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----あの時の女か!
ウォルトはこんな顔だったのかと未だ名前すら出てこないが、彩綾と会う前日の夜に声をかけてきた女がいたことは覚えていた。ウォルトは目を見開いて、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
そんなウォルトを横目に、視線を彩綾へと向けて見下ろすような態度で微笑んだ。
「それにしても、あなた本当に栗色の髪が好きよね。こんなおばさんにまで手を出すなんて、どれだけ見境ないのよ。さっきからチラチラ見てる娘たちの中には、一度はあなたに抱かれた娘もいるってこと気付いてないの?」
「おい!!」
ウォルトが噛み付くような勢いで立ち上がると、相手の女性は臆することなくウォルトの首の後ろを指で突いて覗き込んだ。
「あら?残念、もう消えちゃったのね。私が付けたキスマーク。」
「!!」
ウォルトが咄嗟に首を隠して彩綾に振り返ると、彩綾がポカンとした顔で二人を見ていた。ウォルトが本気で狼狽える様子を見た女性が、今度は冷ややかな視線で彩綾を見下ろす。
「ねぇ、おばさん。あなたもウォルトと寝たの?それとも、これからかしら?この人あちこちに手を出してるから、本気にしない方がいいわよ。私は身体だけの関係だと割り切っているけれど…」
「ちょ、ちょっと待って!」
彩綾は呆気に取られたまま自分が何を言われているのかを理解すると、慌てて立ち上がって口を挟んだ。やはりとんでもない誤解を受けているようだ。
「誤解しないで。私は、彼とはそういった仲じゃないのよ。私は彼の従姉なの。」
----うん、嘘は言ってない。
「だから、その…彼のそういうお相手じゃないし、なるつもりも無いの。私はウォルトの事をそういう目で見ていないから、安心して?」
彩綾が女性を宥めるように落ち着いた口調で言うと、ウォルトの呼吸が止まる気配がした。彩綾がチラとウォルトの方を見ると、呆然とした表情で自分を見つめている。
その顔を見た瞬間、彩綾の心臓がドクリと音を立てたが女性の声でハッと我に返った。
「え?従姉って…あなた、従姉がいたの?」
「…。」
「ええ、そうなの。私は彼の父親の弟の娘なの。昨日叔父の家に招待されて、今日は良いお天気だしせっかくだからウォルトに街を案内してもらってるのよ。ね?」
険しい顔をして押し黙っているウォルトの代わりに、彩綾が努めて明るく振舞った。女性は彩綾を上から下まで眺めた後しばらく考え込み、再び微笑みを向けた。
「なんだ、そうでしたの。私ったら、てっきりまた新しい女ができたのかと思って、取り乱してしまいましたわ。失礼な事を言ってしまって申し訳ありません。」
「いいえ、いいのよ。隣に知らない女性がいたら、心穏やかではいられないものね。気にしないで。」
彩綾が大人の余裕を見せるように微笑むと、女性は彩綾に礼儀正しくお辞儀をして「またね、ウォルト」とニコッと微笑んで去っていった。後ろ姿が見えなくなると、二人はドサッと座り込み、重い沈黙がのしかかった。やれやれ、と彩綾が食事を再開させると、ウォルトが俯いたまま動かないことに気が付いた。
「どうしたのよ。食べないの?」
あれ、同じことをさっきはウォルトに言われたな、と少しおかしくなった。その様子を視線だけで見ていたウォルトが不愉快そうに低い声で言った。
「何がおかしいんだよ。」
「え?別に何も。さっき同じことをアンタに言われたなぁって思っただけよ。」
彩綾がキョトンとした顔で返事をすると、ウォルトが苛立ったように深呼吸した。
「あのな、さっきの事だが…」
「さっきの女性のこと?あれ、やっぱりキスマークだったんじゃない。なんでわざわざ虫刺されなんて嘘なんかついたのよ。」
「なんでって、お前…。」
ウォルトが核心を突く直球の問いかけに絶句していると、彩綾が食べながら呆れたように畳みかけた。
「大体、アンタどんだけ遊んでんのよ。そりゃあアンタの事だから女性の方から声がかかることもあるだろうし、お互いに合意の上ならいいと思うんだけど…」
「…違う…」
「今みたいに本気でアンタの事好きな子だっているわけでしょう?」
「…そうじゃない…」
「アンタのプライベートなんかに興味無いし好きにすればいいけど、そろそろ自分の立場とか考えて…」
「違うって言ってんだろ!!」
ガシャン!という大きな音が鳴り響き、辺りは一気に静まり返った。
彩綾が言い終わる前に、ウォルトが大声を出しながらテーブルを拳で叩きつけていた。彩綾が驚いて目を丸くしていると、ウォルトが息を荒げながら声を低くして捲くし立てるように言った。
「いいか、この際だからハッキリさせておく。俺は確かにいろんな女と関係を持ったが、それでも手当たり次第に手は出していないし分別は付けてきたつもりだ。それも全部、お前と会う前の事だ。お前と会ってからまだそんなに日は経っていないが、誰とも一切関係を持っていない。これから持つつもりも無い!これがどういう意味か分かるよな?」
ウォルトが真っ直ぐに彩綾を見つめて言うと、彩綾はホットサンドを口の中に頬張ったまま再びポカンとした顔をした。
----…へ?どういう意味って…はぁ!?
