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 ヤラズは都内に住むごく普通の大学生だ。

 地方から上京してきた彼は、独り気ままな大学生活を満喫していた。

 寂しさはない。

 アパートと大学を往復するだけの単調な日々だったが、そこに楽しさを見出すことができる男だったから。

 愛を交わす彼女はいなかったが、気の合う友人がいて退屈することもなかった。

 地方にいた頃から憧れていた、お洒落なカフェでバイトもできた。

 カフェで学んだ珈琲の淹れ方を自宅で再現することがヤラズなりの趣味だった。何か一つでも拘りを持つことで、日々の生活が豊かに感じられる。

 だから、実家から遠く離れた場所での生活に寂しさなんてない。

 ヤラズは大学生活を満喫している。

 今日も講義が終わると、お洒落なカフェでアルバイトだ。

 カフェの扉を開くと、耳に心地よいポストロックと若い男女の囁き声が聞こえてくる。時折、シャッターを切る音がして、スマホのバイブレーションが机を叩いた。

 深く息を吸い込むと、淹れたての珈琲の香りが肺を満たした。

「おはようございます」

 店長に挨拶をして、裏でシワの寄ったシャツを脱いで制服に着替えてすぐにキッチンに入る。そのときすっとホールを見渡すのはちょっとした癖だ。

 落ち着いたペンダントライトの光が投げかけられる店内は、カウンター席が十席とテーブル席が十席設けられている。席はもう半分ほど埋まっていた。

 さらに視線を巡らせて一番奥のカウンター席を見る。そこはヤラズにとって特別な場所だ。

 何故ならその場所には時おり天使が現れるから。

 明るいミルクティーベージュの髪をした、都会的なワンピースに身を包んだ可愛らしい少女のだ。まるで神様が翼をつけ忘れてしまったように綺麗な女の子。睫毛なんて驚くほど長かった。

 彼女はこのカフェの常連で、たいていコーヒーを一杯頼み、隅で静かに本を読んで過ごしている。

 そんな少女のそっと伏せられた薄いまぶたが持ち上がる瞬間を、ヤラズはずっと待っていた。

 彼女の瞳は神秘的な琥珀色。視線が絡み合うと、ヤラズの胸にはどうしようもなく疼きだす。あの瞳を心ゆくまで覗きこみ、ささやかな言葉を交わせるのなら悪魔にだって魂を捧げられる。

 そう思えるほどヤラズは少女に恋をしていた。言葉を交わせないからこそ抱ける恋だった。

 彼女が初めてこのカフェに訪れてからもう半年が経っていた。

 その間に心の中で用意したセリフが役に立ったことはない。いつか引っ張りだせたなら、きっと渋谷の街を二人でぶらりと歩いているはずなのに。

 そんなことばかり考えていると、いつの間にか閉店の時間になっていて、彼女が去った後のテーブルに空のコーヒーカップが取り残される。それを片付けると、その日のアルバイトが終わる。

 彼女が来店した日はいつもそんな感じだ。

 制服からしわくちゃのシャツに着替えると、ため息が自然と溢れた。

 恋する世の男性がつくありふれたため息だ。

 カフェを出ると、昼とは違う夜の世界が広がった。

 煌々と光るネオンの看板、酔っぱらった男女の喚き声、慌ただしく往来するタクシーの群れ。

 カフェが閉まる程度の時間では、通りにはまだまだたくさんの人で溢れていた。

 まるで異世界だ。そう感じるのはヤラズが地方から出てきたお上り大学生だからか、それとも自分が陰鬱な人間だからだろうか。

 近道代わりに暗い路地に入ると即座に夜闇がヤラズの体を包む。ホッとするのはやはり、ヤラズがこの世界の住人ではない証なのだろうか。

 とぼとぼと足を動かすと、視界の隅に天使が現れた。

 明るいミルクティーベージュの髪をした、都会的なワンピースに身を包んだ可愛らしい少女だ。ひるがえった裾から細いくるぶしが魅力的に輝いている。

 見惚れている間に、少女は軽快な足取りで狭い小道へと抜けて行った。

 全く無意識のうちにヤラズは少女の跡を追いかけていた。

 走り始めて、少女が裏路地にいることを疑問に思った。しかしそれは少女に直接聞けばいいことだった。

 カフェ以外の場所で彼女と会うのは、この半年間初めてのことだった。この機会を逃せば、彼女の横顔を見つめるだけの日々に変化は訪れない。多少の疑問程度ではヤラズの足を止められるわけがなかった。

 ヤラズは必死に路地を走って通りを跨ぎ、少女の消えた小道に滑り込む。すると、視界の先でぽうっと明かりが灯った。ヤラズはそれを少女が取り出したスマホの光だと考えた。まるで道標のように輝くその光に向かって走り出す。

 少女は壁に手をついていた。

 冷静になって考えればそれはとても不自然な行動だった。うら若き少女が夜の小道で壁に手をつく理由とは?

 しかしその時のヤラズはそんな些細な謎に毛ほども注意を払わなかった。心を奪われた彼は我を忘れて、ひたすらに少女を追いかけていたから。

「……あ?」

 ヤラズがようやく奇妙さを感じた頃には少女に追いつき、声をかけようと開いた唇から出てきたのは随分ととぼけた声だった。

 壁についた少女の両手が淡く光り、その手を伝って光がコンクリートに吸い込まれた。すると壁に渦巻く穴が現れた。

 ヤラズの声に少女が驚いた様子で振り返る。

 二人は向かい合った姿で硬直した。

 さまざまな疑問が湧き上がってきたが、どちらも最初の言葉が出てこないせいで沈黙が流れた。

 すると壁に開いた穴が代わりとばかりに激しく唸りを上げ始めた。そして重力のような不思議な力を二人に投げつけた。その力は驚くほど強く二人を絡めとった。

「うわ、なんだこれ!」

 たたらを踏んで、ヤラズは壁に空いた穴を見た。暗く底のない穴は、明らかに壁の向こうではない、どこか別の場所と繋がっているように見えた。まるでワームホールのようだ。

 穴は一番近くにいた少女をまず取り込んだ。少女の姿は一瞬で消えた。

 ヤラズは悲鳴を上げて必死に見えない力に抵抗したが、どんどん体は壁の穴に吸い寄せられた。そしてついに穴を覗けるところまで近付いた。深く澱む穴がヤラズを招く。

「誰か、助けて!」

 ヤラズの声に応える者はいなかった。まずは腕が取り込まれた。次に肩が、そして頭が穴に沈むと、叫び声が消えた。全身が穴に吸い込まれる時に、肩にかけていたトートバッグが地面へと落ちた。

 穴はヤラズの悲鳴を飲み込むと、現れた時と同じ速さでゆっくりと萎んでいった。

 壁に滲んだ光の軌跡がすっと消えると、暗闇がそろそろとコンクリートを這い上がって速やかに痕跡を覆い隠した。

 悲鳴も、光も、二人の若者も消え、後には夜の静寂が訪れた。

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