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扉を開けると、昼間に会った女が立っていた。一階からは酔っぱらいの笑い声や女の嬌声が聞こえてくる。今日も繁盛しているようだ。
一階の明かりをぼんやりと受けた廊下に佇んでいる女と目が合った。上目遣いに首を傾げながら唇を濡らし、胸元を大きく開けて豊満さを強調している。薄暗闇に白い顔を浮かび上がらせて、喰らいついてくれと言わんばかりに細い首筋を露わにしていた。女が一人で男の部屋に来る理由は一つしかない。
「ねぇ、今夜は泊まるんでしょう?朝までたっぷり時間があるわ…」
女が俺の首に腕を回して胸を押し付けるように抱きついてきた。女の香りを漂わせながら頬を擦りつけるように首元に唇を寄せる。その時、咄嗟に昼間のキスマーク事件を思い出した。
このまま当然のように部屋に入ろうとする女の両肩を反射的に押しのけ、廊下へと追い出した。
「ちょ、ちょっと!何すんのよ!」
信じられない、といった顔で俺を睨んでくる。自分に絶対の自信があっただろうから、まさか据え膳を突き返されるとは思ってもみなかったんだろうな。確かに以前の俺ならこのままさっさと連れ込んで抱いてしまうところだが、今はもうそんな気も起らない。そもそも、彼女以外の女には全く興味すら沸かない。不思議なもんだな。
「何しに来たのか知らんが、勝手に入ろうとするな。」
「何しにって…、何よ今さら。今まで何度もしてきたじゃない!」
「悪いが、もう誰ともするつもりは無い。もちろんお前ともだ。わかったらさっさと帰れ。」
扉を閉めようと一歩下がった時、女が低い声で追いかけてきた。
「…もしかして、昼間のあの女が原因なの?まさか、あんなおばさんに本気だなんて言うんじゃないでしょうね!?」
大きな目を見開き、わなわなと唇を震わせながら声を荒げた。長い栗色の髪が振り乱れるのを見ながら、結局これしか覚えてない自分の下種さ加減に自嘲した。
サーヤと会った後にこの女を見ても、何も感じない。それどころか、馴れ馴れしく触れようとしてくる生意気な態度に、嫌悪すら感じる。その上、まだ彼女を侮辱するっていうのか。俺は無意識に射殺すような視線で女を見下ろしていた。
「何よ!本当に、私よりあんな年増女の方が良いって言うわけ!?」
頭に血が上って俺の視線に気が付かないのか、女が鼻で笑いながら続けた。
「ったく、何が良かったの?男を喜ばすテクニック?それともどんなプレイでも受け入れてくれる従順さかしら?伊達に歳は食ってないってことね!若い男を繋ぎとめる為なら何だって…」
ドガッ!!
ヒュッと喉が鳴る音が聞こえた。沸き起った怒りに任せて扉を殴りながら、相手は女だと自分に言い聞かせて歯を食いしばった。何とか堪えて女を睨みつけると、身体を強張らせる様に縮こまっている姿が目に入った。もう視界に入れる事すら鬱陶しい。
「…帰れ。二度と俺に近付くんじゃねぇ。次は女でも容赦しない。わかったか?」
さっきまでの威勢がすっかり消え失せ、震える手でドレスの胸元をかき寄せながら視線を彷徨わせていた。小さく頷くと、「わかったわよ」と呟きながら一階へと走って降りて行った。
その後ろ姿を見届けた後、扉に鍵をかけて椅子にドカリと座って手足をだらりと投げ出す。目を閉じると、自然に笑いが込み上げてきた。
----馬鹿だなぁ、俺は…。
*
前日の夜なかなか寝付けなかったせいか、起きるのが遅くなってしまった。ノロノロとベッドから起き上がり身支度を整えた後、代金を置いて店を出た。外は朝の肌寒さを感じない程、陽が高くなっている。
広場の馬宿に預けていた馬を引き取り、そのまま馬に跨って街を出た。街から屋敷まではそう離れてはいないが、頭を切り替えるには十分な距離だった。とにかく、もう一度あの告白をやり直さねぇとな。その為には、まだまだやらなきゃいけない事がある。
----待っていてくれ。必ず、お前を迎えに行く。
屋敷の門を通り抜け、繋ぎ場に向かった。馬から降りて馬番に馬を預けて玄関に向かおうと振り向いた時、視界の先にサーヤの姿が目に入った。笑いながら子供たちを屋敷の中に入れている。きっと、さっきまで庭で遊んでいたんだろうな。唐突に、昨夜女が言っていた『テクニック』だの『プレイを受け入れる』だのが思い起こされ、噴き出してしまった。
