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----はぁ…出かける準備しなくちゃ…。
彩綾はソファの上で膝を抱えながら、テーブルの上に置いた碧い石を見つめていた。ウォルトに言われた言葉が胸に突き刺さったまま、じわじわと彩綾を苛んでいく。
----石ごと責任を押し付ける、か…。ほんと、その通りだわー…。
抱えた膝に顔を埋めていると、目頭が少しジンとなる。膝が濡れないように、慌てて顔を上げた。
----ダメ、今泣いたら後で絶対にバレる。
しばらく上を向いたまま目を閉じていると、少し落ち着いた頃に扉をノックする音がした。
「はい。」
「…俺だ、ウォルターだ。ちょっといいか。」
彩綾は慌てて鏡台まで駆け寄って目元を確認し、赤くなっていないことを確認してから扉を少し開いた。
「何?まだ出かける時間じゃないよね?」
「あぁ、まだだ。その、そうじゃなくて…さっきの事だけど…」
「さっきの事なら気にしてないわ。ウォルトが言った事は本当の事だもの。」
彩綾は苦笑しながら足が震えるような感覚に耐えていた。好きだという気持ちを抑える辛さと、好きな人に鬱陶しいと言われた辛さで、胸が痛くて苦しい。
----うわ、ダメだ泣きそう…。
すぐに扉を閉めようと、手元の取っ手を見る振りをして俯く。なんとか声が震えないように口元に力を入れた。
「えと…じゃあ、私これから準備するから、後でね。」
涙を堪えた安堵で小さく息を吐いた時、閉まる直前だった扉が再び大きく開いた。扉の隙間に指を滑り込ませ、中に入って来たウォルトの目が大きく見開かれている。
「…お前、泣いてんのか?」
「は?…え、あ…これ、は…。」
頬を伝う涙に触れた途端、猛烈に恥ずかしさが込み上げる。彩綾は手の甲でグイグイと拭きながら、次から次へと溢れ出る涙を必死で止めようとした。
「あの、違うの、これはそんなんじゃなくて…わっ!」
最後まで言い終わる前に腕を引かれ、ウォルトの胸に頬が触れた。反射的に押しのけようとしたがビクともしない。それどころか、よりきつく抱き締められて身動きが取れなくなった。
彩綾は抵抗することを諦めると、ドクンドクンと大きな鼓動が耳に響いてハッとした。
----これ、ウォルトの心臓の音?なんか、すごく大きい音が鳴ってない?
抱き締められた衝撃と恥ずかしさで、いつの間にか涙が止まっていた。呆然と立ち尽くす彩綾を余所に、ウォルトは彩綾の頭を抱えるようにギュッと抱きしめた。
「…俺のせいだよな。酷い事を言った俺が悪かった。泣かせるつもりなんて無かったんだ。ごめん!本当にごめん!」
「ちょ、ちょっと待っ…ブフッ…ウォル…ト…ゴフッ!」
ギュウギュウと抱きしめる腕の力が強すぎて、彩綾はだんだん苦しくなっていった。押すことも引くこともできない状況に、どんどん息ができなくなる。あまりの苦しさについに眼球の奥が痺れ出すと、ウォルトの背中を目一杯の力を込めてバシバシと叩いた。
しばらく叩き続けているとウォルトはハッとして身体を離し、彩綾の両肩に手をかけて顔を覗き込んだ。
「悪ぃ!大丈夫か!?」
「けほっけほっ…はぁ、はぁ、ビックリした。急に何すんのよ…って、わぁっ!」
今度は苦しくないように優しく彩綾を抱き締める。彩綾は自分の胸の音がウォルトに伝わらないよう、咄嗟に腕で胸元を庇った。それでも、長身で大柄な自分をすっぽりと腕の中に収めてしまうウォルトの大きさに胸がときめいた。
「本当に悪かった。反省してる。だからもう泣くな、な?」
ウォルトが彩綾の耳元で宥めるように囁くと、彩綾は顔が真っ赤になるのを感じた。
----ちょっ、誰この人?何なのこの甘い声!?
