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月が厚い雲に覆われ、僅かな光の気配すら感じさせない暗闇の中、彩綾を乗せた馬車は止まることなく走り続けた。
馬車が止まり、男が辺りを警戒しながら荷台から降りる。用意していた灯りを片手に彩綾の元へやって来ると、勢いよく毛布を剥がして彩綾を起こした。
彩綾は暗闇に慣れた目で辺りを見回すと、目の前に廃れた施設のような大きな建物があった。言い方を変えれば、それ以外には何もない。昼間なら何か気付くだろうが、月の光もあてにできない深夜ではそれは難しかった。
男は彩綾を荷台から降ろすと後ろに回り、低い声で「歩け」と言った。彩綾はゴクリと唾を飲み込むと、先の見えない足元を慎重に歩く。
数歩歩いた目の前に、壊れて傾いた扉が現れた。男が慣れた手つきでガタガタと扉を動かすと、ギギギ…と音を立ててゆっくりと開いた。
男が再び彩綾の後ろへ回ると、背中を軽く押すようにして「入れ」と言った。彩綾は躊躇いがちに一歩踏み入れると、咽るようなカビ臭さと何かが腐ったような臭いに襲われ、思わず呻いた。
無意識の拒否反応で一歩後ろへ下がると、「歩け!」と後ろから突かれて前のめりになった。彩綾が精一杯の反抗心で睨み返すと、男はニヤリと笑い顎で指示を出す。建物の奥の階段を上がり、さらに廊下を進んだ奥の部屋の前で男は立ち止まった。
男が扉をノックする。中から「入れ」という声がすると、男が扉を開けて彩綾を中へ押し入れた。狭くて暗い、汚れた部屋には見覚えのある長身の美丈夫が悠然と立っている。彩綾は驚愕のあまり、目を見開いて立ち尽くした。
----フィグ…。
彩綾が固まったままフィグを凝視していると、フィグはニコリと微笑んだ。片手を挙げて男を下がらせると、階段の下で待機するよう指示を出す。そのまま彩綾に視線を戻すと、椅子を動かして彩綾に座るよう促した。
「やぁ、サーヤさん。目が覚めたみたいだね。」
フィグの言葉に彩綾は我に返ると、キッと睨み返した。
「んー!んー!!んーーーっ!!!」
彩綾は椅子をガタガタと揺らしながら力の限り抗議すると、フィグは呆れたように両手を上げた。そして人差し指を口に当てると彩綾に「静かに」と伝えた。
「サーヤさん、落ち着いて。大声を出さないと約束してくれるなら、その口に挟んでいるものを取ってあげるよ。どうする?」
彩綾はフゥフゥと息を荒げ、心臓の鼓動が落ち着くのを待ってからゆっくりと頷いた。フィグは契約成立といったようにニコリと微笑んで彩綾の後ろに回る。布を解くと、再び指を自分の口元に当てたまま彩綾の正面に戻り、もう一脚の椅子に座った。
彩綾は痺れた唇を解すように動かすと、真っ直ぐにフィグを見た。
「ねぇ、フィグ。これはどういう事なの?どうしてこんな事…。」
「サーヤさん…いや、碧い石の巫女殿。私は、ある人物から貴女をお連れするよう命じられています。」
「ある人物?」
フィグは笑顔のままコクリと頷くと、椅子の背にもたれるようにして彩綾を見下ろした。
「王宮軍務長官でありグランテール伯爵家当主、ベルシモン・グランテール。私の父です。」
*
壊れた窓から隙間風が音を立てて入り込んでいた。部屋を僅かに照らす小さな灯りがゆらゆらと揺れて、精悍なフィグの顔を妖しく際立たせている。彩綾はフィグの瞳を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「あなたのお父様が、どうして私を?」
「それは…28年前の失敗を、取り戻す為です。」
「失敗?取り戻す?どういう事?」
フィグは彩綾の方へと少し椅子を近付け、膝の上に肘を乗せて手を組んだ。