----あれのどこをどう見たら、そんなこと想像できるんだよ。
どことなく胸がスッと軽くなり、俺は自然と肩の力が抜けている事に気が付いた。彼女が傍にいてくれたら、ずっとこんな風でいられるんだろう。もう彼女無しでは生きていけない。絶対に、手に入れてみせる。
サーヤのいる玄関に向かって歩き出すと、彼女も俺に気が付いた。俺を見ていると意識するだけで胸が高鳴った。なんとか平静を保とうと、顔中の筋肉に力を込める。そうでもしないと昨日マスターに言われたように、デレデレしてしまいそうだからだ。これからやり直そうという時に、そんな顔で近付いて引かれでもしたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。
気が付くとサーヤの目の前まで歩き進んでいた。俺は慌てて足を止め、彼女に向き直った。上目遣いで俺を見つめる瞳と目が合い、今度こそ息が止まるかと思った。思わず「好きだ」と言ってしまいそうになる。
「昨日は途中で帰って悪かったな。」
「え?あ、ううん別に…」
「それから、昨日俺が言ったことは無かったことにしてくれ。忘れてほしい。」
ポカンとした彼女の顔が直視できない。声を聞いただけで、自分を抑えるのが大変なんだ。これ以上顔を見続けたら確実に顔中の筋肉が解放されてしまうのは目に見えている。俺は急ぎ足で屋敷の中へと入り、自室へと駆け込んだ。
----よし、堪えた!俺、頑張った!
椅子に座って呼吸を整えながら、自分で自分を褒めてやりたかった。いや、それどころじゃない。すぐに王宮へ向かわなければ…。
昨日から着たままの服を脱ぎ棄て、クローゼットから新しい服を出した。今は身体を清める時間すら惜しい。さっさと着替えて身支度を整え、再び馬に乗って王宮へと出かけた。
王宮の門をくぐり繋ぎ場へと向かうと、馬番に馬を預けて受付番のいる入り口へと足を運んだ。受付に立っていた兵は俺の顔を見るなり「お久しぶりです」と敬礼し、中へと通してくれた。さらに奥に進み、王宮の本殿の手前にある受付所の兵士に声をかけた。
「ちょっといいか。俺は、モンドール・クレイス侯爵の息子、ウォルター・クレイスだ。父と、それから俺の兄、近衛騎士団副団長のチェスター・クレイスに取り次いでもらえるだろうか。急用の為、少しでいいので時間が欲しいと伝えてくれ。」
「しょ、承知いたしました!すぐに伝えて参りますので、少々お待ちください!」
俺の身分証と取り次ぐ相手を知って、兵士は途端に慌てふためいた。受付所にいた他の兵士たちにしばしの留守を伝えると、走って本殿の中へと消えて行った。
しばらく経って戻ってきた兵士に案内され、本殿の奥にある部屋へと通された。部屋にしては狭いが、その分扉が厚めに造られており話し声が外に漏れないようにしてあるようだ。きっと、父上の指示だろうな。
すぐに参られるそうです、と言って兵士は持ち場へと戻っていった。部屋のソファに座って今後の事を考えていると、扉をノックする音がした。返事をすると、入ってきたのはチェスター兄上だった。
「やぁ、ウォルト。待たせてすまないね。」
「いえ、こちらこそ突然やってきて申し訳ありません、兄上。」
「父上は、国王陛下に書類を届けたらすぐにこちらに来られるそうだよ。」
ソファに座って背伸びをしたあと、身体を起こして興味深々な目で俺を見た。まさか…
「ところで、昨日はサーヤさんと街に出かけたんだろう?どうだった?楽しめたか?」
やっぱり来た…。嬉しそうな兄上の顔が胃を締め付けるようだ。「えぇ、まぁ…」と複雑な返事を返すと、訝しんだ目で俺を見つめた。やめてくれ、そんな目で俺を見ないでくれ。
ここにいるのがシューゼル兄上なら、きっとあった事を全て話していただろう。だが、チェスター兄上にはできない。もちろん信用していないからじゃない。この根っからの真面目で曲がったことが大嫌いなチェスター兄上にだけは、ガッカリされたくないんだ。
