」
少女は満足そうに頷いた。
その無邪気な仕草にヤラズはぽーっとして思わず呟いた。
「その手袋素敵ですね」
口にして、どうしてこんなくだらないことを言ったのだろうと赤面した。
「フフフ。魔法を使うときに便利なんだ」
「魔法?」
「ん、ああ、そうか。地球人のキミには馴染みがないよね」
「地球人、って俺のことですよね。なんだか、まるで……」
ヤラズは口をつぐんだ。この続きを聞くべきなのか、それとも気づかない振りをしてしまおうか逡巡し、口を開いた。
「まるで、自分は違うような口ぶりをするんですね」
少女は伺うように上目がちにヤラズを見遣った。
「気付いてるかと思ってた」
ヤラズは無言で少女を見返した。すると、少女は小さくため息をついて答えた。
「そうだよ、ボクは地球人じゃないし、ここは地球じゃないんだ」
「それなら、ここは?」
「ここはオールゼーレント。ボクたちが吸い込まれた穴は次元を超えて二つの世界を結んでいたんだ。だからまぁ、地球から見るとここは異世界ってことになるのかな」
ヤラズは熱いものを飲み込んだようにゆっくりと唾を下した。
頭を整理する必要があった。
「つまり、あなたは異世界人で、地球には旅行しに?」
少女は小さく笑うと腕を持ち上げ指差した。
ヤラズたちは森の中でも木々の開けた場所に倒れていたが、その空間の中央に一際大きな巨木が堂々と根を下ろしていた。少女が指差したのは、巨木に空いたうろだった。
「……ボクは何度かあの穴を使って地球に遊びに行ってたんだ。そこはボクたちの世界と違ってカガクが発展してて、人々はデンリョクという不思議な力をつかってネットワークというのを築いていた」
「オールゼーレントには科学や電力、インターネットはないの?」
「そうさ」
少女は続けて何かを言おうと口を開いて、首を振った。
ヤラズは少女を助けるように尋ねた。
「魔法があるんだね」
「……オールゼーレントにはデンリョクの代わりに魔力があって、カガクの代わりに魔法がある。魔法ってわかる?」
「なんとなく。すごく便利な力ってくらい」
「うん、確かな魔法は便利だ。ボクもカガクだってすごく便利だと思った。だけどカガクも魔法も全然違う。その二つが違うように二つの世界も大きく違ってる。一番違うのはーー」
その時、二人の間をすり抜けるように風が吹き抜けた。その風は鋭い金切音を乗せて、少女の前髪を揺らした。
二人はぴたりと動きを止めてあたりを見回した。恐る恐る立ち上がり、耳をすます。木の葉を揺らす音を辿り木々の隙間によく目を凝らすと、恐ろしい生物が身を潜めているのが見えた。
それはゾウのように巨大な体をしており、体中びっしりと鋭いトゲに覆われていた。後ろにはサソリの尻尾のような尾が生えており、ゆらゆらと怪しげに揺れている。1箇所だけトゲがない場所が顔なのか、ギョロリとした目玉が五つ並んでおり、すべての目玉が二人を凝視していた。
それは生物と呼んでいいのか考えさせられるほど化け物じみていた。
化物はどこから出しているのか空気を切り裂くような金切音をあげると、二人に猛然と襲いかかってきた。
ヤラズは喉が潰れるんじゃないかと思えるほど絶叫した。瞬間、鋭い閃光が走った。
「こっち!」
少女に引っ張られて、わけもわからずヤラズは走り出した。
幸い獣道のように自然に均された場所を進んでいるおかげで転びはしなかったが、それでも恐怖が足をもつれさせた。
少しすると視界が元に戻り、前を行く少女の白いうなじが目に入った。後ろから先ほどの化け物が追いかけてきている音が聞こえてきたが、ヤラズは絶対に振り向かないと心に決めた。
「アレは一体なに?」
「地球にはいない生物、魔物だよ」
ぱっと木々が開けると、そこは断崖絶壁だった。
ヤラズが顔を青くして絶壁を見下ろした。
「どうするの?行き止まりだよ!」
少女は森に引き返すと、一メートルほどの枝を折り、さっと手を滑らせた。そしてヤラズの手をきつく握りしめ、
「飛ぶんだ」
と囁いた。
「え?なんだって?」
「ボクを信じて」
