23
彩綾が自室に籠った日の夕方、ウォルトは仕事を片付け書斎から出て身支度を整えて出かけようとしていた。
屋敷の玄関前に馬車を待機させ、荷物を持って玄関に続く廊下を歩いていると、セレリーナが静かに佇んでいた。氷のような眼差しでウォルトを射抜くように見据えている。ウォルトは一瞬立ち止まったが、再び歩き出して義姉と目を合わさないように横を通り過ぎようとした。
ガツンッ!!
ウォルトが通り過ぎようとした瞬間、セレリーナが真っ直ぐに前を見据えたまま片足を上げて廊下の壁にヒールを叩きつけた。ウォルトは硬直したまま叩きつけられた壁を見ると、ヒール部分が当たった箇所が少し抉れていて背筋が凍る思いをした。
そのまま義姉の方へと視線を移すと、セレリーナが凍土のような表情でウォルトを睨み据えている。しばらく睨み合ったまま、セレリーナは表情を崩すことなく口を開いた。
「あらごめんなさいね、ウォルト。足が滑ってしまいましたの。」
「それはそれは、侯爵家の廊下が足を滑らすほど危険だったとは気が付きませんでした。皆の安全の為にもこの廊下に絨毯を敷いた職人を問い詰めた上、解雇する必要がありそうですね。」
失礼、とウォルトが行こうとする背中に向けて、セレリーナは言葉を刺した。
「随分、自分勝手な振る舞いが身に付いてきたじゃないの。自分の事しか考えないのは、さすがは末弟という所かしら?愛する女を平気で泣かせるほどの傲慢さに気付きもしないなんて、素晴らしい領主様ね。」
「侮辱を受ける謂れはありませんよ、義姉上。それに、どこまでご存じかはわかりませんが、俺は彼女の意思を尊重したまで。非難される覚えはありません。」
ウォルトがピタリと足を止め、振り向かずに言葉を返した。空気がピリリと引き攣りだし、セレリーナは呆れたような口調で続けた。
「まぁ!彼女の意思を尊重した?どの辺りでそう思ったのか、せひ教えていただきたいわ?」
「義姉上に話す事ではありません。時間がありませんので、もうよろしいでしょうか。」
頑なに態度を崩さないウォルトに、セレリーナは逆にウォルトを追い越しざまに顔を見ないまま言った。
「あなたがなぜ彼女に振られたのかが分かったわ。そうそう、彼女、あなたに碧い石を渡して元の世界に戻りたいとおっしゃっていたわね。」
「えぇ、そこでの生活が彼女の全てだと言っていましたから。戻ったら新しい家族を作って幸せに暮らすでしょう。俺も、そう願っています。」
セレリーナはウォルトに向き直り、じっと見つめ声を潜めた。
「彼女は、新しい家族を作ることなく一生一人で生きていくかもしれないわ。」
「…どういう事ですか?」
ウォルトが訝しげに聞き返すと、セレリーナはウォルトを見つめたまま答えた。
「彼女が、一度お付き合いしていた方がいらしたのは知っているわね?事情はわからないけれど、彼女が心に傷を負う程の何かがあったようね。そして、あなたがそれを抉った。きっと、その方とあなたが重なったのね。先ほどの彼女が取り乱す声は聞こえてこなかったかしら?そんな彼女が、元の世界に戻って…まぁ、今のあなたよりはマシな男性が現れるかもしれないものね。余計なお世話でしたわ、ごめんあそばせ。」
セレリーナが踵を返すと、ウォルトも馬車へと向かった。
馬車に乗り込み、窓から外を眺めながらこれからしようとしていることに意識を集中させる。それでも、セレリーナの放った言葉がウォルトの頭から離れなかった。
----『彼女は、新しい家族を作ることなく一生一人で生きていくかもしれないわ。』
彩綾が気丈に一人で立っている後ろ姿が頭に浮かんでは、胸を締め付けられるような痛みが走る。泣いている肩を抱き寄せる者がいない姿に、苦しんでいる時に誰も傍にいない姿に、頭がおかしくなりそうだった。無意識に呼吸が震えた。
ウォルトは窓枠に肘を置き、片手で額を支えながらなんとか落ち着かせようとした。
----とにかく今は集中しろ。これから彼女と会って話をするんだ。しくじるわけにはいかない。
ウォルトは目を閉じて、シェランドルの城を発つ時のふわりと笑う彩綾の顔を思い浮かべた。
*
遠くで大きな音がして、彩綾は目が覚めた。それでも身体を起こさないまま、ゴロリと反転して天井を向いた。瞼が重くて、目の周りがヒリヒリと痛んだ。
----あんなに泣いたのは、いつ振りだろう。
彩綾は両目の周りを指で優しくマッサージしながら、昔の事を思い出していた。
彩綾がまだ19歳だった頃。保育士の資格を取るために専門学校に入って約1年が経った頃だった。授業で本格的な実習が始まる頃、期間限定の特別講師として学生の指導に当たったのが彼だった。
倉敷祐輔、彩綾より5歳年上で当時24歳。優しい顔と爽やかな振る舞い、親しみやすい話し方でいつも学生に囲まれていた。