無言でジロジロと俺を見咎める視線に冷や汗を流しながら、なんとかデートの内容を伝えた。楽しかったのは事実だし、余計な事さえ言わなければ嘘を吐いたことにはならないからな。
馬車に乗って屋敷に戻った、という辺りで、兄上が「ん?お前…」と何かを言いかけた。扉をノックする音がしたと同時に扉へと振り向きソファから立ち上がると、父上が入ってきた。案内してきた兵士と時間の確認をすると、兵士を下がらせソファに座る。それに合わせて、俺たちも座り直した。
「遅くなってすまなかったな。あまり時間がないんだ、用件だけ聞こう。」
「お忙しいところ申し訳ありません、父上。早速ですが、グランテール伯爵家の御息女レイシー嬢との婚約を白紙に戻していただきたいと思います。」
「…ほう。」
俺の発言に、二人ともピクリと眉が動いた。レイシー嬢との婚約を白紙に戻す、それはつまりあの男を刺激することになる。一気に緊張感が場を支配し、父上が鋭い眼差しを向けてきた。
「それを切り出すことは、いずれサーヤさんを更に危険にさらす事になる。それは、承知の上か?」
「はい。むしろ、この機会しかないと思っています。以前、父上に手紙で報告した内容についてですが、相手は本物の碧い石の巫女であるサーヤがこちらの世界に来たことを知っていると思っていいでしょう。そして彼女が今我々の保護下にあることも。」
チェスター兄上が険しい顔をしながら腕を組んでソファにもたれた。サーヤがこの世界に来た日、俺とほぼ同じ頃に森に向かった集団がいたことを思い出しているのだろう。
「もしかしたら、彼女がクレイス家の血を引いている事も知っているかもしれません。そうだとしたら、確実に彼女を狙うでしょう。どちらにせよ今後も狙ってくるのなら早いうちに叩いた方が良いですし、こうなった以上私たちの関係はただの足枷になってしまう。ただレイシー嬢には何も罪はありませんから、結婚適齢期を迎えた今、この足枷から解放して差し上げたいと思っています。」
父上はしばらく俺を見据えると、大きく溜息を吐いてチェスター兄上の方を向いた。
「チェスター、近いうちに国内外が荒れるかもしれん。いつ戦が起こっても応戦できるよう準備をしておけ。各団長には私から書類で指示を出しておく。」
「はい、承知いたしました。ウォルト、国境付近の警備はどんな様子だ?」
「以前少数部族の息がかかった集団との衝突以来、警備を強化してあります。ただ、戦になれば前線となる広大なシェランドル領内の各要所を強化する為の兵や物資が足りません。明日にでも兵と物資を要請する書類を作成する予定です。」
父上は俺の言葉に頷くと、ふと何かに気が付いたように俺を見た。もう勘弁してくれ…。
「ところでウォルト、昨日はサーヤさんと出かけたんだろう?楽しかったか?」
楽しかったか?のところが少し語気が強いように感じたのは気のせいだろうか。今までは興味本位での質問だったが、父上だけは顔には出さないが明らかに羨ましそうにしている。質問というより尋問だ。
「はい。幸い天気にも恵まれましたし、彼女も街が珍しいのか楽しそうでした。今度は父上もご一緒にお出かけされてはいかがでしょうか。きっと彼女も喜びますよ。」
それは良かった、と珍しく目を細めて返事をした父上を見て、改めて娘の威力って凄いもんだなと感心した。仕事に戻る時間になったのか、父上は立ち上がり扉に向かうと、扉の前で足を止めて言った。
「ウォルト、レイシー嬢との婚約白紙の件はお前に任せる。元々が口約束なのだから、正式な手続きも不要だ。それから…」
チラと俺を見下ろす父上に、俺は他に何かあるのだろうかと姿勢を正した。
「余計な事かもしれんが、気を付けないと痛い目をみるぞ。」
そう言ってそのまま部屋を出て行く父上の背中を見ながらポカンとしていると、扉が閉まるのと同時にチェスター兄上が噴き出した。何の事だ?何がそんなに可笑しいんだよ?俺が扉と兄上を交互に見ていると、クツクツと笑いながら兄上も仕事に戻るために立ち上がった。
「はー、父上には参ったなぁ。」
「あの…、何がそんなに可笑しいのですか?」
さっぱり訳が分からないでいると、兄上が呆れた顔をしながら俺の首元を指で突いて言った。
「お前、女物の香水の匂いがプンプンしてるぞ。」




