29
巫女殿の、これまで一度も見た事のない氷のような眼差し。
当然だ…。俺が彼女にしている事は、女としての幸せを全て犠牲にしてくれと言っているのと同じ事なんだから。それも、俺自身の為だけに。だからこそ目を逸らしてはいけないと、俺は一切を隠さずに伝えようと思った。
「…そうだ。最初に『これは俺の我儘だ』と言ったのは、俺が完全に自分の事しか考えていないことを、重々承知しているからだ。…最低な事を言っているのはわかっている。俺がここに来てからずっと、俺を支えてくれた恩人である巫女殿に対して、こんな…侮辱以外の何物でもないような事を要求するなどあってはならない事だ。わかってはいるんだ。…でも…、それでも…。」
声が震えた。恩人に牙を剥くのがこんなにも自身の精神を抉るものかと、強烈に身に染みる。だが、やめるわけにはいかないんだ。どんなに恨まれようと、どんなに罰を受けようと、これだけは俺が身に刻まなきゃいけないもんなんだ。
「俺は、彼女を諦める事だけはできない。…やっと会えた女性なんだ。ずっと、ずっと…もう二度と会えないと諦めていた。あなたにとっては、何も関係の無い事だとわかっている。それでもどうにもならないのなら、俺は琥珀色の石も碧い石も破壊して…一人の男と女として、彼女を妻に迎えたいと思っている。本当に…彼女じゃなきゃダメなんだよ…。」
「…。」
彼女の目を真っ直ぐに見つめ、ソファから降りて床に膝をついた。今の俺にはこうして頭を下げることしかできない。それでも、今この場で巫女殿に最大限の敬意を示すにはプライドなど邪魔でしかない。
「本当に…巫女殿には申し訳ないことを言っているとわかっている。どうか、このまま巫女としてのお役目を…引き受けてはもらえないだろうか…。この通りだ…。」
頭を下げ、床に面したまま目を瞑った。膝に置いた手が震え、呼吸がわなないた。
こんな沈黙の中でも頭に浮かぶのはサーヤの顔ばかりだ。彼女を手に入れる為なら、彼女を失う事の恐怖に比べたら、なんだってできた。
どれくらいの時間が経ったかわからないが、沈黙の長さが徐々に焦燥感を募らせた。呼吸が詰まり、下げた頭と両肩に、彼女からの視線が重くのしかかっているようだった。
----やはり、ダメか…。
絶望に落ちたその時だった。
「ふふっ、やっと正直に本音を言いましたね。」
俺の頭上で、巫女殿の微かな笑い声が聞こえた。俺が呆然として顔を上げると、目の前には俺に微笑みかけている巫女殿の顔があった。
何が起こったのかわからない。どういう事だ?彼女は怒っていたんじゃなかったのか?困惑のあまり視線が定まらない俺の様子を、クスクスと笑いながら興味深そうに眺めた後、一つ深呼吸をした。
「よくお話しして下さいましたね。ウォルター様のお気持ちは、よくわかりました。」
「な…、それじゃあ…。」
巫女殿は小さく頷くと、姿勢を正してニコリと笑った。
「はい。サーヤ様には至らぬかと存じますが、巫女としてのお役目は、今後私がお引き受けいたします。」
光が差したような感覚に、俺は思わず涙が溢れた。緊張で強張っていた全身の力が抜け落ち、床にへたり込みながら巫女殿の顔を見上げた。彼女の許しを与えるような微笑みが、俺にはありがたくて、申し訳なくて、情けなくて、いろんな感情が押し寄せて…ただひたすら流れる涙が止まらなかった。
「本当に…いいのか?ずっと、この宮殿の中で暮らしていくことになるんだぞ?嫁ぐことも、家庭を持つことも、女としての幸せ求めることができなくなるんだ。本当に…。」
「はいっ!そこまでっっ!!」
本気で心臓が止まるかと思った。
俺が言い終わる前に、巫女殿は片手を前に突き出して大声で止めた。
止めたいのは俺の言葉なのか心臓なのかわからないが、しばらくそのままの体勢でピタリと止まった後、ゆっくりとソファに座り直した。
やれやれ、と菓子を食べながらお茶を飲み、俺にも座るように促したのでそれに従った。バクバクと鳴りっぱなしだった心臓を落ち着かせるために、俺も残りのお茶を飲み干した。
互いに「ふぅ」と落ち着くと、俺はハタと我に返った。落ち着いて飲んでる場合じゃない。
「巫女殿、先ほどの話だが…。」
「はい。そのことについてですが、実は前々からこうなるのではないかと、とっくに心構えはできておりました。」
「は?なんだって?どういう事だ!?」
狐に摘ままれたような気分だった。とっくに心構えができているなら、なんであんなゴミを見るような目で俺を見たんだ?いや、確かにそれだけの事をしたという自覚はあるが、受け取る方にすでにその気があったなら必要ない視線じゃないのか?
