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書斎の机に向かい、シェランドルから持ってきた仕事を片付けていた。
まだサーヤと顔を合わせる勇気が無く、昼食を書斎に運ばせた。食べながらでも仕事ができるように配慮してくれたのだろう。運ばれてきたのはサンドイッチだった。
出来立てのサンドイッチを頬張りながら、リークから届いた報告書に目を通していた時、ふと気になって視線を外した。
----キャスリーが何か関係しているのは間違いないだろう。確実に裏で糸を引いているヤツがいて、そいつに命令されているはずだ。だがそれよりも、なんでアイツまで…。
初めて会った時は俺のことを知ってる様子は無かった。だって、アイツと知り合ったのは本当に偶然だったからだ。じゃあ、途中から…?根っからの悪党なのか、それとも…。
どちらにせよ、サーヤに危険が及ぶ可能性がある以上、このままにしておくわけにはいかない。ただ、俺が後悔しないようにするには、どうするべきなのかだけはハッキリしていた。
国王陛下への手紙をはじめ、各所に送る書類を作成し終わる頃にはすっかり陽が傾き始めていた。後はこの書類を王宮にいる父上の元へ届け、王太子殿下にも内容を確認していただく。サインと印をいただければ、後は父上に任せておけばいいだろう。
書類をバッグに詰め込んで、肩を大きく回してから身支度を整えた。そろそろ馬車が待機しているはずだ。
俺は荷物を持って玄関へと向かうと、廊下の向こうにいる義姉上が目に入った。氷のような冷たい視線で射抜くように俺を見ている。やはり、ある程度はサーヤから聞いているようだが、このままここで立ち止まるわけにはいかない…
ガツンッ!!
突如目の前に現れた細い足の先を見ると、ヒールが壁に軽く食い込んでいた。俺にこれを喰らわすつもりだったのか?…なるほど、相当ご立腹のようだ。だが、何に怒っているのかは想像つくが、だからと言ってここまでされる謂れは無い。ただでさえ彼女に誤解されている上に、新たな疑惑まで起こっている状態なんだ。これ以上ややこしいことは勘弁してもらいたい。
義姉上と低温なやり取りを繰り返していると、突然声を潜めて呟くように言った。
「彼女は、新しい家族を作ることなく一生一人で生きていくかもしれないわ。」
*
馬車に乗り込み、窓の外を眺めながら義姉上の言葉を思い返していた。
----『事情はわからないけれど、彼女が心に傷を負う程の何かがあったようね。』
たった一人、サーヤの恋人だった男。彼女の全てを奪った男。それだけでは飽き足らず、心に爪痕を残して、未だに縛り続けているという事か。…どこのどいつだ、そんなふざけた真似しやがったのは。だがもしそれが原因で、彼女がそれ以来男を寄せ付けず、未婚でいてくれたのだとしたら…。クソッ…ムシャクシャする。
----『まぁ、今のあなたよりはマシな男性が現れるかもしれないものね。』
ハッ!俺よりマシな男だと?そんな男、掃いて捨てるほどいるだろうよ。俺はそんなご立派な男じゃない。ただ単に石を継承しただけの、その辺にいる男よりは格段にルックスが良くて頭も良い、地位も財産も若さもある普通の男だ。だが、彼女を全身全霊で愛せるのはこの世で俺以外にはいないんだよ。
----『戻ったら新しい家族を作って幸せに暮らすでしょう。俺も、そう願っています。』
嘘つけ!
----『彼女は、新しい家族を作ることなく一生一人で生きていくかもしれないわ。』
…この言葉だけは、胸に刺さった。
彼女が一生一人で生きていくだと?これから死ぬまで誰も愛さず、誰にも愛されずに?いや、彼女を愛する者は現れるかもしれない。だが、それを彼女が拒み続けて、あの細い身体で一人気丈に立ち続けるのだとしたら…。
誰が彼女を笑顔にするんだ?泣いている時、苦しい時、誰が彼女を抱き締めるんだよ?
