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ごつっっ!!
彩綾は予想通りの光の眩しさに目を閉じながら構えていると、降り立った足元の大きな石で足をくじいた。
----痛ったぁぁい!!もうっ!受け身取ったのに!!
彩綾が涙目でくじいた足を掴んで悶絶していると、漂う空気の匂いが変わっている事に気が付いた。ハッとして周りを見渡すと、見覚えのある景色が広がっている。
----ここ、もしかして…。ウォルトと初めて会った場所じゃないの?絶対そうよね、確かあの辺りに…
彩綾はゆっくりと立ち上がると、兵士に囲まれた時にウォルトが立っていた場所を見た。途端に胸が高鳴り、唇が震えた。
----戻ってきたんだ…。ウォルトのいるこの世界に…。
彩綾が呆然と立ち尽くしていると、ウォルトがかつて立っていた場所とは反対の方向から物音が聞こえた。彩綾が咄嗟に振り返ると、武装した数人の兵たちがこちらを見て立っていた。
「おいおいおい、本当にいるじゃねぇか。先に見つけられるなんて、俺たちゃツイてるな。」
「全くだ。今日はたまたまこの辺りを担当してたのが良かったな。さっさと連れて行こうぜ。」
「おっとお嬢さん、動くんじゃねぇぞ。こっちも手荒な真似したくねぇんだ。」
兵たちが足元を確認しながら足早に近づいてくる。彩綾はその身に着けている武具に見覚えがあった。
----あれ、シェランドルの兵士のものよね。どういう事?手荒な真似って…まさか!
彩綾は喉をヒュッと鳴らすと、震える足を叱咤して走りだした。
「あ!逃げやがった!!おいコラ待てぇ!!」
「バカ!でかい声出すんじゃねぇ!!気付かれるだろ!」
「クソッ!とにかく追うぞ!!」
どこを見ても同じ様な景色の中、彩綾はひたすら走り続けた。道も無く、地面を覆いつくすように樹木の根が盛り上がっている。遠くから聞こえる男たちの罵声に怯えながら走り続けていると、遥か遠くに光が見えた。
----もしかして、出口!?あの辺りまで行けば…!
「きゃあ!!!」
突然背後から髪を引っ張られた衝撃で、彩綾は思いきり後ろへと倒れ込んだ。樹の根に肩を打ち付け、痛みに顔を歪ませる。肩を押さえて起き上がろうとすると、追いついた兵士が息を荒げてニヤリと笑いながら覗き込んだ。
「はぁ、はぁ、手こずらせやがって。なんて足の速い女だ全く…。」
「捕まえたか!?よし、このまま連れて行くぞ!時間がかかり過ぎた!」
「はぁ、はぁ…。どうやって連れて行くんだよ。このままじゃ目立つだろう。」
彩綾が震えながら兵士たちの話を聞いていると、兵士の一人がチラと彩綾を見下ろした。
「…仕方ねぇ。殴って大人しくしてから、身ぐるみ剥いで連れて行こう。さっきいた場所に外套を用意してある。それに包めば…あっ!このアマッ!!」
「きゃあぁぁ!!」
彩綾は目を見開き、咄嗟に逃げようとするが極度の恐怖で膝に力が入らない。すぐに後ろからのしかかられ、髪をグイと引っ張られた。
----怖い!やだっ!
「ウォルト!!ウォルトーー!!」
目を瞑り、大声を上げた瞬間、何かが頭上をヒュンッと通る音がした。
ガゴッッ!!
「がああぁっ!!」
同時に背中から重みが消え、恐る恐る後ろを振り返ると、先ほどまで背中に乗っていた兵士の顔が無残に潰れ、拳ほどの石が血まみれで転がっていた。
「きゃああぁぁぁ!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「に、逃げろ!!うわぁ!か、囲まれてる!!」
----あ、あれ?なんでこの人たちまで怯えて…。え…?
