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暖かい風が吹き、空には雲一つない良く晴れた日のお昼休み。
百円均一ショップで買った折り畳みの小さな椅子とお弁当を持って、彩綾は学校の校舎の屋上へと上がっていった。
ちょうど影になる場所に椅子を置き、壁にもたれるように座って膝に乗せたお弁当を食べる。いつもは友達と一緒に過ごしたりするが、今日は一人で過ごしたい気分だった。
学校へ行きながら家事をこなしつつ、週に二日のアルバイト。女手一つで育ててくれている母に負担をかけないよう、高校生になったら自分の小遣いぐらいは自分で稼ぐと決めて、始めた。といっても特に欲しいものがあるわけでもなく、友達と学校帰りに遊びに行くわけでもない。結局は『いざという時の貯金』に一直線だった。
その日も、いつもと変わらないお昼休みだった。ただ、慣れないアルバイト生活と毎日の主婦業で少し寝不足気味だったため、お弁当をさっさと食べ終えて仮眠をとる時間を確保したかった。手早くお弁当を片付けて壁にもたれかかり、目を閉じる。日陰でひんやりした壁が気持ちよくて、暖かい風が頬を撫でると瞬く間に夢の中へと落ちていった。
しばらくすると、彩綾は閉じた瞼に眩しさを感じて目を覚ました。
あまり寝ていないような気がする。ぼんやりとした頭で辺りを見渡すとそこは屋上ではなく、自分が地面の上に座っていることに気付いた。ふと横を見ると、建物の壁がある----相当立派な建物だ。建物の始まりと終わりがどちらも遥か遠くに見える。
----あぁなるほど、『感覚がリアル系』の夢か。うん、たまにあるよね。
彩綾は立ち上がって制服についた砂を払うと、すぐ横の植え込みの陰から物音がした。彩綾は一瞬ビクリとして物音がする方へと視線を移し、息を殺して耳を澄ませた。すると、苦しそうに唸る子供の声が聞こえてきた。
彩綾は急いで声のする方へ行くと、男の子----10歳ぐらいだろうか----が植え込みを囲うレンガにもたれるように倒れていた。彩綾は男の子に駆け寄り、身体を支えるように抱き起こすと、その子は熱を出しているようでぐったりとしていた。
男の子は息苦しそうに呼吸をし、焦点の定まらない虚ろな目で彩綾の方に顔を向け、口を小さくパクパクさせて何やら呟いている。
…。…。
男の子の言っていることが聞き取れず、彩綾は口元に耳を近づけた。
…〇…◆……。▽…。
----言葉がわからない。
彩綾は言葉でのやり取りを諦め、ポケットに入っているハンカチを取り出し、男の子の汗を拭くことに専念した。しばらくの間男の子を抱き寄せて汗を拭いていると、男の子の呼吸が少しずつ安定し始める。彩綾は周りを気にしながら背中を優しくトントンと叩いていると、男の子は薄目を開けて彩綾の顔を見つめていた。
周りに大人の姿を探しつつ、ふと男の子の視線に気付いた彩綾は、言葉が通じない分少しでも安心させようと微笑みを向けた。男の子は少し照れながら嬉しそうに笑うと、再び熱で顔を歪ませ目を瞑った。
彩綾が慌てて額にハンカチを当てていると、遠くから声がしてこちらに向かって走ってくる数人の大人の姿が見えた。
----あぁ、良かった!
これでこの子は助かる、そう安堵した途端、大きな光に包まれた。
お昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
その音でハッと目を覚ました彩綾は、ずいぶんリアルな夢を見ていた気がした。が、どんな夢だったのかすでに思い出せなくなっている。ぼんやりした頭のままのろのろと椅子を片付け、お弁当を持って教室へと戻った。
ポケットのハンカチが無くなっていることに気付くことはなかった。
*
まだ夜が明ける前の薄暗い時間に、彩綾は目が覚めた。ずいぶん昔に見た夢に懐かしさを感じたが、10年以上経った今となっては校舎の屋上にいたこと自体が夢だったんじゃないかとすら思うようになっていた。
何度も同じ夢を見るが、なぜか目が覚めると忘れてしまっている。まぁ夢なんてそんなものだろうと大して気にすることもなかったが、なぜか今日は胸に引っかかる。
寝転がったままぼんやりと天井を見つめた。暗闇に目が慣れているとはいえ、天井の絵がよく見えない。明かりのつけ方を教えてもらえば良かった、と溜息を吐いた。
彩綾はベッドから下りて窓際へ向かい壁に寄りかかると、胸の中にしまっていた石を取り出して月明かりに照らして見た。石が月の光を受けて、控えめに艶めいている。
----『お前は、その碧い石について何か知っているか?』
彩綾は昨日のウォルトの言葉がずっと引っかかっていた。
なぜか、自分がこの石について何も知らないということに罪悪感のような後ろめたさが募る。
----ウォルトは初めて会った時から…ううん、もっと前からすでにこの石のことを知っているようだった。それにウォルトも、琥珀色の石を持っていた…。どうして?この石って、そんなに特別なものなの?この石のせいで、私はここにいるの?…どうやったら帰れるの…?
