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頬を撫でるような静かな風がそよぐ月明かりの下で、彩綾はウォルトと向き合っていた。
----帰って来たんだ…。
何も言わずにただじっと彩綾を見つめるウォルトの瞳に、彩綾はハッとして心臓が跳ね上がった。
----そうだ…あのイエローダイヤ…ウォルトの瞳に似てるんだ。だから…
惹き込まれた。
頭をぶつけたような衝撃と苦しい程の胸の鼓動に、彩綾は手足が震えて立っていられなくなった。まさか、と恐る恐る顔を上げてウォルトの顔を見る。頭の中が真っ白になると、もう目を逸らすことができなくなり息が詰まった。
----どうしよう、私…ウォルトのこと好きなんだ…。
----生きている世界が違う上に、5歳も年下の男性を好きになるなんて…。でも…
----『俺が言ったことは無かったことにしてくれ。忘れてほしい。』
二人で街へ出かけた日の翌朝にウォルトに言われた言葉が蘇る。
こんな気持ち、ウォルトに悟られるわけにはいかない。身体中の熱が全て顔に集まったかのように赤くなる。カップを握り締め、彩綾は咄嗟に俯き月明かりから逃げるように背を向けた。
「か、帰ってきてたんだ。おかえりなさい。」
「あぁ、ちょうど今帰って来たところなんだ。つーかお前、また中庭にいたのか?」
「え?あ、うん、そうなの。なんだか目が冴えちゃって。あ、でももうそろそろ寝よっかな~なんて。ははは…えと、それじゃ!」
----ははは、じゃないわよ…くうぅっ…
自分でも情けなくなるくらいの不自然さに、涙が出そうになる。下唇を噛みながら入り口の扉へと歩き出すと、突然腕を掴まれ身体が後ろに引っ張られた。なんとか体勢を崩さずに済んだものの、ウォルトに再び月明かりの下に連れ出された事に気付いて咄嗟に顔を背けた。
「おい、ちょっと待て。何さっさと戻ろうとして…え…?」
上から見下ろす彩綾の顔が耳まで赤くなっているような気がして、ウォルトは思わず息を呑んだ。
お風呂上がりの石鹸とボディオイルの香りが風に乗って、ウォルトの理性を容赦なく攻め立てる。掴んだ腕が折れそうなほどに細く柔らかくて、まるで縫い付けられたかのように手を離すことができない。
それでも、帰ったばかりで泥と埃だらけのまま彩綾を抱き締めるわけにはいかないと、ぐらつく頭を抑えてなんとか踏みとどまっていた。
「あ、あの…ウォルト?腕が…痛いんだけど…。」
「は?え、あ、悪い!」
いつの間にか強く掴んでいた手を勢いよく離し、二人の間に沈黙が落ちた。視線を合わすことも無く、身体を背けながら互いに心臓の音が聞こえないよう距離を取った。
「あの、今日シェランドルに行ってきたんでしょう?」
「あ、あぁ、そうなんだ。急用ができて、俺がやらなきゃいけない事だったからな。なんとか間に合って良かったよ。」
「そっか…。」
ギクシャクした空気と再び訪れた沈黙になんとか気を紛らわせようと、彩綾は気を落ち着かせる為に小さく深呼吸した。
「そうだ、皆は元気だった?」
「あぁ、元気にしてるよ。といってもたった数日留守にしているだけだからな。俺がいなくてもなんとかやってくれている。」
「そうね、リークさんもナタリーさんもコルトも、頼りになる人ばかりだものね。」
彩綾がクスクスと笑いながら言うと、ウォルトの表情が急変した。が、彩綾はそれに気が付かない。
「そういえばシェランドルの城を出た時も、三人が見送りに出てくれていたわよね。リークさんは執事で、ナタリーさんは侍女長でしょ?じゃあ、コルトは隊をまとめる人か何かなの?もしそうなら、若いのに凄いわよね!あ、アンタの方が若いけど、それでもやっぱり…」
話している途中で、彩綾は自分の顔に影がかかっていることに気付き顔を上げた。ついさっきまで斜め前にいたウォルトの顔がなぜか目の前にあり、目が合った。
----え?