「サーヤ!」
----…え?この声…。
「サーヤ!!」
「ウォルト!!」
彩綾が声のする方へ振り向くと、こちらに向かって走ってくる黒髪の男が目に入った。その姿が、みるみる涙で滲んでいく。彩綾は目を開けていられず、目を細めて嗚咽を漏らした。
「サーヤ!!」
聞き慣れた声が耳朶に触れ、青みがかった黒髪が頬に触れる。
ウォルトは彩綾を抱き締め、栗色の髪に頬を寄せた。彩綾は手を震わせながらウォルトの背中に腕を回すと、ウォルトがそれに応えるように力を込めた。
その心地良い力強さに包まれ、彩綾は涙を溢れさせた。
「サーヤ…本当に…戻ってきてくれたんだな…。」
「うん…。どうしても、ウォルトに会いたくて…。勝手なことしてごめんなさい…。」
「なんでお前が謝るんだよ。俺が…いや、もういいんだ。お前さえ、いてくれたら…。」
「あ、痛っ…。」
ウォルトの腕が先ほどぶつけた肩に触れ、彩綾は痛みで顔を顰めた。咄嗟に離れたウォルトが慌てて腕を離し、顔を覗き込む。
「どうした!?どこか怪我をしたのか!?」
「あ…さっき、髪を引っ張られた時に、転んでぶつけたのよ。」
「…何だと?髪を…引っ張られただと…?」
込み上げる怒りの奥に、殺気が燻りだす。ウォルトの声が低くなるが、彩綾はそれに気付かない。
「うん。…あ!」
「どうした!?」
「あたた…さっき上に乗られた時に、腰を痛めたみたい。」
「…サーヤ、耳を塞いで、目を閉じておけ。」
ウォルトの頭の奥で、何かが切れる音がした。ゆらりと立ち上がると、彩綾の背後へと足を踏み出す。彩綾はウォルトがこれからしようとしている事に気が付き、耳を塞いだ手が震えた。
----ウォルト、もしかして…。ううん、こういうのが当たり前の世界だって、覚悟してたじゃない。この前だって、そうやって私を助けてくれたんだから。…でも、やっぱり…!!
「ウォルト、ちょっと待っ…!」
彩綾が慌てて振り向くと、一人佇むウォルトの背中が目に入った。その足元には、彩綾を追ってきていた兵が横たわっている。彩綾は血の気が引く思いでウォルトを見上げると、ウォルトは近くにいた部下に指示を出した。
「ウォルト…もしかして…。」
「うん?別に殺ってねーよ。コイツ等にはまだ聞かなきゃいけないことがあるからな。それに、いざという時以外は、お前の前では殺したりしない。」
彩綾の頬に触れ、優しく微笑む。彩綾は思わず見惚れて顔が赤くなるのを感じた。「立てるか?」と言うウォルトに手を借り立ち上がると、彩綾は首にぶら下げた巾着を思い出した。
「そうだ。ウォルト、これ。」
「ん?何だ?」
巾着を首から外し、転んだ時に付いた汚れを落としてウォルトに手渡す。ウォルトは巾着から中の物を取り出すと、息を呑んだ。
「これは…。」
「ふふ、今度は私がウォルトに返す番になったわね。」
「…!!」
中に入っていたのは、男性用のシンプルなハンカチだった。
ウォルトは胸に熱いものが込み上げ、彩綾を強く抱き締めた。彩綾もそれに応えるように抱き締めると、身体を離してウォルトの頬にそっと触れた。
今にも泣き出しそうな笑顔で、彩綾を見つめるゴールドブラウンの瞳がゆっくりと近付いてくる。
「好きだ。ずっと、ずっと、お前に会いたかった…。」
彩綾はそっと瞳を閉じた。
*
シェランドル城の居間で、彩綾はソファに座りながら侍女に手当てをしてもらっていた。
ウォルトの馬に乗って城へ入ると、出迎えた侍女長のナタリーは彩綾の姿を見るなり涙を流して抱き締めた。側にいたリークは控えめに笑って握手を交わしながら、目に薄っすらと涙を浮かべていた。
彩綾が少し離れたところに立っていたコルトに気が付くと、コルトがゆっくりと歩いてきた。