「サーヤさんが産まれて間もなく、貴女のご両親がお亡くなりになった事は知っていますか?」
「…えぇ、知っているわ。」
「では、その原因は?」
「原因?いいえ、知らないわ。フィグは知っているの?」
彩綾が前のめりになってフィグに詰め寄ると、フィグは目を伏せて自分の両手に視線を落とした。
「えぇ、知っています。」
「教えて!何かあったの!?」
「…今から29年前、サーヤさんのお母上様、つまり先代の巫女と、王宮騎士のエリオット・クレイスは恋に落ち、あなたを身籠った。約1年の後、巫女は貴女を産み、碧い石の次期継承者として王宮の奥深くの宮殿で大切に育てられました。」
「しかしそれを快く思わない者がいました。それが、私の父です。」
「…。」
「父は、長年グランテール家とライバル関係にあったクレイス家が、国王陛下の側近である以上の力を持つのを恐れました。取り換え子の子孫であるクレイス家は武芸に秀で、王家に忠実だった為に代々国王の側近として重用され、反対に、クレイス家より以前から代々王家に仕えていたグランテール家は次第にその座を追われるようになりました。」
「そこへ、父個人の王家への度重なる不信感。…とうとう父は行動を起こしたのです。」
「行動…?」
フィグは彩綾の目を見つめて低い声で言った。
「そう。『巫女』と『巫女の娘』を隣国シズニルブ王国へと連れ出し、彼女たちを人質にしてクレイス家を手に入れ、彼の国の武力でこの国に攻め入ろうとしたのです。」
「なんですって!?」
「当時まだシェランドルが荒れた地域で、少数部族やゴロツキなんかが跋扈していた頃です。父は密かにグランテール家の伝手を辿り、シェランドルの闇ルートを使ってシズニルブ王国の者と通じていたのです。そして陰から彼らの力を利用し、巫女のいる宮殿へと忍び込ませて貴女方母娘を攫わせた。ですが、すぐに異変に気が付いた侍女が知らせに走り、急遽派遣された王宮騎士団とクレイス家の武力によって、シェランドルで貴女方母娘を無事救出しました。」
「しかし、それでも父は諦めてはいなかった。シェランドルの森に待機させていた大勢の部族軍を総動員させ貴女と貴女のお母上様を捕らえようとしたのです。ですが、すでに貴女は石を持って消えていました。」
彩綾は手足が冷たくなるような感覚に陥った。恐ろしい考えに胸が締め付けられる。
「母は…もしかして…。」
「はい…。迫りくる敵から貴女を守るために…貴女が石と共に消えた後で亡くなったそうです…。そしてお父上様もまた、その時の激戦で命を落とされました。」
「そ、そんな…そんな事って…。」
彩綾が堪えきれずに涙を溢れさせると、フィグはハンカチを取り出して彩綾の顔をそっと拭いた。次から次へと溢れる想いに、彩綾はただ涙を流す事しかできなかった。
その時、彩綾はハッとした。今の話の流れからだと、嫌な予感しかしない。
「ちょっと待って、それじゃあ今私がこうして連れて行かれる先って…。」
「はい…。隣国シズニルブ王国です。」
フィグの感情の無い声音に、彩綾は息が詰まりそうになった。
「ちょっ、冗談じゃないわ!こんな事が明るみに出たら、あなたのお父様もあなた自身もただでは済まないでしょう!」
「もちろんです。ですから、こちらも命懸けなんです。今度こそ失敗するわけにはいきませんからね。」
「レイシーはどうなるのよ!あの子まで巻き込むつもりなの!?」
彩綾が責めるように詰め寄ると、フィグはピクリと眉を動かした。沈黙の中に窓を叩く音だけが響いている。フィグはゆっくりと顔を上げると、氷のような冷たい目つきで彩綾を睨んだ。
「少し喋り過ぎたようですね。もうすぐ迎えの馬車が来ます。それに乗って父のいる場所までお連れしますから、もう少し大人しくしていて下さい。」
