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彩綾の頭に次々と浮かんでくる映像----食卓も、タンスも、冷蔵庫も、どれも見覚えのある物ばかり。そこに、制服姿の自分が映っている。
----これ、私よね。高校の制服だわ…。何か探してる?
映像の中の自分がタンスの引き出しをゴソゴソしている。彩綾はそこに何があったのかを思い出そうとするが、なかなか思い出せない。その時、過去の自分の手に何か持っている事に気が付いた。
----あれは、プリント?プリントを持って、引き出しを…あ、そういえば!
脳裏をよぎった『物』が自分でも信じられず、心臓がバクバクと早鐘を打つ。震える手でレティーナから石を受け取ると、震える声で呟くように言った。
「思い出した…。確か…学校に行く前にプリントの保護者欄に押す印鑑を探してたの。家を出る時間が迫ってて、すごく慌てていて…。その時、小さな箱を見つけたの。その中に入っているんじゃないかと思って開けたんだけど、すぐに違うってわかったから蓋を閉じたのよ。」
手先が震えるのを感じながら、手の上の石をじっと見つめた。
「でも、一瞬だったけど…確かに石が入っていたわ。その後すぐに印鑑を見つけて押して家を出て…。今まで全然気が付かなかった…。」
彩綾の告白にレティーナはチラとウォルトを見た。ウォルトはコクリと頷くと、彩綾の肩に手を掛けて振り向かせた。
「お前さ…、その日、何か変わった事は無かったか?」
ウォルトのいつになく真剣な眼差しに彩綾は困惑した。なんとかその日の事を思い出そうと頭を捻っていると、たまに見る夢に思い当たった。
「変わった事…?そうね…そういえば、ちょうどその頃から不思議な夢を見るようになったわ。」
「夢?どんな?」
「よくわからないんだけど、気が付いたら大きなお屋敷の側にいて、小さな男の子に会うの。とても具合が悪そうで、助けてあげたいのに何もできなくて…。ただ抱きしめる事しかできなかったの。それで、そうこうしているうちに遠くから助けが来て、ホッとしたところで目が覚めるのよ。ついこの間、すごく久しぶりに見たところ…。」
----え?
彩綾は目の前の光景に唖然とした。
----ウォルト泣いてるの?なんで?わぁっ!
ウォルトは彩綾をギュッと抱き締め、奥歯を噛み締めた。震える肩を落ち着かせる様に、ゆっくりと呼吸をする。ウォルトは身体を離すと手の甲で涙を拭い、彩綾を見つめた。
「…お前、その時何か無くさなかったか?」
「は?何かって?だって、夢の話でしょう。無くすって何よ。」
ウォルトは腰に付けている巾着を外して、彩綾に渡した。この巾着には苦い思い出がある。彩綾は、訝し気にウォルトを見返した。
「これ、あの時触るなって怒った巾着でしょう?なんで今渡すのよ。」
「…いいから、開けてみろ。」
彩綾は納得がいかないといった顔で溜息を吐くと、巾着の袋を開けた。そして中の物を取り出すと、大きく目を見開いた。
「こ、これ…私のハンカチ…?なんでアンタが持ってんの!?なんで?」
彩綾は震える手で見覚えのあるピンク色のハンカチを広げた。どこかで無くしたと思っていた物が、今目の前にある。それも、ウォルトの巾着から出てきた。
「…これは12年前、高熱で倒れていた俺を助けてくれた少女が残していったものだ。お前のものだろう?サーヤ…。」
「なっ…それって、もしかして…私、一度この世界に来てたってこと…?」
彩綾はあまりの衝撃で頭が真っ白になった。ウォルトは頷くと彩綾の手を取り、ゆっくりと抱き締めた。
「あの時…俺はお前に助けられたんだ。本当にありがとう。」
やっと言えた、とウォルトが耳元で囁く。抱き締められながら、彩綾は少しずつ頭がハッキリし始めた。やはり、『人生いろいろ話』に対するアラサー女の適応能力は凄い。
ウォルトの身体をグイと押して顔を覗き込むと、シェランドルでの会話を思い出した。
----そういえばシェランドルにいた時、どこかで会ったことないかって聞いた気がする。
「ねぇ、ちょっと待って。アンタ本当にあの時の男の子なの?じゃあ、なんでこの前私が会ったことないかどうか聞いた時、知らんふりしたのよ!やっぱ会ってたんじゃない!」
ウォルトがグッと詰まらせるように口を噤むと、バツが悪いように視線を泳がせた。
