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「こちらでございます。」
ナタリーが扉を開け、彩綾が部屋の中へと一歩踏み入れると、天蓋付きの大きなベッドが目に飛び込んできた。
かなり大きなベッドのはずなのに、圧迫感を感じさせないのは部屋自体が広いせいだろう。品の良い調度品は繊細な細工がふんだんに施されているにもかかわらず、ライトブラウンで統一されていて落ち着いた空間を演出している。壁にはセンスの良い風景画が掛けられ、大きな花瓶には色とりどりの花が飾られていて部屋全体をその香りで満たしていた。
そのあまりの豪華さに彩綾が呆気にとられて立ち尽くしていると、ナタリーが後ろから追い打ちをかけた。
「申し訳ございません、お嬢様。本当ならもっと良いお部屋にご案内させていただきたかったのですが、なにぶんお嬢様が来られることを知らされたのが今朝でしたので、間に合わせることができませんでした。すぐにお嬢様に相応しいお部屋を整えさせていただきますので、しばらくの間はこちらのお部屋でお過ごしくださいませ。このような狭いお部屋でもお寛ぎいただけるよう、一通りのものはご用意させていただきました。他にご入用のものがございましたら何なりとお申し付けくださいませね。」
----何を言っているのだろう…。
心の底から申し訳なさそうに項垂れいるナタリーの言葉に信じられないといった表情で見つめ返すと、ナタリーはその視線を『咎められている』と受け取り、みるみる眉尻を下げだした。
「…やはり、お気に召しませんでしたか…。」
「いいえ!違います違います!本当に違うんです!」
彩綾はハッと我に返り、慌ててナタリーに向かって大きく手を振った。
「気に入らないなんて、とんでもないです。あまりの豪華さに驚いてしまって、頭が真っ白になってしまいました。むしろ私なんかにこんな立派なお部屋を使わせていただけるなんて、それこそ申し訳ないというか…、わあぁ、もう頭を上げてください!本当にすみません!」
彩綾は、年長者に気を使わせてしまった罪悪感から思わず謝ってしまうと、ナタリーは更に顔を青くして涙目になった。
「そんな、お嬢様がお謝りになるなんて…私は侍女失格ですわ。旦那様に申し上げて、お叱りをいただかなくては気が収まりません。すぐに代わりの侍女をご用意致しますので…」
「大丈夫です!本当に、嘘偽りなく、誠心誠意、大丈夫です!こんな素敵なお部屋をご用意いただいてありがとうございます。ナタリーさんの御心使い痛み入ります。大変恐縮です。それに、せっかくお風呂の用意までしていただいているので、入らせていただいてもよろしいでしょうか!?」
----うぅ…サラリーマンじゃないんだから…。でもこのままじゃ埒が明かないし…。
彩綾は一息で捲くし立てると、ナタリーは「そうでしたわ!」とハッと気付いて浴室へと案内した。
部屋の中に扉があり、洗面所と浴室がつながっている。
「どうぞ、こちらへ。」
そう言って、ナタリーが浴室の扉を開けた。はぁ、と大きく溜息を吐いて浴室へ入ると、ごく自然にナタリーも中に入ってくる。
「さぁお嬢様、お召し物はこちらでお脱ぎになって、こちらへお入りくださいませ。私が丹念に磨き上げて差し上げますからね。」
「へ?いえいえ、私一人で入れますので、ナタリーさんは部屋で待っていていただけますか?」
「え?」
「え?」
二人に沈黙が訪れ、互いに見つめ合う。この短時間で何回、いや、今後何回こういった空気になるんだろうかと、彩綾は少しげんなりしてきた。しかし女同士とはいえ、さすがに会ったばかりの人に身体を洗ってもらうほど図太い神経を持ち合わせていない彩綾は、今回ばかりはナタリーに折れてもらうことに成功した。
----もう、本当に勘弁してほしい…。
この世界に来てからほんの僅かな時間しか経っていない。なのに、身分社会が当然のように存在し、それを基盤に日常を生きている人々との根本的な考え方の違いを、すでに痛感している。身分社会というものを一般教養の知識として知ってはいても、それが身に降りかかるとなると、現代日本人を30年近くやってきた自分には到底馴染めるものとは思えなかった。
精神的なダメージを少しでも癒そうと、ヨロヨロと浴槽に浸かる。さっぱりして浴室から部屋に戻ると、ナタリーがクローゼットの中に両腕を押し込んでゴソゴソと何かを探っていた。
彩綾が浴室から出てきたことに気が付くと、ナタリーはニッコリと笑って一着のドレスを取り出した。若草色の布地はやわらかな光沢があって美しく、襟元と袖口の控えめなレースがその布地の美しさを引き立てている。露出を適度に抑えたデザインが大人の女性の楚々とした魅力を演出するのだろう。
彩綾は、丁重にお断りすることにした。