そう思った瞬間、唇に柔らかいものが触れた。
頬に手を添えられながら、まるで大事な物に触れるかのような優しい感触。
彩綾が目を見開いて固まっているうちに、ウォルトは唇を離しながら「他の男の話なんかするな」と囁いた。耳元に響く低い声に背中をゾクリと震わせ、呆然としながらウォルトを見上げると、真っ直ぐに自分を見つめる瞳に目を奪われた。
「明日は一日中忙しくなるんだ。さっさと部屋に戻って寝ろよ。」
そう言うと、ウォルトは彩綾の持っていたカップをひょいと取り上げ、踵を返して屋敷へと入っていった。一人残された彩綾は、今度こそ倒れそうになるのを必死で堪えながら両手で口元を押さえた。
----な、な、キ…キ…キスした…。
目を閉じたウォルトの顔を思い出し、彩綾は心臓をバクバクと鳴らした。長い睫毛と綺麗な肌。自分をじっと見つめる端正な顔立ち。長身で鍛え抜かれた体躯。優しく触れる大きな手。
胸をときめかせるには十分だった。
----いや…いやいやいや…ダメだってば。私は、自分の世界に帰るんだから…。
小さく首を振り、一気に心の温度が下がるような感覚に、彩綾はキュッと口を結んだ。『愛さえあれば』なんて勢いだけで突き進めるほどの根性も覚悟も無い。そして何よりも変えられない現実が、彩綾の心に重くのしかかった。
----そもそも、継承者同士は結ばれる事なんてできないじゃない…。
ズキズキと感じた事のない胸の痛みを誤魔化すように、月を見上げながらふわりと笑った。
身体を纏うような風が流れ、芝生の上を駆けて舞い上がる。滲んだ月を見つめながら、彩綾は小さく呟いた。
「何が『明日は』よ…。アンタは『明日も』でしょうが…。ばか…」
*
翌朝、彩綾は身支度を整えて食堂へと下りて行った。食堂にはシャロライン、セレリーナ、子供たちとウォルトが座っている。ウォルトの姿に一瞬ドキリとしたが、気持ちを抑え込む為に努めて冷静に振る舞うことに決め、ウォルトの前の席に座った。
「おはようございます。」
「サーヤさん、おはよう。いよいよ今夜ね。昨夜はよく眠れたかしら?」
「はい、お陰様で。昨日は素敵なものを用意して下さって、ありがとうございます。」
「あら、いいのよそんなの。折角ですもの、うんとお洒落しなくっちゃ。それに、本番はこれからよ!」
シャロラインと彩綾の会話を横で聞きながら、ウォルトはチラと彩綾を見た。いつもと変わりのない彩綾の様子に軽い苛つきを覚えていると、彩綾がウォルトに話しかけた。
「ねぇ、ウォルト。あのさ、今日、王宮にいる巫女様に会うじゃない?」
「…あぁ、そうだな。」
「その…巫女様って、どんな女性なの?見た目とか、性格とか。」
「は?そんなもん、直接会って確かめればいいじゃねぇか。」
「それはそうだけど…自分の代わりにずっと巫女として過ごしていた人と話をするなんて、なんだか緊張しちゃって…。」
彩綾が肩を落として溜息を吐くと、ウォルトは顔を顰めながら持っていたパンを皿に置いた。グラスの水を一口飲んで彩綾に視線だけを向けると、厚切りのベーコンを切り始めた。
「緊張?お前が?冗談だろ。」
鼻で笑うように言い放つウォルトの態度に、彩綾は頭の奥で何かがキリリと鳴った。
「冗談って何よ。私が緊張しちゃおかしいって言うの?」
笑顔で詰め寄る彩綾の態度に、ウォルトは更に苛立ちを募らせる。
「あぁ、おかしいね。少しは可愛くもなるかと思ったら、全然可愛くねぇままじゃねぇか!」
人を指差すようにナイフを彩綾に向けながら言い続けるウォルトに、彩綾の頭の奥で何かが弾けた。
「あのねぇ、今そんな話してないでしょう!?巫女様のこと聞いただけで、なんでそんな事言われなくちゃいけないのよ!」
「うるせぇよ!大体なぁ、巫女がどんな女だろうが、お前が石ごと責任を押し付ける事に変わりはないんだろう!?だったら、会う前からごちゃごちゃ言うんじゃねぇよ鬱陶しい!」
ウォルトの言葉に、彩綾は息が止まった。ウォルトがハッとしたのも束の間、食卓がシンと静まり返り皆の視線がウォルトに集中していた。
「あ、いや、その…だから…」
「…ごちそうさまでした。」
彩綾はナフキンで口を拭くと手早く畳んで席を立った。セレリーナが慌てて立ち上がろうとしたが、シャロラインが視線で制して声をかけた。
「サーヤさん、もう少し食べないと身体が持たないわ。」
「いえ、もうお腹いっぱいなので大丈夫です。」
彩綾はニコリと笑って答えると、そのままウォルトの方を向いた。
「ウォルト、あなたの言う通りだわ。私には気にする資格なんて無いものね。お陰で目が覚めたわ。それじゃ、後でね。」
「おい、ちょっと待て!」