「仕方無いだろう。あの時はまだ、お前は何も知らない状態だったんだ。もしあの時お前が布の事も、俺と会っていた事も知ってしまったら、どうなっていたと思う?」
「完全に変態扱いね。」
「誰が変態だ。とにかく、今ならわかるだろ?知らない振りをするしかなかったんだよ。」
素直に肩を落とすウォルトに、彩綾は呆気に取られた。夢の中の男の子と目の前にいる男が同一人物であることが信じられない。普段は子供ばかりを相手にしていたせいか、子供が大人の男に成長した姿など見た事も無かった。勤務年数からしても、せいぜい6歳の幼児が14歳の少年になる程度だ。それすらも、ほとんど見ることはなかった。
----でも、言われてみればあの男の子の面影があるのよね。
彩綾がまじまじとウォルトの顔を見つめていると、ウォルトが「なんだよ」と目を逸らせた。
「ねぇ、なんであの時、あんな場所で熱出してたの?あれ、今のクレイス家のお屋敷よね?」
「それは…かくかくしかじか、だ。」
「面倒臭がるんじゃない。」
「冗談だ。一回使ってみたかっただけだよ。」
彩綾が半目になって睨むと、クツクツと笑いながら続けた。
「あの日、偶然俺も琥珀色の石に初めて触れたんだ。しかも何も知らずに握りしめたものだから、力が発動しちまってな。怖くなって外に飛び出したはいいが、熱で動けなくなった。」
「そこに偶然、私が現れたってこと?」
「そうだ。お前は俺を抱きしめて、この布で汗を拭いてくれただろ?その瞬間、身体が楽になったんだ。多分、お互い無意識のまま俺は浄化されてたんだよ。」
ウォルトが彩綾を見つめて手を取ろうとしたところで、レティーナがコホンと咳払いをした。二人が慌ててレティーナに向き直ると、レティーナはニコリと彩綾に微笑んだ。
「先ほどのお話ですが…確信はありませんが、サーヤ様をこちらにお呼びしたのは私かもしれません。」
「レティーナ様が!?」
「それは本当か!?どういう事だ!?」
二人が驚愕で前のめりになると、レティーナは両手を上げて「まぁまぁ」と苦笑した。
「まず、私は幼い頃よりずっとサーヤ様の気配を、いえ、碧い石の気配を薄っすらとですが感じ取っておりました。」
「どうしてですか?全く違う世界じゃないですか。」
「それは私にもわかりません。ただ、感じていた、それしか言いようはありません。ところがあの日、ほんの一瞬ですが、私はそれまでとは比べ物にならない程はっきりと気配を感じ取ったのです。」
「それは…無意識とはいえ私が一瞬だけ石を見たからですか?」
レティーナは彩綾の手にある碧い石を見て頷いた。
「そうです。そして同じ日の同じ時刻に、琥珀色の石の気配を感じ取りました。」
「俺が発動させたからだな…。」
「えぇ。私は幼い頃に一度だけ琥珀色の石の浄化をさせていただきましたが、発動した気配ははじめてでした。当然私は碧い石を持ってはおりませんので、浄化するには限界があります。狼狽えた私は咄嗟にサーヤ様の気配を探り、強く念じました。」
「念じた?」
はい、と頷くと目を伏せて呟いた。
「『巫女様、助けてください』と。」
三人の間に沈黙が落ちる。レティーナの言葉に、彩綾とウォルトは言葉を失った。
目の前にいる巫女、それも碧い石を持たない取り換え子であるレティーナが、別の世界にいる本物の巫女を召喚する。そんな超人的な事ができるほどに、レティーナの潜在能力は卓越しているということなのか。ウォルトはそこで、レティーナが言っていた言葉を思い出した。
「巫女殿、もしかして以前話していた、『再び現れるかもしれない。もしかしたら私が呼べるかもしれないと思った』は、この事があったからなのか?」
「はい。ですが、確信はありません。なぜならそれ以降、石の気配が元の状態に戻ったからです。」
彩綾はハッとした。一瞬だけ箱を開けて以来、母親から石を渡されるまでの5年間一度も開けていなかった。彩綾が「レティーナ様」と声をかけると、レティーナはゆっくりと顔を上げた。
「レティーナ様、私が母から石を受け取った時はどうでしたか?私にとってはそれが初めてでしたが、その時箱を開けて手に取っていました。」
「はい…確かに感じ取っておりました。これこそが、私が確信に至らない理由でもあるのですが、その時は琥珀色の石は使用されておらず、穢れておりませんでした。ですから、お呼びすることができなかったのではないかと思っています。」