「サーヤ…その…、申し訳ないことを…」
「いいのよ、もう。私の為にしてくれたことなんでしょう?」
「あ、うん…。それから…。」
「何?」
「サーヤが消えた後、話の流れで…ついサーヤの気持ちを言っちゃったんだよね…。勝手なことしてごめん…。」
「へ?…えぇ!?あー…うん、もう今更だしいいわよ別に。」
「いつまで喋ってんだ。サーヤ、お前怪我してるんだろう?早く手当てしてもらえ。」
ウォルトが彩綾とコルトの間に割って入ると、コルトは目を丸くして思わず噴き出した。
「くくく…引き止めてごめん、サーヤ。一言謝りたかったんだ。それじゃあ、僕は仕事に戻るよ。」
「ええ、ありがとうコルト。頑張ってね。」
「ほら、早く行くぞ。」
コルトはウォルトと彩綾の背中を見送ると、踵を返して兵舎へと向かった。
*
「…ねぇ、ちょっと。」
「うん?何だ?」
「なんか…近くない?他にも座るとこあるでしょう。」
「気のせいだろ?俺にはここしか空いてないように見えたんだが。」
彩綾は侍女から手当てを受けた後、ナタリーが淹れたお茶を飲んでいた。その隣にはウォルトがぴったりと寄り添っている。彩綾の肩に腕を回し、空いている手でポニーテールの尻尾を撫でては匂いを嗅いでいた。
----だから、リークさんが目のやり場に困ってるでしょう!なんなのよ、この態度の変わりようは!
彩綾は側で控えるように立っているリークが、二人を見ないように気を使っている姿にいたたまれなくなった。何度かウォルトと距離を取ろうと試みるも、ウォルトはどこ吹く風で気にも留めようとはしない。次第に彩綾の頬に触れだし、まるで二人だけの世界のように恍惚とした表情で彩綾を見つめた。
「いい加減にしなさい!!」
「だぁっ!痛って…何すんだよ!!」
「アンタねぇ!人様の前でベタベタするんじゃないわよ!リークさんが困ってるでしょうが!」
ウォルトの手を思いきりつねり上げ、グイと押しのけようとした。が、ビクともしない。ウォルトがチラとリークに視線を移すと、フンと鼻を鳴らして再び尻尾を撫で始めた。
「誰も見てなけりゃいいんだな?おい、リーク。ちょっと席を外せ。」
「そうじゃない!さっきからリークさんが報告をしようと、アンタの事待ってるんでしょうが!さっさと離れて!」
「チッ…。」
彩綾に押されて渋々離れると、リークが呆気に取られて溜息を吐いた。幼少期からウォルトの側にいたが、こんな姿を見るのは初めてだった。
「サーヤ様を襲った者たちですが、やはり少数部族の息がかかった者たちでした。あの事件の時に城内から何人かが消えましたが、そのまま残った者もいたようです。今回捕らえたのは残った者たちで、他に仲間がいないかどうか現在取り調べ中とのことです。」
リークの報告に、ウォルトの眉がピクリと動く。腕を組んで眉間に皺を寄せると、忌々し気に息を吐いた。
「そうか…。サーヤの事を知った奴らが単独で狙いに来たのかもしれんな。シズニルブ王国に恩を売る為か、それとも彼の国を押しのけ、成り上がる為か…。どちらにせよ、他人の覇権争いの駒にされるなんざ真っ平ごめんだ。どんな手を使っても構わん。奴らに全て吐かせるよう、指示を出しておいてくれ。」
「承知致しました。それから、先ほどクレイス侯爵様とクレイス家の皆様方、巫女殿にサーヤ様を無事に保護できたことを連絡致しました。」
「そうか、ご苦労だった。もう下がっていいぞ。」
ウォルトが「早く二人きりにしろ」という視線を投げると、リークは呆れたように頭を下げて部屋を出た。扉が閉まると同時に彩綾との距離を詰め、再び髪を撫で始める。匂いを嗅ぎ、頬に触れると、彩綾の顔を自分に向けさせ目を閉じた。
「ブッ!!」