「あの、ウォルト。私今泣いてないし、別に怒ってもないから!謝ってもらう事なんて無いから!」
抱き締められたところが熱くなり、彩綾は何とか逃れようと必死で捲し立てた。
「本当に、怒ってないのか?許してくれるか?」
「わかった、許します!許すから、本当にもう離…。」
抱き締める腕が緩められたと同時に、顔の前に気配を感じて視線を上げる。
目を閉じたウォルトの長い睫毛に、彩綾は思わず見入っていた。
*
薄雲の隙間から降り注ぐ柔らかい日差しと爽やかな風が吹く中、馬車は王宮へと向かって走っていた。彩綾とウォルトは向かい合うように座り、穏やかな外の風景を眺めていた。
「おい。」
「何?」
彩綾が車内に流れ込んでくる風に髪を遊ばせていると、ウォルトは窓際に腕を乗せて頬杖をつきながら、ジロリと彩綾を睨みつけた。
「何も殴ることねぇだろうが。」
「アンタが調子に乗ってキスなんかしようとするからでしょうが。」
彩綾が半目になってピシャリと言うと、ウォルトは左頬に手を当てながら喚き出した。
「だからってなぁ、あの状況でああなるのは普通だろうが!たかがキスぐらいで怒んじゃねぇよ!」
「それはアンタにとっての常識でしょうが!そうやってすぐに手を出す男って本当にサイテー!」
ギャアギャアと言い合う馬車の外では、御者がオロオロと聞き耳を立てていた。王宮の通行門に着くと安堵の息を漏らして門番に声をかける。門に立つ兵士が馬車に掲げられたクレイス家の紋章を確認して道を開けると、巫女のいる宮殿へと続く門の前に馬車を停めた。
「ウォルター様、着きましてございます。」
御者が踏み台を持って車内に声をかけるが返事が無い。聞こえてくるのはギャアギャアと言い合う男女の声だった。
御者がゴクリと唾を飲み込んで扉をノックすると、返事が聞こえたので胸を撫でおろした。
踏み台を置いて扉を開けるとウォルトが先に降り、手を差し伸べて彩綾を降ろした。直前まで言い合っていたのが嘘のように澄ました顔で出てきた二人に、御者の開いた口が塞がらない。
「ご苦労だった。」
「ありがとうございます。」
彩綾がお礼を言うと、御者は慌てて姿勢を正して礼をした。主人の命令は当たり前で過ごしてきた自分にとって、お礼など言われ慣れていない。
御者が顔を赤くしてそそくさと馬車に戻ろうとした時、ウォルトが思い出したように御者を呼び戻した。御者に耳打ちして指示を出すと、御者は早速馬車に乗り込み走っていった。
「…お前、結構タラシだよな。」
「何がよ?」
「何でもねぇよ。」
----何でまたムスッとしてんのよコイツは。
門を通り、宮殿へと続く回廊を歩いていると、彩綾は緊張で手が冷たくなっていた。回廊を吹き抜ける風に髪が煽られ顔に纏わりつく。ウォルトが指でそっと解きながら立ち止まった。
「どうした、緊張しているのか?」
「うん、やっぱりちょっとね…。」
「しょうがねぇな。ほら、行くぞ。」
彩綾が苦笑していると、ウォルトがグイと手を繋いでゆっくりと引っ張り出した。彩綾は繋がれた手から目が離せないままついて行く。うるさく鳴り響く心臓の音に気を取られているうちに、いつの間にか宮殿の前に辿り着いていた。
「お待ちしておりました、ウォルター・クレイス様。巫女様のおられるお部屋までご案内致します。」
「あぁ、よろしく頼む。」
侍女に案内されて宮殿の奥へと進むと、細部にまで技巧を凝らした美しい木製の扉の前に辿り着いた。彩綾は乾いた唇を軽く湿らせ両手にギュッと力を込めると、侍女が扉を叩く音にビクリと身体を震わせた。
「巫女様、お客様をお連れ致しました。」
ウォルトに促されて部屋へと入ると、彩綾は息を呑んだ。
一面真っ白な壁と、とてつもなく高い天井。天井からは陽の光が降り注ぎ、壁の至る所にはめ込まれたクリスタルが光を反射させて部屋中を煌めかせている。部屋には美しい木製の祭壇と祭事用の台のみで、台の上には燭台が置かれていた。
彩綾は祭壇の前で佇む一人の女性に目を奪われた。部屋に差し込んだ光を受けて、漆黒の髪が艶めき肌が白く輝いている。髪と同じ色の瞳と赤い唇が恐ろしい程の色気を醸し出していた。
----なんて綺麗な女性…。
彩綾が思わず見惚れていると、「おい」と声をかけられハッと我に返った。
