22
ウォルトと街へ出かけた、次の日の朝。彩綾は朝食を食べた後、芝生のある庭で子供たちと遊んでいた。
子供たちは三人兄弟で、長兄のチェスターとその妻セレリーナの子供たちだ。
長男のアルバートは10歳で、父親に似て10歳とは思えないような大きくてがっしりとした体躯をしている。次男のフィンは8歳で、母親譲りの優しい目元と父親譲りの背丈があるが、やや細身だ。三男のキャドリックは5歳で、まだこれからどちらに似るのかわからないが、母親譲りのブロンドヘアをふわふわ揺らせながら走っていた。
子供たちとかけっこをしたり、鬼が振り向いたらピタッと止まる遊びをしたり、拳ほどの木をもらってきて缶蹴りならぬ『木蹴り』をしたりして遊んだ。一通り遊んだ後、飲み物をもらいに子供たちと屋敷の中へ入ろうとしている時に、少し離れたところから馬の嘶きが聞こえた。
----あれ、もしかして帰ってきた?
彩綾が子供たちを先に屋敷の中へ入らせてから馬の声がした方へ向かおうとすると、ちょうどその方向からこちらへ来るウォルトの姿が見えたので立ち止まった。ウォルトも彩綾の姿を認めると、そのまま歩みを進めて彩綾の前で立ち止まる。彩綾が口を開こうとすると、それを押しとどめるようにウォルトが感情のこもっていない声で言った。
「昨日は途中で帰って悪かったな。」
「え?あ、ううん別に…」
「それから、昨日俺が言ったことは無かったことにしてくれ。忘れてほしい。」
「…は?」
彩綾は口を開いたままポカンとした顔でいると、ウォルトは無表情のまま彩綾の横を通り過ぎて屋敷の中へ入っていった。
その瞬間、彩綾はハッとした。
ウォルトの身体から、昨日の女性と同じ香水の香りがした。
ウォルトは屋敷に帰ってすぐに身支度を整え、再び馬に乗って出かけて行った。
彩綾はシャロラインとセレリーナ、そして子供たちと一緒に昼食を食べてから、ドレス選びの為にフィッティングルームへと向かった。部屋にはすでにたくさんのドレスが用意されていて、濃色から徐々に薄色に変わっていくように順番に並べられている。彩綾がその光景に唖然としていると、「これだけしか並べられなかったのよ~」というシャロラインの言葉に言葉を失った。
シャロラインとセレリーナがドレスを選んでいる間、彩綾はソファに座りながら先ほどのウォルトの言葉を思い出していた。
----『無かったことにしてくれ。忘れてほしい。』
何も映ってないような瞳と無表情な顔で告げられたその言葉を、彩綾はずっと考えていた。そして、あの香水の香り。懲りないな、と彩綾は自嘲した。
----そうだった、男って口では何とでも言える生き物だったわ。結局目の前の性欲には勝てない下半身生物だってこと、すっかり忘れてたわ。ほんっとに、懲りないな、私。
苦い思い出とウォルトの言動が重なって、彩綾は最悪の気分になっていた。正直、ドレスどころか夜会すらどうでもいいと思い始めている。考えている事が無意識に顔に出ていたのだろう、シャロラインとセレリーナが動きを止めてじっと彩綾の方を見つめていた。
彩綾が我に返って顔を上げると、すでに二人がソファに座って彩綾の方を向いていた。
「サーヤさん、さっきウォルトが少しの間帰ってきていたみたいだけれど、何かあったの?」
シャロラインが心配そうに声をかけると、彩綾は思いきり首を振ってから冷静に答えた。
「何か、という程のことも無いのですが、彼が帰ってきたところにちょうど居合わせたんです。」
「まぁ、そうなの。じゃあ少しは顔を合わせられたのね?で、何か言っていた?」
「あ、はい。昨日の事は無かった事にしてほしい。忘れてほしい、とのことです。」
まるで電話の言付けを伝えるかのような事務的な返事に、我ながら色気のなさを痛感した。しかしそれが事実で、それ以上でもそれ以下でもない言葉だった。
彩綾の言葉に、二人は目を見開いて驚いていた。セレリーナが何かを言おうとしたので、彩綾はそれを遮るように先に言葉を発した。
「まぁ別に、20歳そこそこの男の恋愛なんてそんなもんですから、私としては忘れるも何も最初から無いのと同じですしいいんですけどね。」
二人は押し黙ったまま彩綾の言葉を聞いていた。セレリーナが少しオロオロと視線を彷徨わせていた。
