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空がかろうじて明るさを帯び始めたばかりの、まだ夜明け前の丘の上にウォルトは立っていた。
夜の時間が長くなりつつあるこの時期は、南から吹く暖かい風もその存在を潜め始め、代わりに深い森の遥か彼方から冷たい風が顔を出す。ウォルトの肩にかけられた外套が、吹きすさぶ冷たい風を孕んで大きく煽られている。その首には、琥珀色の石が妖艶な光を放っていた。
ウォルトが立つ丘からは、国境にある領土『シェランドル』を一望できる。少し斜めに視線を移すと、小さな街『キール』も見渡せた。国境付近のこの地は、少数部族からの侵略や野盗の横行、ぐるりと囲む大自然が起こす大規模な自然災害により、土地は荒れ果て、犯罪が後を絶たず、昔からその地に住む者たち以外は決して近づこうとはしなかった。
20歳になったウォルトは、広大な領地を治めるバーヴェルク王国国王より直々にこの地を拝領した父モンドール・クレイス侯爵からこの地を託された。
少数部族との小競り合いの鎮静化と荒れ果てたシェランドルを統治せよという王命は、まだ成人して間もないウォルトには荷が重い任務である。しかし、クレイス侯爵には確信があった。
この地を治められるのは、ウォルトの他にはいないことを。
*
「ウォルトが来る前のシェランドルは、とてもひどい状況だったんだ。」
シェランドルの主要地キールの街を馬に乗ってゆっくりと進みながら、コルトは手綱をぎゅっと握りしめて呟いた。
馬に乗って進む一行がやってくると市民たちは道を開け、馬上の兵士たちに向かって敬意の視線を送っている。男たちは頭を下げ、女たちは惚けた表情で男たちを見つめ、子供たちは手を振り走り回っている。旅の楽団が来ているのだろう。遠くから陽気な音楽とともに拍手や笑い声が聞こえてくる。道の脇にある染料屋では、店主と客が値切りバトルを繰り広げていた。
「この地は元々、争いや自然災害が絶えない荒れた地域だったんだ。さっきいた森が野盗の巣窟になっていてね。女子供を誘拐したり、この辺りを通過する旅商団を襲ったりして、身を隠すにはうってつけだったんだよ。だからどんなに兵を派遣しても収まらないどころか、向こうにも地の利があるから追い払うことさえ難しかったんだ。そこに追い打ちをかけるように近隣の少数部族が絡んでくるから、それはもう荒れる一方でさ。」
お手上げ状態だったよ、とコルトは肩を竦めて言った。
彩綾が理解しやすいように説明しようと言葉を選んでくれている配慮を感じ、彩綾は密かに感動する。
「でもさ、国が兵を差し向けても野盗を追い払うことすら無理だったんでしょう?それなのに、アイツが来た途端にこんなに変わってしまったってこと?」
彩綾は街を見渡しながら、この土地の悲惨な過去に衝撃を受けた。今ではその影すら見当たらないように感じられる。
----てゆうか、アイツあの若さで領主だったの!?そっちの方が驚きだわ!どうでもいいけど!
「アイツがどれだけ凄いのかはわからないけど、少数部族との争いに勝って、野盗を追い払って、自然災害から守って、その上で国を豊かに発展させるなんて。どれか一つやり遂げるのも相当な苦労がいることでしょう?それをほぼ同時にやってのけるなんて、アイツ一体…」
----何者なの?
彩綾がそう言い終わる前に、前の方から無愛想な声で遮られた。
「おい、いつまで喋ってんだ。そろそろ街を抜けるから速度を上げるぞ。喋ってたら舌を噛むから…あぁ、お前の場合その方がちょっとは大人しくなるかもな。」
ウォルトは口角を上げてフンッと鼻で笑い、前に向き直って馬を走らせた。兵たちが後を追うように走り始める。コルトも手綱を捌いて速度を上げ始めた。彩綾はコルトの服を掴んでいる手をギュッと握りしめ、ギリギリと奥歯を噛みしめ心の中で絶叫した。
----本っっっ当に腹立つ!!