「ナタリーさん、せっかくご用意していただいたのに申し訳ないのですが、ドレスではなくもっと動きやすい服をいただけないでしょうか。」
彩綾はこれまでの流れから、慎重に言葉を選ぶことにした。
「あら、こちらのドレスはお気に召しませんでしたか?でしたら…そうですね、こちらのドレスはいかがです?オレンジブラウンのドレスは、お嬢様の髪色にもよくお似合いですよ。」
やはり、通じないようだ。この世界での『女性はドレスを着るものだ』という常識が、彩綾の言葉にフィルターをかけているように感じた。
「あ、いえ、そうではなく、その…私はドレスやワンピースのような動きにくい服装が苦手なんです。それよりもシャツとズボンのような動きやすい服をいただきたいのです。」
彩綾はより具体的に自分の意見を伝える方が的確だと判断した。但し、この世界の常識から逸脱しすぎないギリギリのラインで主張しなければならないことだけは念頭に入れておく。そうしなければ、中世ヨーロッパ的に言うところの魔女のような扱いをされないとも言い切れないからだ。まだこの世界の常識がわからない内は、下手な一言が命取りになりそうな気がした。
すでに領主を張り倒していたことは、そっと棚の上へと押し上げていた。
「そんな、お嬢様!せっかくお美しいお姿でいらしてるのに、ドレスや宝石で飾らないなんて、もったいのうございますわ!」
ナタリーは、信じられないといった表情で困惑していた。
「う、美し…。あの、本当にもうお気持ちだけで。もし女性物のシャツもズボンも無いようでしたら先ほど私が着ていた服を着ますし、何か上から羽織るものを貸していただければそれで十分ですので、お気になさらないでください。」
「そんな…、…。畏まりました。では、乗馬用のお召し物でしたらございますので、一旦そちらをご用意させていただきますね。すぐに持って参りますので、少々お待ちくださいませ。」
ナタリーは溜息混じりにそう言うと、根負けしたように部屋を出ていき、彩綾は胸を撫でおろした。
*
同じ頃、執務室ではリークが扉を閉めながらクスリと小さく笑った。
ウォルトが椅子にドカッと座りながら、それを目敏く見つけて問いただす。
「…なんだよ。」
「いや、なんでもないよ。」
リークはそう言ってコホンと小さく咳をして笑い声を抑えると、お茶の用意を始めた。が、それで終わらせるつもりはウォルトには無い。
「嘘を吐け。今笑っていただろう。なんだ、言いたいことがあるならはっきり言えよ。」
「いや、驚いたなと思って。ウォルトが女性にあんな口調で話しているのを初めて聞いたような気がするからさ。あれ、素だったでしょう?」
「…。」
ウォルトはすぐに、はっきり言わせたことを後悔した。心の中を筒抜けにされた気がして、あっさりと押し黙ってしまう自分に目を背けたくなる。
「ましてや会ったばかりの女性を相手には絶対に見せない態度だから、よっぽど気を許せるような何かがあったのかなって思ってさ。」
リークはウォルトの6歳年上の29歳で、ウォルトの実家であるクレイス侯爵家の使用人の息子だった。ウォルトとは歳の離れた幼馴染であり、幼い頃から危なっかしいウォルトの面倒をいつも見ていた。そのせいか、二人きりになると昔のように砕けた話し方に戻る。
「…別に、なんもねぇよ。」
「そうかい?なら、別にいいんだけどね。ところで、どうだったの?」
リークはなんでも無いように話を流すと、カップにお茶を注ぎ入れ、ウォルトの前に置いた。どうせしつこく聞かなくても、ウォルトが自分から話し出すことをよく知っているのである。香りの良い湯気が立ちこめた。
ウォルトはカップを持ってお茶に口をつけた後、カップを持ったまま話しを続けた。
「あぁ、間違いない。言われた場所に向かって馬を走らせたら、その方角が一瞬大きく光るのを見た。その光った辺りに向かって森の中を進んだら、サーヤがいたんだ。そして、彼女の首には碧い石がぶら下がっていた。」
ウォルトがリークに森での出来事を掻い摘んで説明すると、リークは驚くこともなく頷いた。
「なるほど…じゃあ、彼女が言ったことは本当だったんだね。」
「あぁ。…それともう一つ。」
「うん?」
「もしかしたら…『彼女』かもしれない。」
リークはウォルトの言葉の意味を探した。そしてそれに思い至ると、今度こそ驚いた顔でウォルトを見つめた。
「え?『彼女』って…まさか、あの『彼女』?」
「あぁ、そのまさかだ。」
ウォルトは残りのお茶を飲み干すと、カップを戻した。
リークは目を見開いて、その様子をまじまじと見つめた。
「それは、間違い無いのかい?」
「まだ確信は無いが、十中八九間違い無い。」
「そうか…。でもこんな偶然あるのかな。」
「いや、それがただの偶然ではないかもしれん。」
「どういう事?」
ウォルトはその質問には答えず、しばらく思案した後部屋を出て食堂へと足を向けた。