頭の中がグルグルする。彩綾は目を伏せて俯き、胸の石をギュッと握りしめると----段々、腹が立ってきた。
昨日のウォルトの悪態や暴言の数々が蘇る。
----何も知らないなら、聞きゃあいいのよ!とりあえずアイツをとっ捕まえて、アイツの持ってる石とこの石について何の関係があるのか問いただしてやる!
彩綾はギリギリと奥歯を噛みしめた。が、はたと思い至った。
----てゆうか、むしろ私は家に帰れるなら、この石をアイツにあげたって構わないのよね…?別に、この石に愛着があるわけでもなし。そうよ!石のことなんて謎のままでもいいじゃない。さっさと渡してとっとと帰る!これだ!
彩綾は拳をグッと握りしめながら妙にすっきりした気分になり、ベッドに戻ると再び眠りについた。
*
朝食を食べて部屋に戻った彩綾は、ナタリーにウォルトの居場所を聞いた。
「旦那様でしたら、今朝早くからお出かけになられましたよ。」
「え、そうなんですか?いつ戻ってくるか、ご存じですか?」
「国境辺りまで行くと仰っておられましたから、夕刻までには戻られるかと思いますわ。」
「そうですか…。」
夜中からずっと、石のことをウォルトに相談しようと息巻いていた彩綾は、肝心のウォルトの不在に拍子抜けしてしまった。途端にすることが無くなり肩を落とす彩綾に、ナタリーが「そうだわ」と声をかけた。
「よろしければ、城内をご案内いたしましょうか?旦那様からも許可は得ております。」
ナタリーの提案に彩綾はあっさりと飛びついた。実際に使われている状態の城の中を見学できるなんて、よく考えれば観光好きにとっては涎ものだ。
「いいんですか?ぜひお願いします!」
「もちろんですわ。それではさっそく参りましょうか。」
二人は部屋を出て、階段を下りていく。ナタリーは客間やホール、厨房、食糧庫、使用人たちの居住棟、訓練場など、次々に案内して回った。歴史遺産が大好きな彩綾は、目に映るもの全てに感動し、目を輝かせていた。
すれ違う兵士や使用人たちと簡単な挨拶を交わしながら歩いていると、広場の一角で数人の子供たちが遊んでいるのが目に入った。彩綾は一歩前を歩くナタリーを呼び止め、子供たちについて尋ねた。
「ああ、あの子たちはここで働く使用人の子供たちですわ。住み込みで働いている者が殆どですから、昼間はああやって子供同士で遊んでいるんです。もっと小さな子供や赤ん坊は城内にあるお部屋で過ごしており、そこでは侍女が交代で世話をしているんですよ。ご覧になりますか?」
まるで保育所のような部屋があると聞いてしまえば、保育士の血が騒ぎ出さずにはいられない。
「そんな場所があるんですか!?ぜひ!ぜひ行きたいです!」
彩綾はナタリーの言葉に心が跳ねあがった。さっそくナタリーにその部屋へと案内してもらい、部屋に着くと扉をノックして中へと入っていった。
部屋には0歳から5歳くらいまでの子供たちがいて、突然の訪問者に皆目を丸くして----もともと目がクリクリと丸いのだが----見つめていた。彩綾はあまりに可愛らしい光景に、目がチカチカして心が溶けそうになった。世話をしている侍女と挨拶を交わした後、子供たちと目線を合わせるように膝を揃えて座り、ニッコリと微笑んで挨拶をした。
「みんな、こんにちは。私はサアヤ・キリタニといいます。私のことは、サーヤと呼んでね。みんなと仲良くなりたいわ。私と一緒に遊んでくれるかしら?」
彩綾がそう言うと、年長の女の子が侍女の顔をチラと見た。侍女が微笑んで頷くと、女の子はパッと明るい顔をして、彩綾に近付いてきた。薄いブラウンの髪をふわふわと頬に巻き付けながら、彩綾の前でもじもじと恥ずかしそうに立ち止まる。