「ですが…お二人に話したことで巻き込んでしまった気がして、それだけは悔やんでいます。」
「そんな、巻き込んだだなんて!」
「そうですわ!それに無かった事になんて、自分が一番できない事でしょうに。忘れろだなんて…。」
彩綾は二人に言うような振りをして、自分に向かって言った。
自分に、目を背けさせないように。
「そんな事ないですよ。彼の中では、無かった事にしたいんだと思います。」
「…どうしてそう思うの?」
シャロラインが静かに聞いた。彩綾はウォルトの母である彼女に言っていいものかどうか迷ったが、これ以上この話題を出させない為に、自分の為に、言う事にした。
「さっき、帰って来た彼から昨日会った女性と同じ香水の香りがしたんです。昨日一度ここに帰った時には無いものでしたから、あぁそういう事なんだなって。」
「なっ…!」
シャロラインとセレリーナが目を見開いたまま絶句した。二人の目には、信じられないといった憤怒の色が滲んでいる。セレリーナが手を震わせ、唇を噛みしめながら俯いていた。
----そりゃあ怒るよね。アイツの為に、私なんかに頭を下げてまで話を聞いてやってくれって頼んだんだもの。昨日の今日で、これは無いわ。
しばらくの沈黙の後、シャロラインが申し訳なさそうに視線を落としながら言った。
「…サーヤさん、ごめんなさいね。私たちは…いいえ、私たち家族全員、今までのあの子の気持ちをずっと信じていたから、あの子が裏切ったなんてまだ信じられないの。」
シャロラインが消え入りそうな声で続けた。不肖息子の母として背筋を伸ばして謝罪するのがやっと、という状態だった。いい歳した大人が母親にこんな姿をさせている事の方が、彩綾にとっては許せない事だった。彩綾からすれば、そもそも自分とウォルトは友人ですらないのに、二人が謝る事も怒る事も必要無いのだ。
「そんな、お気になさらないで下さい。大体、私とウォルトには元々何もありませんし、何かが始まってもいないんです。ゼロからゼロへ、です。ですから誰にも、ウォルト本人にすら責任を感じてもらう必要は全くありません。さ、ドレスを選びましょう!」
彩綾がピシャリと言い切って立ち上がると、二人は顔を見合わせてた後、溜息を吐きながら立ち上がった。
----そうよ、何も気にすることなんかないのよ。大体5つも下の男なんて10年もすれば若い女の方しか見なくなるんだから、関わらない方が身の為よ。
フンッと息を吐いてドレスの方へと行くと、待ち構えていた二人からストレス発散であるかのように次々とドレスを着替えさせられた。それは夕食後も続き、解放されたのは日付が変わる直前だった。
彩綾がベッドに倒れ込むように寝入る。薄れゆく意識の中、扉の向こう側で足音が止まる気配がした。
*
翌朝、彩綾はいつもより少し遅れて起きあがった。といっても、もともと早起き体質なので朝ではあった。彩綾が身支度を整えて階段を下りて行くと、食堂ではちょうど朝食の用意ができたところだった。テーブルにはシャロラインとセレリーナ、子供たち、そしてウォルトの姿があった。
彩綾は挨拶をしながら食堂に入ると、ウォルトの斜め前の食器が並べてある席に座った。
シャロラインは静かに全体の様子を見ながらナフキンを膝にかけ、セレリーナは子供たちと小声で話しながらクスクスと笑っていた。それでもどことなく流れる緊張感に、彩綾は腑に落ちない罪悪感を感じながらも、少しでも空気を良くする為にあえて明るくウォルトに話しかけた。
「ウォルト、あのさ…」
「ごちそうさま。」
彩綾の言葉を聞く気が無いと言わんばかりに、ウォルトはナフキンで口を拭いて立ち上がった。
「母上、今日は持ち込んだ仕事を片付けますので書斎に籠ります。申し訳ありませんが、集中したいのでしばらくは誰も近づけないようにお願いいたします。」
「え?ええ、わかったわ。無理しないようにね。」
ウォルトがシャロラインに軽く会釈をすると、そのまま食堂から出て行った。食卓は静まり返り、シャロラインとセレリーナが顔を見合わせている。彩綾は頭の奥で響く何かが切れる音とともに、手をブルブルと震えさせて、胃の底から沸き上がる怒りを必死で抑えていた。
----子供たちが見てる。我慢だ。我慢するんだ、私!!