某有名大学教育学部の大学院生だった倉敷は、週に2度専門学校で実習指導をしていた。講師といっても学生たちと歳が近いせいか、授業の外では学生同士が楽しそうに話しているような雰囲気だった。
今日も囲まれてるな、と彩綾が何げなく横目に見ながら通り過ぎようとした時に倉敷と目が合った。一瞬、二人の間の空気が止まったような感覚に居心地の悪さを感じ、彩綾は咄嗟に目を反らせてその場から逃げた。
それ以来、彩綾は倉敷とよく目が合うようになった。なんとなく視線を感じた方に目をやると、倉敷が彩綾の方を見ている事が多くなった。
倉敷との距離が一気に近くなったのは、それから3か月経って学年が上がってからすぐの事だった。
倉敷の講義期間が終わり、有志が集まって送別会という名の飲み会があり途中から席が隣同士になった。もちろん倉敷が彩綾に近付く為だったが、元々お酒が飲めない彩綾は飲み会自体参加をしないので、男がわざわざ隣の席に座りに来る事の意味を知らなかった。
お開きになって、彩綾は二次会には参加せずに帰ろうと皆に挨拶をして一人歩き出した。しばらく歩いていると後ろから声をかけられたので振り返ると、倉敷が走って追いかけてきた。倉敷は彩綾の前で立ち止まり、息を切らせながらニッコリ笑って彩綾に水色の水玉模様のハンカチを渡した。彩綾が店にハンカチを忘れてしまい、それを届けにきたという事だった。
彩綾がお礼を言うと、倉敷はじっと見つめたまま連絡先を交換してくれないかと言った。彩綾も断る理由が見つからないまま交換すると、次の日から倉敷からの連絡がよくくるようになった。最初は他愛のないやり取りだったのが、食事に誘われるようになり、休日に出かけるようになった。今までクラスメイトとしての知り合い程度の男性としか関わってこなかった彩綾にとって、倉敷とのやり取りは彼を意識をするには十分な距離だった。
彩綾が20歳になった日の夕方、彩綾は倉敷から夕食に誘われた。お洒落なイタリアンレストランで20歳になったお祝いに甘口の赤ワインで乾杯した。初めてのお酒に浮かれつつ食事をしながら会話を楽しみ、店を出た。
少し遠回りをしながら駅に向かって並んで歩いていると小さな公園があった。倉敷は立ち止まると、彩綾の手を取って公園へと入っていき、彩綾をベンチに座らせた。そのまま彩綾の前に跪くようにして目線を合わせ付き合ってほしいと告白した。
彩綾はドラマのような告白に舞い上がった。嬉しくて、恥ずかしくて、顔を真っ赤にしながらコクンと頷き返事をした。彩綾の返事に倉敷はガッツポーズで喜び、そしてその夜、ファーストキスをした。
それからは夢のような毎日だった。好きな人が自分の事を好きでいてくれるという幸せを初めて知った。二人でいると、見るもの感じるものすべてがキラキラと輝いて見えた。
でも、そんな幸せは長くは続かなかった。
彩綾は卒業と保育士資格の取得に向けて実習科目が増え、平日はほぼ家事と実習、休日はレポートとアルバイトに追われた。ちょうどその頃から彩綾の母の体調に僅かな異変が起こり始め、時間があれば横になって身体を休めていた。なかなか会えない寂しさも、倉敷との連絡のやり取りで乗り越えようとしていた。
ある日、午後からの実習が急遽変更になり時間が空いた彩綾は、高倉に『久しぶりにゆっくり会いたい』とメッセージを送った。ドキドキしながら待っていても、なかなか既読が付かなかった。
街をぶらぶらしながらとうとう駅近くまで来てしまい、そのまま倉敷の住むマンションに向かった。『今から家に向かってもいいかな』と事前にメッセージを送ったが、既読にならず返事が来ない。彩綾は幼い頃に倒れた父の事を思い出し、真っ青になって部屋へと駆けつけた。
ドアホンを鳴らすが、返事が無い。何度鳴らしても返事が無く、彩綾はいよいよ怖くなった。心臓がドクドクと早鐘を打ち、手足が冷たくなるのを感じた。思い切って大声でドアを叩こうとしたその時、ガチャリと扉が開くと見知らぬ女性が立っていた。
一瞬、部屋を間違えたのかと固まっていると、その女性の「誰?」という一言にハッと我に返った。すみません、と言おうとしたと同時に目を見張った。その女性の着ているシャツに見覚えがあり、倉敷が彩綾に告白した日に着ていたものと同じものだった。彩綾は嫌な予感でふらつきそうになる直前に、再び「誰?」と言う男の声で顔を上げた。
倉敷と目が合い、彩綾は今度こそ息が止まるかと思う程の衝撃を受けた。倉敷が上半身裸のスウェットパンツ姿で出てきたのだ。凍り付いたような空気の中、間に立っていた女性が口を開いた。
「もしかして、前に私たちが言ってた子って、この子のこと?」
----私たちが言ってた子…?