彩綾は両手を差し出して女の子の両手をそっと握り、顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「初めまして、サーヤよ。あなたのお名前はなんていうのかしら?」
「…ナターシャ。」
「そう、ナターシャというの。素敵なお名前ね!ナターシャは何歳になったの?」
「4歳よ。あの子は弟のアラン。2歳よ。」
「まぁ!ナターシャはすっかりお姉さんなのね。」
その様子を見ていた周りの子供たちは、安心したのか皆一斉に彩綾の元に集まりだした。一番小さな子が両手を前に出してよちよち歩きで近付いてくる。彩綾はそれを両腕で抱き留め、膝に座らせた。
子供たちとひとしきり遊ぶと、侍女に挨拶をして部屋を後にした。そのまま自分の部屋に戻る途中、ナタリーは感心したように彩綾に言った。
「サーヤ様は、子供たちと仲良くなるのがお上手ですのね。」
「え、そうですか?」
「はい。本当にそう思います。特にナターシャは人見知りする子なのですが、真っ先に寄ってきましたでしょう?正直、驚きましたわ。」
ナタリーはクスクス笑いながら言った。彩綾もつられてクスクスと笑った。
「私、ここに来る前は、保育士をしていたんです。」
「ホイクシ、ですか?」
「はい。ええと、保育士というのは、様々な理由で子供の世話ができない親御さんの代わりにその子供を預かって、身の回りのお世話をしたり、遊びを通していろんな事を学ばせたりする者のことです。」
ナタリーは彩綾の話に感銘を受けたかのようにうんうんと頷いた。
「まぁ!素晴らしいお仕事をなさっていたのですね。そうでしたか、それで子供たちとの接し方もお上手でしたのね。」
「いえいえ、そんな。でも…はぁ~、やっぱり子供って癒されるんですよね~。ほっぺもぷにぷにで、柔らかくって。」
彩綾がうっとりしながら言うと、ナタリーは首を傾げて少し躊躇いがちに聞いた。
「サーヤ様は、お子様がいらっしゃるのですか?」
「え?いいえ、いませんよ。結婚もしていませんし。」
彩綾がそう言うと、ナタリーはパッと笑顔になって興奮気味に食いついた。その勢いに当てられ、彩綾は少し仰け反った。
「まぁ!まぁまぁ!そうでしたの!?私、てっきりご結婚されているのかと思っておりましたわ!」
「あー…まぁ、そうですよね。ここでは、ずいぶん早くから結婚するのが普通そうですし…。」
彩綾は、素直に目を丸くするナタリーの様子と会話の流れに苦笑した。こういった世界では、女性はきっと17~18歳ぐらいで嫁ぐのが常識なのだろう。その常識から見ると、28歳の自分はどう映るのか容易に想像できる。どの世界でも、同じような目を向けられるものなのかと自嘲した。
しかし、ナタリーは彩綾の予想の斜め上のことを言い出した。
「もしかして、すでに良いお相手とかいらっしゃるのですか?」
「いいえ、いませんよ。気ままなシングルライフを満喫しています。」
「まぁ!そうですのね!あの…私がこんな事を申し上げるのも差し出がましいのですが、旦那様とか…」
「無いですね。」
彩綾は被せ気味にピシャリと言い切った。
しかし、さすがに人様の主の事を悪く言うのは良くないと思い直して、慌ててフォローを入れる。
「あ、いえ、彼の事が嫌とかではなくてですね。その、何というか…、そう!私、年上の男性がタイプなんです!リークさんみたいな優しい大人の男性って素敵じゃないですか!?それに…」
----ウォルトは確かまだ23歳ですよね?彼にはもっとお似合いの女性がいると思うんです。
そう続けようとした時、ナタリーはふと後ろの気配に気付いた。
「あら、リーク様。いらしたんですか?」
ナタリーの一言に彩綾は固まった。ぎぎぎ…と振り返ると、リークが顔を赤くしてバツが悪そうに俯いている。
----あぁ…やってしまった…。