彩綾がなんとか意識を逸らそうとパンを手に取ったが、無意識に握り潰してしまった。それを見たセレリーナが子供たちの食事を早めに切り上げて外へ遊びに行かせると、食堂の扉が閉まる音を確認してから彩綾は爆発した。
「なんなのよ、アイツは!!」
彩綾はパンを握りしめた拳をテーブルに叩きつけながら叫んだ。積もり積もったストレスとイライラが彩綾の人格を崩壊させ、怒りで涙が溢れ出ていた。
「もうやだ!意味わかんない!私が何したってのよ!なんで!私が!悪いみたいに!なってんのよ!!」
ダン!ダン!とテーブルを叩きつけながら、彩綾は叫び続けた。突然の大音響に使用人たちが何事かと食堂の方を覗き込んでいる。シャロラインとセレリーナが慌てて駆け寄り、両側から彩綾を支えた。両手に続いて両膝までが震えだし、身体の筋肉が強張る。冷たくなった指先を口元に寄せて、震えながら小さな声で呟いた。
「もうやだ…。帰りたい…。自分の家に、帰りたい…。男なんか…大嫌いよ…。」
セレリーナはハッとして、シャロラインの方を見た。シャロラインも何かを感じ取ったかのように頷くと、優しい声で彩綾に話しかけた。
「…ねぇ、サーヤさん。今日はもうお部屋に戻って、気持ちが落ち着くまで休んだ方がいいわ。気分が優れない時はお食事もお部屋に運ばせるから、今は何も考えずにゆっくりと過ごしてちょうだい。ね?」
シャロラインの言葉に、彩綾は放心状態で微かに頷いた。「すみません…」と空気のような声で言いながら立ち上がった。セレリーナが支えようと手を差し伸べたが、彩綾は小さく首を振り「一人で戻れます」と断った。
彩綾が食堂から出ると、シャロラインが使用人たちを下がらせてセレリーナと二人きりになった。椅子に座り、しばらくの沈黙の後セレリーナがポツリと言った。
「…サーヤさん、以前お付き合いしていた方がいらっしゃったようですけれど、その方と何かあったのでしょうか…。」
セレリーナの言葉に、シャロラインは彩綾が言っていたことを思い出していた。
----『すぐに別れてしまって、それ以来ずっといません。』
「サーヤさんは、その方とすぐに別れたと言っていたわ。『一度だけ』、つまり後にも先にもその方だけだという事よね。お父様は幼い頃にお亡くなりになっているし、一人っ子で母子二人きり…。その相手が、さっきの『男なんか大嫌い』の原因になった方の可能性が高いわね…。」
シャロラインは腕を組んで椅子にもたれた。だからと言って、何があったのかを聞き出すわけにもいかない。そもそも、口を出せる立場でもない。元の世界に戻ると言う彩綾に、深入りするべきなのかどうかわからない。それでも、放ってはおけない。
たとえ元の世界に戻れたとしても、今の彩綾を家族も恋人も伴侶もいない生活に送り出したくないという親心が、シャロラインの心を締め付けた。内容が男性に関することなだけに、夫たち男性陣には相談するべきじゃないわね、と二人の間で暗黙の了解となった。
*
自室に戻った彩綾は、ソファにもたれながら上を向いて目を閉じていた。身体の筋肉に力を入れるのも億劫で、だらりと寝そべるように手足を投げ出す。腑抜けたような身体とは反対に、頭の中では金タワシのようにゴワゴワと絡まった感情が渦巻いていた。
----私が、何か悪い事をしたの?
----どうして、平気で裏切るの?
----私は、どうすれば良かったの…
流す涙も枯れて、こめかみがドクドクと脈打っていた。彩綾は熱を帯びた頭と冷え切った身体に疲れはて、ベッドに潜り込んで目を閉じた。