----あの日から5年後…ということは、俺は16歳だから琥珀色の石を渡される前の事だ。
ウォルトが黙り込んでいると、自分への視線に気が付いた。ふと見ると、彩綾が心配そうに自分を見ている。ウォルトが見つめ返すと、彩綾がウォルトから視線を外し、レティーナに向けて言った。
「レティーナ様、一つよろしいでしょうか。もしそうだとしたら、今回私がここに来たのは貴女様が私を呼ばれたからですか?それはつまり、琥珀色の石が、ウォルトが危険な状態だったということなのでしょうか。」
ウォルトの胸に熱いものが込み上げた。自分を心配している彼女の姿は、12年前からずっと追い求めていた姿そのものである。ウォルトはたまらず、抱き締めたい衝動に駆られた。
「そうです。ウォルト様は18歳で石を受け継がれてからというもの、何度も使いこなす為の努力をなさってました。最初の頃は私が時間をかけて浄化しておりましたが、シェランドルの領主になられてからは統治する為に石を使い続け、これ以上は碧い石を持たない私の力では完全に浄化することができなくなっていました。」
彩綾がウォルトの方を見ると、ウォルトは視線だけを彩綾に向ける。過酷な状況で戦っていた目の前の男が、なぜか無性に愛おしく感じた。
「次は無いと覚悟をしたその時でした。最後にウォルト様の石を浄化した直後、碧い石の気配を強く感じたのです。それは今までで一番強烈なものでした。」
「最後、という事は、俺がサーヤを迎えに森に行った日の前日だよな。」
「はい。私は、この機会を逃してはいけないと思い、咄嗟に…」
「まさか…。」
レティーナはコクリと頷き、彩綾を見た。
「再び強く念じました…。『巫女様、助けて下さい』と…。」
彩綾は絶句した。目を瞬かせてウォルトと初めて会う前日を思い出す。
----そうだ、あの日は仕事を辞めた日で、石を箱から取り出して首にかけたまま寝ちゃったんだ。でも…
「レティーナ様。私がこの石を首にかけたのはウォルトに会う前日の夜です。そして、翌日の朝遅くに光に包まれました。つまり、レティーナ様が念じられてから実際にこの世界に来るには時間差があるという事ですよね。」
「そうなのですか?私はこの世界の時の流れしか存じておりませんので、サーヤ様がおられた世界の時の流れと同じなのかどうかはわからないのです。」
彩綾は再び絶句して、嫌な汗が流れた。
----え、じゃあもし自分の世界に戻ったとしても、同じ時間が流れているとは限らないって事?いやでも、12年前に会ってるのは同じだから、そう変わらないのかしら…。
「あの、レティーナ様。碧い石の事で、お願いしたい事があります。」
「私に、碧い石の継承者になってほしい、との事でしょうか?」
「どうしてそれを!?」
彩綾が口を開けて固まっていると、レティーナがクスクスと笑いだしお茶を一口啜った。
「実は、先だってウォルター様がこちらの宮殿に参られましたの。その時私に、碧い石を受け継ぎ今後も巫女としてのお役目を全うしてくれないかと頼まれまして。」
「え、ウォルトが?いつの間に!?」
彩綾はウォルトに詰め寄り、目を瞬かせた。ウォルトは急に詰まった距離感に仰け反りながら、彩綾の肩を優しく押して元に戻した。
「…お前と街に出かけた日。一度屋敷に帰って、俺だけすぐに出かけただろ?あれは巫女殿に会いに来てたんだよ。」
「それって…私が、石をウォルトに託して自分の世界に帰るって言ったから…?」
ウォルトが目を逸らせたまま頷くと、彩綾は心臓が跳ねた。本当なら自分がしなくてはいけない事を、自分の為に頼んでくれていた。それだけで、彩綾は胸の奥がキュッとなった。
「あの時のウォルター様のお姿は見物でしたわよ。これ程プライドの高いお方が、貴女様の為にあんな…」
「巫女殿、その辺でやめておいてくれ。」
クスクスと笑い続けるレティーナに、ウォルトはげんなりした顔で制止した。二人の間に流れる親しい空気に、彩綾の胸がチクリと刺さる。
彩綾は手を胸に当てて首を傾げながら、レティーナに向き直った。
「それで…レティーナ様は…?」
「もちろん、お引き受け致しましたわ。」
「本当ですか!?いいんですか!?」
ですが、とレティーナは真剣な眼差しに切り替え、彩綾から石を受け取った。石をそっと握りしめ、ウォルトに視線だけを向ける。
「それは、この碧い石を私が使いこなせたら、のお話です。」