なんだろう…悪いのは俺だが、無性にモヤモヤする。
「はい。まず第一に、遠い昔に琥珀の一族が消えてからウォルター様が現れるまでに130年程の間がありました。ですから、巫女様がいつお戻りになるのかわからない以上、私もクレイス侯爵様の一族と同じような運命を辿ることになると覚悟をしておりました。」
「そして第二に、12年前のあの日、サーヤ様が一瞬こちらに来られましたよね?その時、ウォルター様と運命的な出会いがありました。一度こちらに現れたという事は、再び現れるかもしれない。いえ、確信はありませんが、もしかしたら私が呼べるかもしれないと思いました。ほんの一瞬で幼い頃のあなた様は彼女に恋をし、今までずっと想い続けていらした。ですから、もし彼女が再び現れたその時にまだウォルター様のお気持ちが変わっていなければ…妻にと望まれるのならば、僭越ながら私が巫女のお役目をお引き受けしようと思っておりました。」
「そんな…。どうして、あなたがそこまで…。」
俺は巫女殿の申し出に、どう返していいのかわからなかった。だとすれば、巫女殿は随分昔から巫女としての一生を負う覚悟をしていたという事になる。
二人が16歳の頃に、サーヤは一瞬だけ現れた。ただそれだけの事で、再び彼女が戻ってくる可能性を信じてくれた。子を身籠る時期だったはずの18歳を過ぎても巫女殿は子種を受けずにギリギリまで待っていてくれたんだ。
どうしてそこまでしてくれるんだ?もし彼女が帰って来なかったら、どうするつもりだったんだ?たかが子供の初恋じゃないか。それを真に受けて12年も待ち続けるなんて…。
なんてお人好しだ、と思ったところでハッとした。そうだ、12年も思い続けていた俺自身がその気持ちを否定してどうするんだよ。巫女殿は俺の気持ちを、俺と一緒に信じてくれていたんじゃないか。俺が本当に諦めるまで、ずっと待っていてくれたんだ。
そう思った時、彼女への感謝の気持ちが溢れた。俺は、なんて幸せ者…
「そして第三に、私が巫女であり続けることを心底望んでいるということです。」
「…は?」
溢れそうになった気持ちが一気に凪いだ。唖然として彼女を見つめると、彼女はシレッとした顔で続けた。
「だって、考えてみてください。私は赤子の頃からこの宮殿で暮らしているんですよ?確かに私は頭も天才的で、器量も良いですが、恐ろしいほど筋金入りの世間知らずなんです。そんな状態で28年もこの宮殿で生きてきた私が、いきなり世俗に出てどこかに嫁ぎ、家庭を持って子を産んで。嫁姑、親戚縁者、社交界のドンパチ、女同士のマウントの取り合い。やっていける訳がありません。考えただけで寒気がします。」
スルスルと流れるように出てくる言葉には、いかに巫女殿が常々悩んでいたかがわかる程切羽詰まるものを感じた。
「それに、このご時世で何不自由なく生活ができて、毎日おいしいご飯が食べられるなんて、最高に恵まれていることなんですよ。家庭を持たず、殿方の面倒な世話もしないで済むのに子は持てるなんて、最高じゃないですか。仕事以外は面倒臭がりな私にとって、これ以上の好条件はありませんよ!」
「ちょっと待て。」
頭が痛くなってきた。じゃあ何か?コイツ----もうコイツでいい----は最初から巫女でいる気満々だったって事か?だったらさっきの氷のような眼はなんだ。眠たかったのか?俺を自分勝手だと責めた言葉はなんだ。ブーメランか?俺の流した涙はなんだ。そんなもん知るか!!
沸々と怒りが込み上げ、ついさっきまでの己の行動を心底後悔した。
巫女ってやつは、どいつもこいつも本当に碌なもんじゃねぇ。なんでこんなやつばっかりなんだよ!よくよく聞いたら、サーヤもレティーナも、全く同じ理由で『自分の生まれ育った環境を変えたくないんだもん』って口を尖らせてプイってしてんだろ?なんだ?歳を取ったらそんな些細な事すら億劫になるもんなのか?コイツ等本当に…
----何が見た目は正反対だ。中身はどっちも大差無ぇじゃねーか!