ウォルトの制止も空しく、彩綾は駆け足気味に部屋を出て行った。ウォルトは片手で額を支えながら大きく溜息を吐くと、突然背中に氷のような悪寒が走った。そろそろと視線を動かすと、二人の貴婦人が氷河のような眼差しで射殺さんとしている。ウォルトは咄嗟に咳払いをして食事を続けた。
セレリーナは子供たちの食事をさっさと終わらせ、外で遊んでくるようにと言った。そして子供たちが食堂から出て行くのを見届けると同時に表情を硬くして、ウォルトの方へと向き直った。
「それで?先ほどの態度はどういう事ですの?」
「…どういう、とは?」
「サーヤさんに対する態度が酷いと感じたのは、気のせいだとでも仰るの?」
「そうね、どういう事かしら?あなたたち仲直りしたんじゃなかったの?」
「それは…。」
シャロラインが横から加勢すると、ウォルトはグッと詰まって手を止めた。母と義姉に詰め寄られた状態では言い逃れができそうにない。ウォルトは観念して昨夜のことを話した。
「その、つまり…昨夜シェランドルから帰ったら偶然彼女が中庭にいたので、少し話したんです。」
二人が黙ってふんふんと頷いている。それの何が良くなかったのか分からない、といった顔をしていた。
「それで、その…彼女がコルトの…他の男の話をしたのが気に障って、思わず…。」
「どうしたの?」
「口づけを…。」
「「まぁっ!」」
シャロラインとセレリーナが揃えて声を上げた。互いに顔を合わせて目を丸くしながら口元を押さえると、シャロラインの口の端が徐々に上がっていった。
「それで、どうしたの?」
ウォルトはシャロラインの表情が完全に面白がっている事に気付いていたが、今更取り繕う必要も無いなと半ばやけくそになっていた。
「どうもしませんよ。私はそのまま自室に戻りましたし。ただ…」
「今朝のサーヤさんの態度があまりにも普通だったのが気に入らなかった、という事ですわね?」
「…えぇ、まぁ、そんなところです。」
「呆れた!本当に、なんて残念な男なのでしょう!」
セレリーナが激昂してテーブルを叩くと、食器がガチャリと音をたてた。
「お義母様、私にこの男を窘めさせて下さいませ!無駄に女経験があるばかりで、女心をまるでわかっていませんわ!」
シャロラインも呆れて目を伏せ額に手をつくと、セレリーナに視線で許可を出した。
「ウォルト、あなた自分の事ばかり考えているようだけれど、少しはサーヤさんの気持ちを考えていて?」
「もちろん考えていますよ。彼女の為に、私はここ数日各所へ走り回っていたのですから。先日巫女殿にも直接会って、碧い石を引き受けてくれるよう話を付けてきましたし、彼女が無事に夜会を過ごせるように手配もしました。」
「それは本当に、彼女の為かしら?彼女の為だと言うのなら、どうしてあなたはレイシー嬢との婚約を白紙に戻したりしたの?彼女の望みは、石を託して自分の世界に戻る事でしょう?」
「それは…!」
なんでもう知っているんだ、と目を伏せて言い淀むウォルトに、セレリーナは拳を震わせ容赦なく追い打ちをかけた。
「彼女の気持ちを考えずに突っ走り、周りから固めるような姑息な真似をした挙句、勝手に嫉妬して口づけをしたのよね。彼女もさぞかし動揺したことでしょうね。もしかしたら、あなたの望み通り心が揺らいだかもしれないわね?それでも自分は帰る事を望んでいるからこそ、あなたとの関係を進める事も、拗らせるわけにもいかないと思ったのではなくて?」
「……。」
「だからこその、今朝の態度でしょう?それをあなたは、自分の思い通りの反応をしてもらえないからと、彼女にあんな酷いことを…。子供じゃないのよ、恥を知りなさい!」
セレリーナの声を最後に再び食卓が静まり返ると、ウォルトはしばらく押し黙ったまま両手を組んで肘をついた。セレリーナは荒げた息を鎮めるようにゆっくりと深呼吸を繰り返すと、落ち着いた頃に再び口を開いた。
「これから巫女様のところへ行くのでしょう?でしたら、今すぐに彼女の元へ行って素直に謝ってらっしゃい。自分の非も認められないような男に惚れる女などいなくてよ。」
セレリーナはグラスの水を飲み干すと、まだ途中だった食事をしはじめた。シャロラインも黙ったままグラスに口をつけ、椅子にもたれて目を閉じた。ウォルトはしばらく考え込んだ後、意を決したように立ち上がって扉へと歩き出し、途中で足を止めて振り向いた。
「義姉上の仰る通り、確かに私は彼女の為だと言いながら、自分の望みを叶える為に行動していました。それに関しては一切の言い訳は致しません。ですが…。」
セレリーナが片眉をあげて続きを待っていると、ウォルトはふ、と微笑って続けた。
「私はもう、彼女無しでは生きていけません。彼女を手に入れるためなら、たとえ悪魔に魂を売ってでもこの世界に留めさせます。」