フィグはそう言うと、彩綾の口に布を挟んで身体を椅子に縛りつけた。
*
王宮の奥にある宮殿の祭壇室で、ウォルトはレティーナを待っていた。こうしている間にも、サーヤが酷い目に遭っているかもしれない。ウォルトは焦りと苛立ちで居ても立ってもいられなかった。
「お待たせいたしました。」
ガチャリと扉が開く音がして、ウォルトは顔を上げた。レティーナの胸元には碧い石が光っている。レティーナの落ち着いた様子に、ウォルトはどこか違和感を感じていた。
「巫女殿、サーヤが攫われた。無事かどうか、気配を探れるだろうか。」
「…先ほどから胸騒ぎがしていたのですが、やはりそういう事でしたのね。」
レティーナのゆっくりとした口調がウォルトの焦りに拍車をかける。ウォルトはレティーナの両肩を掴むと捲くし立てた。
「巫女殿、ゆっくり話してる時間は無いんだ!俺は今から彼女を助けに向かう。早くその碧い石を渡してくれ!」
声を荒げるウォルトを余所に、レティーナは後ろで控える侍女に目配せをすると、再びウォルトへと向き直った。
「落ち着いて下さい。サーヤ様はご無事です。ですが、お怪我をされているかどうかまでは分かりません。」
「くっ…!とにかく、無事なんだな!?それじゃあ…」
ウォルトが右手を差し出すと、レティーナは首を横に振った。
「私も、ご一緒に参ります。」
「なっ!?何を言っている!連れて行けるわけないだろう!」
ウォルトがレティーナの言葉を跳ね返すように言うが、レティーナはそれを静かに受け流した。
「いいえ、私も行かなければなりません。ウォルター様が琥珀色の石をお使いになられた時、もしも万が一サーヤ様の御身に何かあれば、この碧い石を使えるのは私だけなのです。」
「そうかもしれないが…やはり危険だ。巫女殿のことまで守れる保証は無いんだぞ!?」
「構いませんわ。サーヤ様に危険が及んでいるのですもの。祭壇室でただ待っているわけには参りません。」
頑なに譲ろうとしないレティーナの瞳には憤怒の色が漲っていた。こんなレティーナは見たことが無い。ウォルトは思わず息を呑んだ。
ウォルトがなんとか諦めさせようと口を開きかけた時だった。再びガチャリと扉が開き、二人の男が中へと入ってきた。
「チェスター兄上!シューゼル兄上!」
ウォルトが目を見開いて絶句していると、シューゼルが呆れたように肩を竦めた。
「おいおい、ウォルト。まさかお前一人で行くとか言うんじゃないだろうな。いくらお前でも、それはちょーっと無理があるんじゃないか?」
「いや、しかし…。」
「やかましい!大体なぁ、水臭いんだよ。サーヤちゃんは俺たちにとっても大事な家族なんだ。助けに行くのは当たり前だろうが!」
シューゼルの言葉に当てられ、ウォルトは二の句が継げなかった。
僅かな沈黙の後、チェスターがシューゼルの肩に手を置いて前へと進み、ウォルトの背を叩いた。
「ウォルト、逸る気持ちはわかる。だが、闇雲に動いても相手の思うつぼだ。巫女殿、申し訳ないがサーヤさんの救出にご助力願いたい。それからシューゼル、お前は巫女殿の護衛だ。ウォルトと共にサーヤさんの元へ向かえ。」
チェスターが素早く指示を出すと、シューゼルはニヤリと笑った。このシューゼルの表情は、闘志を開放する合図だ。滅多に見せないが、こうなったシューゼルを止められる者はいなかった。
「私はすぐに本殿に向かって準備をしてから合流する。まだそう遠くまで行っていないだろうから、すぐに向かえば間に合うかもしれない。」
その時、シューゼルが「ん?」という顔をした。
「ウォルト、お前一人で行くつもりだったんだろ?サーヤちゃんがどこに連れて行かれたか見当ついてんのか?」
三人の視線がウォルトに集まる。ウォルトはゆっくりと頷いた。
「あぁ。そして、そこには必ずヤツがいる。」