それでも今後巫女として俺の石を浄化してもらうことになるのなら、関係は良好でなければならない。胸にモヤモヤしたものがくっきりと残ったままだが、とりあえず一番の懸念事項だった問題が片付いて胸をなでおろした。さて、次は…
「まぁ、それにしても本当に良かったですね。」
なんだ急に、と巫女殿の方に視線をやると、穏やかな表情で話し始めた。
「ウォルター様、琥珀の一族と碧の一族が共存はしても交わることができない事は、ご存知でしたか?」
「いや、つい昨日父上から聞いたばかりだ。チェスター兄上はご存知だったようだが、シューゼル兄上は知らなかったようだ。」
「ふふ、ではやはり、クレイス侯爵様もご希望を持たれていたという事ですわね。」
「どういう事だ?」
訝しげに巫女殿を見つめると、何が可笑しいのかクスクスと笑いながら言った。
「ウォルター様は23歳ですよね。今まで、クレイス侯爵様から縁談のお話はありましたか?」
「縁談?…いや、そういえば、彼女はちょっと訳ありで仮婚約者という事になってはいるが非公開のものだし、父上や母上から正式に縁談の話をされた事は一度も無いな。それがどうかしたのか?」
「独身主義のシューゼル様にも過去にいくつも縁談のお話がありましたのに、ウォルター様には一度も無かったのは、なぜだとお思いですか?」
「なぜって?…。まさか…。」
俺は昨夜の事を思い出した。琥珀色の石の一族には男児のみが、碧い石の一族には女児のみが産まれる。故に、これら二つの一族は決して交わる事は無かったというものだ。俺はこの事実を知った時愕然としたんだが、なぜ父上がこの事を教えて下さらなかったのか、今やっとわかった。
----父上は、サーヤが再び現れることを信じておられたのか。そして、その時は俺と添い遂げられるようにと…俺が先に事実を知って絶望しないようにと…。
もちろん、これは賭けだ。現れない可能性の方が高いし、現れたとしても何年後、何十年後なのか、その時サーヤは独身なのか、恋人がいるのかいないのか、そもそも生きているのかすらもわからない。
巫女殿は微かな碧い石の気配を感知することはできても、その持ち主の安否まではわからない。そもそも存在する世界が違うのだから、気配を感知できるだけでも相当な能力の持ち主にしかできない。
「12年前にサーヤ様が一瞬こちらに現れた日の数日後、クレイス侯爵様は私の元へおいでになられました。その時に、申されたのです。」
巫女殿は俺の目を見つめて、目を細めて言った。
「『碧い石の巫女が再び現れるかもしれない。それがいつになるのか、それとも二度と現れないのか、何もわからないが、巫女殿が30歳になるまで待ってもらえないだろうか』と。30歳と言えば、当時16歳だった私にはほぼ倍の歳です。さすがに驚きましたわ。私がその歳まで生きていられるのか、子が産めるのか、本当に何も確信できるもののない申し出でしたもの。さすがのクレイス侯爵様も、先ほどのウォルター様のように全身全霊をかけて懇願なさってましたよ。」
----そうか、それで興味深そうに見てたんだな。…性格の良いこった。
「私が30歳になっても巫女様が現れなかったその時は、私は取り換え子の巫女として子種を受けて次代へと引き継ぎ、ウォルター様には縁談をと仰っておられました。ただ、やはり碧い石無くして琥珀色の石を浄化するには限界がありましたので、そこに一番お心を砕いておられましたわ。」
それもそうだ、と思った。もしサーヤが現れず、碧い石が無いままなら、いずれ俺の石は浄化しきれずに穢れの一途を辿ることになる。レティーナほどの巫女が今後も続くとも限らない上に、彼女の力でも俺の代ですでに浄化が難しい状態なんだ。俺の息子、そのまた息子まで琥珀色の石が使えるのかどうかもわからないし、使えたとしても身体への負担は相当なものになる。使えないまま、一族の血だけが何十年、何百年も存続するという事にもなるんじゃないか?
----それこそ、俺がここに来たように碧い石の継承者が石を持ってこの世界に現れるまでは…。
その時俺は、唐突に巫女殿の言葉を思い出し目を見開いた。彼女は確かに言ったんだ。
----『もしかしたら私が呼べるかもしれない』