「だから、アンタって人はどうしてそう手が早いの!!」
「イテテ…、いいじゃねぇか別に。やっと恋人同士になれたんだから、手を出すのは当たり前だろ?この俺がどれだけ待ったと思ってんだよ。もう十分だろうが。」
「そ、そういうことじゃなくて…。」
「は?何か問題でもあんのか?」
ウォルトが不満気に覗き込むと、彩綾は赤くなった顔を隠しながら視線を逸らせた。ここ最近手入れができなかった肌を、あまり至近距離で見られたくない。ましてやその相手が、自分が好意を寄せる美男子ともなれば尚更だった。
「その…アンタはこういうの慣れてるかもしれないけど、私は…。」
「あぁ、そういやお前、何で処女じゃないなんて嘘吐いたんだよ。それのせいで、俺がどれだけ腸煮えくり返ったと思ってんだ?」
ウォルトからの唐突な疑問に、彩綾は理解が追いつかないまま固まった。「おい」と声をかけられ我に返ると、ゴールドブラウンの瞳と目が合った。自分の顔がみるみる熱くなるのがわかる。
「…え?えぇ!?な、なんで知ってんのよ!」
「巫女殿に聞いた。お前、一度碧い石を使っただろ?あの石は乙女ではない巫女が力を使うと、穢れるんだ。でも、お前が使った後も澄んだままだった。それでわかったんだよ。」
彩綾は愕然として、両手で顔を隠して俯いた。まさか自分の知らないところでウォルトに知られていたとは、夢にも思わなかった。できる事なら、このまま消えてしまいたい。
「やだ、すっごく恥ずかしいじゃない、それ。じゃあ、皆私がまだそういう事したことないって知ってるの!?」
「何が恥ずかしいんだ?むしろ、お前みたいな綺麗な女が今までよく守ってたもんだと感心してるぞ。それにお前だけじゃなく巫女殿だって未だに乙女のままだが、だからといって彼女をバカにしたりしないだろ?」
「なっ…!」
----コ…コイツはまた、よくそんな恥ずかしい台詞を平然と…。
「ま、そのことを知らなかったのは、俺だけだったんだけどな。ただ、今思い返せば父上も巫女殿も初めて碧い石を見た時、一瞬嬉しそうに微笑んだんだよ。その時は特に気にも留めてなかったが、あぁそういう事だったんだなって、今ならわかる。」
彩綾が顔を真っ赤にして俯いていると、ウォルトはチラと見やった。
「で?なんで嘘なんか吐いたんだ?」
「だって…、ガサツな女だの、嫁の貰い手がないだの、恋人なんて無縁だっただの、散々言われた後で言えないじゃない…そんな事。絶対バカにされると思って、咄嗟に嘘吐いちゃったのよ…。」
「な…そんな事でか?」
ウォルトが目を丸くして呆れたように言うと、彩綾はカッとなってウォルトに向き直った。そもそも、ウォルトが侮辱しなければ、こんな嘘を吐く必要は無かったのだ。
「そんな事ですって!?あの時、私がどれだけ傷付いたと思ってんのよ…う…」
俯く彩綾の顔が曇りだす。ウォルトは慌てて彩綾の両肩に手を置いて覗き込んだ。
「は?お、おい、なんで泣くんだよ!何も泣くこと…」
「別に泣いてないわよ。思い出したら腹が立って、なんでこんな男に会いに戻ってきたのかわからなくなったのよ。」
「えー…。あーもう!」
ウォルトは彩綾の頭を胸に抱きかかえると、大きく息を吐いて頭を撫でた。彩綾の頬に、ウォルトの広い胸が当たる。少し早くなっている鼓動に、彩綾は思わず可笑しくなった。
「…悪かったよ。あれはただの嫉妬だ。お前が年上の男が良いなんて言うから、つい…。」
「え?そんな事で?」
「そんな事とは何だ。俺だって傷付いたんだよ。歳ばっかりはどうしようもねぇじゃねーか、って。」
沈黙の中、互いの目を見つめ合う。
あまりの馬鹿馬鹿しさに思わず噴き出し、そのままゆっくりと目を閉じた。