背中にグツグツと煮えたぎる怒りを感じ、コルトは苦笑しながら馬を走らせた。
*
キールの街を出てしばらく馬を走らせると、前方遠くに丘が見えてきた。
更に走らせると道が蛇行し始め、丘の周りをグルグルと回るように上がっていく。丘の頂にある城は、その周りをとてつもなく高い防御壁で囲まれており、外からはその姿すら見ることができない。途中から馬の速度を落とし、そのまま進み続けると堅固な城門が侵入者を睨みつけるように立ちはだかる。城主の帰還を知らせるラッパが鳴り響き、門兵が重厚な門を開けて待機していた。
ウォルトが門をくぐり抜けて中へと進み馬を止めると、すぐに数人の兵士や従者が主の元へと駆け寄った。ウォルトは馬から降りると馬を従者に託し、駆け寄った兵士から報告を受け指示を出す。一通り終えて後ろへ振り返ると、彩綾がコルトに馬から降ろしてもらっているところだった。
彩綾は城に近付くにつれ、その現実離れした光景に圧倒されていた。途方もなく高い壁がぐるりと一枚の板のように聳え立っている。とてもじゃないが、その壁の上を人が行き来できるとは思えない。
今まで一人旅で訪れた歴史遺産には、もちろん城も含まれている。といっても日本の城だが、あくまで歴史的資料となった建物であり、こんな風に現在使用中の城を見るのは当然初めてだった。
馬に乗って丘に差し掛かるあたりから警護のために配置されている兵を見かけたとき、彩綾は息を呑んだ。
----ほ、本当に何なのよ、ここ…。
コルトの服をギュッと握りしめ、背中に顔を隠すようにしてそっと周りを見渡してみる。武具に身を包んだ兵士達がそこら中を行き来している。城の方へと目を向けると、国境の城らしく攻防力に徹底して造られたのだろう。城というより要塞と言った方が正しい気がした。
「コルト、ご苦労だったな。一息ついて飯にしよう。」
ウォルトは二人に歩み寄り、コルトを労った。そのまま彩綾の方に視線を移し、顎で指示をする。
「お前は俺と一緒に来い。」
先ほどからのウォルトの態度に煮えくり返っていた彩綾は、ウォルトを真っ直ぐ睨み据えた。
「どこに連れていくつもり?」
「そのままの恰好じゃ目立つからな。侍女長には伝えてあるから、飯の前に着替えてこい。とりあえず、執事と侍女長に紹介する。こっちだ。」
ウォルトはそう言い終わると同時に踵を返してスタスタと歩き始めた。上から目線な態度に納得がいかないまま、彩綾は慌てて後ろを追いかける。城内に続く門をくぐると、執事と侍女長が並んで迎えに出ていた。
「おかえりなさいませ、旦那様。」
「おかえりなさいませ。ご無事で何よりですわ。」
帰還した城主に執事と侍女長が礼をして挨拶をした。
「あぁ、今戻った。サーヤ、…おいお前、そんなとこで何やってんだ。紹介するからこちらへ来い。」
ウォルトは振り向くと、まだ門の入り口辺りで周りをキョロキョロしている彩綾に向かって声をかけた。彩綾がウォルトの元へと速足で歩み寄る。
「サーヤ、紹介する。彼はうちの執事で、リーク・シラント。それから、彼女は侍女長のナタリーだ。リーク、ナタリー、こちらはサーヤ・キリタニ嬢だ。客人としてもてなすように。」
ウォルトは『嬢』のところで彩綾をチラリと見ながら口角を上げた。いちいち腹が立つ。
「初めまして、私はリーク・シラントと申します。どうぞよろしくお願い致します。」
「初めまして、サアヤ・キリタニと申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。」
「初めまして、ナタリーと申します。まぁまぁ、素敵なお嬢さんだこと!旦那様からお話は伺っておりますよ。どうぞ、よろしくお願い致しますね。」
「サアヤ・キリタニと申します。よろしくお願い致します。」
彩綾は深々と頭を下げて挨拶をし、二人の様子を伺うように目を合わせた。
執事のリーク・シラントは、ヘーゼルブラウンの瞳に穏やかな風貌で、茶色い長めの髪を後ろで一つにまとめている。控えめな笑顔が、落ち着いた大人の雰囲気を醸し出していた。侍女長のナタリーは、黒髪に白いものが混じる年配の女性で、貫禄のある体つきをした肝っ玉母さんのような雰囲気がある。ニコリと笑った時の目元の皺が相手に優しい印象を与えた。
「さぁさぁ、お疲れでしょう。浴室の準備ができております。もうすぐご昼食の用意が整いますので、お嬢様はお召し物のお着替えをいたしましょう。お部屋へご案内いたしますわ。」
ナタリーはニコリと笑って、彩綾を促すようにそっと腰に手を当てた。彩綾は戸惑いながらも、チラとウォルトの方を見てから、ナタリーの優しい手に押されて足を踏み出した。
「ああ、よろしく頼む。俺はこのまま執務室に行く。食堂には少し遅れて行くから先に食べててくれて構わない。リーク、執務室まで一緒に来てくれ。」
「畏まりました。」
そのままウォルトはリークを連れて回廊の奥へと消えていった。
彩綾はナタリーに促されるまま階段を上り、3階にある部屋へと通された。