ヤラズの疑問に応えることなく、少女はヤラズを掴んだままひらりと崖を飛び降りた。
ヤラズの喉から再度絶叫が迸った。
しかし少女は落ち着いた動作で枝の上に跨った。そしてヤラズが跨るのに手を貸した。
ヤラズはこの座り心地の悪い棒切れに振り落とされないように必死に少女にしがみついた。
二人を乗せた枝は出来損ないの魔女のように大きく上下左右に揺れたため、ヤラズは胃からまかないがせりあがってるくるのを感じ必死に口を引き締めた。
崖に激突しそうになるのをなんとか華麗なターンで翻し、ジェットコースターのような急降下を経てようやく二人はゆるゆかに上昇し始めた。
ヤラズはほっとして少女にまわしていた腕を緩め、かたく瞑っていた目を開いた。
すると、異世界の空と大地が遥か先までヤラズの眼前に広がった。
空は地球と同じく青かったが、遠くの方はオレンジ色だった。黄色い雲が水玉模様のように規則正しく並び、風に乗って流れている。
濃淡を描く青い森を抜けた先には白い街並みが広がっており、それらを束ねるように一際おおきな金色の宮殿が威風堂々と佇んでいた。その宮殿は遠目から見てもとてつもなく大きく感じた。建物はどれも繊細で優美な曲線を描いており、白と金が特徴的に使われていた。建物の隙間を縫うように水路が敷かれ、青い植物が根を下ろしている。そのせいか、街中が青く輝いて見えた。
どこまでも続くこの光景はため息が出るほど美しくて、ヤラズの心を強くゆさぶった。
しかしそんな美しい景色に見惚れるまもなく、二人は魔物の攻撃を受けた。
崖の淵に到達した魔物は、鋭いトゲをボウガンのように射撃してきたのだ。
少女はすぐさま二人を覆う泡なような盾を作り出したが、一撃目が掠めただけであっさりと壊れてしまった。二撃目は少女の手から放たれた光線によって撃ち落とされたが、その際に再び平衡を失って二人は大空を滑りだした。
必死に体勢を立て直そうとする少女を、ヤラズも黙って見てはいなかった。少女は文字通り手を離せないのだから、魔物をどうにかするのはヤラズしかいない。
ヤラズはそっと右手を離して掌を見つめた。幾度もの急降下と滑空のおかげで手汗でまみれた手のひら。
そのときヤラズは少女の魔法を思い出していた。手から光線を放った瞬間、革手袋を取り出して魔法を使うときに便利だと笑った瞬間を。
地球と異世界にはどうやら大きな違いがあるようだが、果たして地球人と異世界人の間にはどれほどの違いがあるのだろうか。
少女の柔らかな手とヤラズの筋張った手にはいかほどの違いがあるのか。
三撃目を急上昇で避けると、二人は魔物の正面に躍り出た。
四撃目が構えられる。
ヤラズは意を決して片手を魔物に突き出して目をつむった。
頭の中に描くのは物語の主人公だ。魔法を使えて窮地を脱する一撃を放つ男の姿。突き出した手のひらから光線を放つ瞬間をーー。
パアンッ!
とんでもない力が生み出され、反動で二人は後方に吹っ飛んだ。続けて爆音がとどろき、爆発により生じた破片が弾丸のように二人を襲った。少女は慌てて盾を作り出して身を守った。
「キミがやったの?」
「あ……、そうみたい」
二人はゆっくりと崖に降り立った。
一帯は崩れてしまって魔物の姿は跡形もない。もしかしたら地面についた焦げがそうなのかもしれない。
地に足をつくと、ヤラズは危うく転びかけた。
少女は笑い声を上げて手を差し伸べた。
「空を飛ぶのは初めて?」
「それどころか、魔法を使うのだって」
「ビックリしたよ、まさか地球人も使えるとは思わなかった」
「俺だって」
二人は顔を見合わせて笑い始めた。
さっきまでの怯えはまるで嘘のようだった。
先に笑いをおさめたルルリエが目尻に浮かんだ涙を拭って言った。
「ボク、ルルリエっていうんだ。キミは?」
「ヤラズです」
ルルリエは繋いだ手を持ち上げて揺らした。
「出会えてよかった」
ヤラズは気まずい笑みを浮かべた。
歓迎できる出会いではなかった。穴に吸い込まれて、魔物に襲われて、命がけの出会いだった。けれど、ずっとカフェで見つめるばかりだった時よりも二人の関係は変わった。それが嬉しかった。