----そんなもん、俺以外にいるわけないだろうが。
今日、全てを清算する。キャスリーともレイシー嬢とも決着を付けて、彼女を迎えに行くんだ。とにかく、これが済んだら後はスピード勝負だ。相手が動く前に先手を打たなければサーヤに危険が及ぶ。
俺は気を引き締めて、目の前の事に集中した。
*
馬車がグランテール伯爵家に到着すると、門番が馬車の紋章を見るなり畏まった態度で応対してきた。
門をくぐり、馬車に乗ったまま玄関へと向かう。玄関の前では使用人たちと共に、レイシー嬢本人が出迎えに出てくれていた。
馬車から降りながらその嬉しそうな表情を見ると、罪悪感に襲われる。俺は努めてにこやかに微笑みながら、レイシー嬢の元へと歩みを進めた。
「お久しぶりです、レイシー嬢。お会いする度に美しくなられていますね。」
「あ、いえ、そんな。お久しぶりです、ウォルター様。本日は起こしいただき、ありがとうございます。今日はお兄様も帰ってきておりますのよ。さ、どうぞ中へお入りください。」
頬を真っ赤に染め上げ、ウフフと微笑みながら家の中へと案内してくれた。応対室の扉を開けると、すでにフィグがソファに座って待っていた。ここに案内するよう、事前にレイシー嬢に伝えていたようだ。
部屋に入るなり、周りに気づかれないようにフィグとアイコンタクトを取った。
「やぁ、お久しぶりですね、ウォルター殿。お元気でおられましたか?」
「お久しぶりです、フィガロ殿。貴殿こそ、お元気そうで何よりです。」
互いに対外用の笑顔を貼りつけ、握手を交わした。これまでほんの数回こういった事をした事があるが、その後必ずマスターの酒場で互いにバカにしあって、笑いあっていたもんだ。だがそれも、今日で最後になるかもしれない。
フィグと対面になるようにソファに座ると、ティーセットを持った侍女が部屋に入ってきた。レイシー嬢は侍女を下がらせ自らお茶の用意をすると、俺の隣に座った。頬を染めたまま俯き、時々チラチラと俺の顔を覗き見ている。サーヤも、せめてこの一割でもいいから、いじらしさを見せてくれたら良いんだが…。
「レイシー、そんなにジロジロ見ていては、ウォルター殿が飲みにくいだろう。」
「や、やだっ!お兄様ったら、私そんなことしておりませんわ!」
もうっ!とさらに顔を真っ赤にしながら頬を膨らませ、そっぽを向いた隙にフィグと目を合わせた。フィグが小さく頷き、俺はカップを置く。できるだけ刺激しないように、慎重に話を進めなければならない。
「レイシー嬢、実は今日は他でもない。貴女に大事な話しがあって来たのです。」
「大事なお話ですか?」
レイシー嬢は振り向くと、キョトンとした顔で俺の方に向き直った。今日の為に精一杯お洒落したのだろう。ごく薄く施された化粧が、元々の愛らしい顔をさらに美しく引き立てていた。その瞳を真っ直ぐに見つめながら、俺は静かに口を開いた。
「はい。…貴女との縁談のお話ですが、白紙に戻していただきたいのです。」
「えっ…。」
レイシー嬢は大きな目を見開き、衝撃のあまり固まった。そのうちにみるみる瞳が涙で溢れ出し、唇がわななき出す。両手を口元にあてながら、小さな声で「どうして…」と表情が悲しみに崩れた。震える小さな肩には触れず、ただ俺の本当の気持ちを誠心誠意を込めて伝えようと思った。
「本当に申し訳ない…。決して貴女に何か落ち度があったわけではありません。本当です。むしろこれは私自身の問題で、自分の気持ちに嘘をついたまま貴女と結婚しても、私も貴女も幸せにはなれないと思いました。」
「本当の…気持ち…?」
涙で濡れた顔を上げて、俺を見つめてきた。彼女の真剣な想いに向き合いたい。だから、フィグも知らない話をすることにした。
「はい。私には12年前から想いを寄せている少女がいました。当時私はまだ子供で、自宅の庭先で高熱を出し、苦しんでいるところを助けてくれたのが彼女でした。でも彼女はその後すぐに姿を消してしまった。名前もわからず、どこにいるのかもわからない。夢だったのでは無いかとすら思いました。」