「ごきげんよう、ウォルター様。貴女様が、サーヤ様ですね。初めまして、私はレティーナと申します。」
レティーナはニコリと微笑むと、その独特の美しさに彩綾は胸が高鳴り動揺を隠せなかった。
「初めまして、レティーナ様。私はサアヤ・キリタニと申します。あの…私と会っていただいて本当に…。」
「えぇ、本当に。こうして貴女様にお会いできる日が来るなんて…本当に…。」
「え?え?ちょ、どうしたんですか!?」
「巫女様!」
そう叫んで彩綾に抱きつくレティーナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちていた。突然の事に呆然と固まる彩綾の肩で、レティーナはなおも泣き続けている。
彩綾は泣きじゃくる子供をあやすように、レティーナの背中を優しく抱き締め返した。
*
部屋に運びこまれたテーブルにお茶と焼き菓子が用意されると、彩綾とレティーナは向かい合い、ウォルトは彩綾の隣に座った。お茶の良い香りが気分をリラックスさせる。三人はカップに口を付けて一息つくと、レティーナが最初に口を開いた。
「先ほどは取り乱して申し訳ありませんでした。こうしてお会いできましたこと、大変嬉しく思っております。」
「いえ、こちらこそお会いできて光栄です。そして…申し訳ありませんでした。」
彩綾は深々と頭を下げ、レティーナに向き直った。
「知らなかったとはいえ、私はレティーナ様に自分が負うべき運命を押し付けて今まで生きてきました。レティーナ様は幼少期にはすでに巫女としての役目を負われ、今までずっと国の為に尽くしてこられたとか…。本当に、申し訳ありません。」
彩綾が再び頭を下げたまま止まっていると、レティーナは彩綾の肩にそっと触れた。
「お顔をお上げくださいませ、サーヤ様。」
彩綾は促されるまま顔を上げると、ニコリと微笑むレティーナと目が合った。曇りのない瞳からは慈愛が感じられる。
「サーヤ様がお謝りになる事などございませんわ。これも運命だったのです。確かに私は貴女様の取り換え子としてこの世に送り出された者ですけれど、私が巫女としての力を授かっている事もまた事実なのですから。」
微笑むレティーナの頬が少し赤く染まっている事を、ウォルトは見逃さなかった。よく見れば、さり気なく彩綾の手を握っている。あまり人を寄せ付けないレティーナの普段の行動からは、決してありえない事だった。
ウォルトは咳払いをして彩綾に視線を向け、声をかけた。
「それよりもサーヤ。お前、巫女殿に話があるんじゃないのか?」
「あ、そうだった…。」
彩綾はレティーナの手からするりと抜け出し、姿勢を正して膝の上で両手を握り締めた。レティーナが少しガッカリしている事を、ウォルトは見逃さない。どこから切り出せばいいのか分からずに黙り込んでいると、レティーナが先に声をかけた。
「サーヤ様。貴女様は今、碧い石をお持ちですか?」
「え?あ、はい。これです。」
彩綾は首に下げていた碧い石を取り出し、レティーナに渡した。レティーナは石を両手の上に置いて陽の光に当てると、一瞬ハッとした顔をしてふわりと微笑んだ。
「…美しいですね。このような美しい石は初めて見ました。ところでサーヤ様はこの石をいつお知りになりましたか?」
「この石のことを知ったのは、私が21歳の時です。母が亡くなる少し前に、病室で渡されました。私が本当の娘ではない事も、その時に。父は幼い頃にすでに他界していましたので、残される私の事を案じていたのだと思います。」
彩綾が目を伏せて言うと、レティーナは「そうでしたの…」と呟いた。
「それ以前に、この石をご覧になった事はございませんか?例えば、一瞬だけ触れたとか。」
「それよりも前にですか?…いえ、無かったと思うのですが。」
「そうですわね、では…12年前、この石を見た事はありませんか?」
「12年前?」
ウォルトが黙ったままじっと様子を窺っていると、レティーナは石を乗せたまま両手を差し出し彩綾の手を包み込んだ。レティーナが目を閉じて静かに念じ始めれば、包まれた手の先から何かが流れ込んでくる。彩綾はビクッと肩を震わせ、頭の奥に浮かんだ映像に驚愕した。
----これ…昔お母さんと住んでた部屋!?