彩綾は、彼女が何を言っているのか分からなかった。思考回路が停止したまま、ただただ呆然と立ち尽くしていると、彼女は二人を交互に見ながら追い打ちをかけるように言い続けた。
「ねぇ、あんたたち付き合ってるの?なんだ、落とせたんなら教えてくれたら良かったのに。ごめんねー、この人があなたを落とせるかどうか、友達と賭けをしてたのよ。私は落とせるほうに賭けてたんだけど、この人何も言ってこないからまだ途中なのか振られたのかモヤモヤしてたの。時間かかり過ぎだろって。」
女性は玄関の壁にもたれながらコロコロと笑った。彩綾が倉敷の方へと視線を移すと、倉敷は目を伏せて口を閉じていた。女性の言っていることが本当であることを証明していた。
「あ、ちなみに私はこの人の彼女とかじゃないから。ただのセフレ。それにしても、あんたも酷いことするわね~。口説いてる間までならともかく、この子と付き合ってからも私と続けてたってことでしょ?いくらなんでも引くわ~。だからあんたの彼女とか無理なんだっつーの。」
「おい!!」
倉敷が勢い付けて女性の肩に手をかけたと同時に、彩綾は震えそうになった膝に鞭打ってなんとか走り出した。後ろから倉敷の呼ぶ声が聞こえたが、彩綾の耳には届かなかった。
それから数日間、呆然としたまま日々を過ごした。何もかも嘘だったのかという気持ちが、彩綾の心を蝕んでいった。倉敷から頻繁にかかってくる連絡を無視していると、学校の前で待ち伏せされるようになった。それでも拒み続けていると、メッセージが入った。
----『ねつがたかくてくるしい たすけてほしい』
漢字に変換されていない短い文章に、彩綾はまたしても父の事が脳裏をよぎった。嘘かもしれない。呼び出す口実かもしれない。そうわかっていても、放っておくことはできなかった。
彩綾が倉敷の住む部屋のドアホンを鳴らすと、顔を真っ赤にした倉敷が出てきた。彩綾にもたれる倉敷をなんとかベッドまで連れて行って寝かせた。ふと、このベッドでこの前の女性と…と思った瞬間、倉敷に首の後ろに腕を回され、引き寄せられた。
突然の事に頭が真っ白になっていると、耳元で「ごめんね」と呟く声にハッとした。慌てて身を起こそうとしたが、遅かった。そのままベッドに押し倒され、両腕を押さえつけられた。目の前の、自分に覆いかぶさるように見下ろす倉敷の顔を見た瞬間、彩綾は恐怖で背筋が凍った。倉敷は貼り付けたような笑顔と冷たい視線で彩綾を見下ろしたまま口を開いた。
「…まったく、彩綾には焦らされたよ。そこそこ可愛いのに誰とも付き合ったことが無いって言うから、すぐに落とせると思ったのにさぁ。やっと落とせたと思ったら今度はキス以上はなかなかさせてくれないとか、どんな拷問だよまったく。」
彩綾の腕を掴む手に力が込められ、彩綾は痛みで顔を歪めた。感じた事のない恐怖で全身が震えだした。その顔を嬉しそうに覗き込みながら、倉敷は静かな声で続けた。
「この前うちの玄関で俺のセフレと鉢合わせたでしょ?それ以来、『女の敵だ』とか言ってやらせてくれないんだわ。で、今俺、相当溜まってるわけ。もともと、お前が処女だってわかったから興味持ったのがきっかけなんだよ。」
----嫌だ…
「未成年だといろいろ面倒だから、念の為成人するまで待ってみたけど、結局こうなるんなら正解だったね。」
----怖い…
「俺、処女の相手とかしたことないから、どんなもんか興味あってさ。相当痛いらしいね。実際、俺がファーストキスの相手だっただろ?せっかくだから、全部もらっちゃおうって思ってさ。」
----怖い!!
倉敷が身体をかがめながら彩綾の首元に顔を埋め、耳元で囁いた。
「優しくしてほしかったら、暴れるな。」