俺の突然の告白に、レイシー嬢だけでなく、フィグも初耳だという顔で聞き入っていた。
「もう二度と会えないのではと半ば諦めていました。それでも忘れることができず、記憶にある彼女の面影に似た女性を見る度に、胸が締め付けられました。…そうやって、この12年間を生きてきました。」
レイシー嬢の瞳からいつの間にか涙が止まり、それどころか気遣うような視線で俺を見つめながら「それで…?」と促してきた。気のせいか、少し前のめりになっている気がする。
「その彼女が、先日、私の前に現れたのです。12年経って大人になった彼女は、昔の面影をそのまま残していました。本当に信じられなかった…。まさかもう一度会えるなんて、こんな奇跡があるのかと、心から神に感謝しました。」
まぁっ!と口元に手をあてて、瞳を輝かせた。首を軽く左右に振ると、ごくごく小さな声で「何てこと…」と呟いている。その表情からは、すでに先ほどまでの悲壮感が消えていた。これは、もしかして…。
「ですが、彼女の方は私の事を覚えてはいませんでした。彼女は私と一瞬会った日の事を、幼い頃の夢だと思っているようなのです。私は彼女に本当の事を言おうかどうか迷いましたが…まだ伝えてはいません。」
「…それは、どうしてですか?」
覗き込むように聞いてくるレイシー嬢の瞳を逸らすように、目を伏せて続けた。やはり、間違いない。
「それを伝える時は、私の気持ちを伝える時だと思っているからです。12年間、彼女だけを想い続けていたと。ですが…今の私では、そうすることができません。」
目の前で小さく息を吸う音が聞こえた。顔を上げ、レイシー嬢の瞳を見つめながらもう一度伝えた。あともう一押しだ。
「私の自分勝手な理由であることは分かっています。とても罪深いことをしていると。それでも、貴女に許して貰いたい。レイシー嬢…こんな愚かな私は貴女には相応しくない。私との婚約を白紙に戻してはいただけませんか。」
フィグがこっそりと半目になって静かに溜息を吐いた。レイシー嬢は俯き、視線を彷徨わせながら顔の筋肉を強張らせている。どれぐらい時間が経ったのか、長い沈黙が永遠に続くような気さえし始めた頃、レイシー嬢が小さな声でポツリと呟いた。
「…どうしても、そのお方でなくてはなりませんの?たとえ、私が…ウォルター様のお心が、他の方のものでも構いません、と言っても…」
「レイシー嬢」
俺の目を見るように促し、しばらく見つめ合った。ここまで言ったら後は目で訴えるしかない。
貴族の婚姻が、決して個人の自由でできるものではないのは常識だ。もちろん俺もそうだった。ただ、サーヤじゃなければ誰でも良かったが、目の前に彼女がいる今となっては他の誰も要らないんだ。
本当なら、身分的にも口約束であるという点でも、一方的に白紙に戻すことはできる。だが、人の恋心はそんな事で諦められるもんじゃないことは、俺自身がよくわかっている事だ。そして、色恋事で禍根を残さないようにするには、互いに納得がいくようにしなければならない、という事も。
俺はこれ以上何も言う事はしなかった。レイシー嬢が、あくまで自分の意思で俺を諦めるようにしなければならない。他に好きな女がいるとまで言っておいて、相手に『諦めます』と言わせるなんて、間違いなくクズ以外の何者でもない。…うん、本当にやめておいた方がいいと思う。
ただ黙って、レイシー嬢を見つめた。俺からの熱のない眼差しを見て流石に察したのか、レイシー嬢は目を逸らして吐息を震わせた。しばらく俯いて呼吸を整えた後、決心したように顔を上げ、ニッコリと微笑みながら気丈に振舞った。
「…わかりました。ロマンス小説愛好家としましては、このような素敵なロマンスを応援しないわけには参りませんわ。」
「!それじゃあ…!」
「はい。ウォルター様のお気持ちは、よくわかりました。大切な思い出を私などにお話しして下さったこと…真剣に向き合って下さって本当に嬉しく思いますわ。私にはそれだけで十分です。」
そう言うと、俺の手を取り両手で握り締めた。
「絶対に、幸せになって下さいませね。」