彩綾はウォルトの意図を察すると自分の顔が真っ赤になるのがわかった。心臓の音が頭の中まで響いていた。ただ何を言われているのか理解はしても、心がついていかなかった。ついさっきまで軽口を叩いて言い合っていたのだ。急に自分の好意を理解しろと言われても、無理な話だった。少なくとも、彩綾にとっては。
「あの…ちょっと落ち着いて?アンタ、誰に何を言っているのか分かってるの?」
「分かってるさ。お前相手に冗談でこんな事言えるかよ。」
クソ…、とウォルトが吐き捨てるように言いながら片手で顔を覆った。彩綾は耳の奥を打ち付けるような心臓の音と僅かな怒りを感じながら、視線を落としてなんとか口を開いた。
「いやいやいや…ちょっと待ってよ。アンタついさっきまで散々私の事バカにしておいて、近況の女関係曝されておいて、この期に及んで何都合の良いこと言ってんのよ。」
「だから、それは…。」
彩綾は何とか呼吸を整え終えると、この世界に来て最初の夜にウォルトに話そうと思っていたことを思い出した。そして、顔を上げてウォルトの顔を真っ直ぐ見据えた。
「ウォルト、私がこの世界に来た次の日にあなたに伝えようと思った事があるの。あの日、あなたはすでにお城にいなかったから話せないままだったのだけど…。」
彩綾は俯いて胸元にしまってある碧い石を服の上から軽く掴み、声が震えそうになるのを何とか堪えながら言葉を絞り出した。
「私はこの石をあなたに渡して、自分の元いた世界に帰るつもりよ。たとえここが私の産まれた世界だったとしても、私が育ったのは元の世界だもの。そこが私の全てなの。…だから、あなたの気持ちを受け取るわけにはいかないの。」
それに…、と言いかけたところでウォルトと目が合い、彩綾は今度こそ心臓が止まるかと思った。
ウォルトが大きく目を見開き、瞬き一つしないで呆然と彩綾を見つめていた。二人の間に再び長い沈黙が訪れると、ウォルトがゆっくりと立ち上がり「帰るぞ」と彩綾の顔を見ずに言った。
そのまま二人は互いの顔を見ることなく馬車に乗り込み、帰路についた。
*
屋敷に帰ると、ウォルトはそのまま馬に乗り換えて出かけて行った。
彩綾が屋敷の中へ入ると、シャロラインとセレリーナがティールームでお茶をしているところだった。二人に誘われてテーブルに着くと、ちょうど夜会に着ていくドレスについて話していたところだと言われ、彩綾は二人の話に耳を傾けることにした。
「やっぱり、サーヤさんには派手な色より落ち着いた明るさの色のドレスがいいと思うのよね~。」
シャロラインが口元に人差し指を当てながら言うと、セレリーナも同意見だと頷いた。
「そうですわよね。色も、オレンジ系か、淡いブルー系で、ネックレスは…あまり大きくない方がサーヤさんの首の長さが強調されていいかもしれませんわ。」
二人が彩綾の方をチラチラと見ながら話していると、彩綾は妙に緊張した気分になった。ふと、さっきのウォルトの顔が頭に浮かび、彩綾は目を伏せた。
「サーヤさん、どうかしたの?」
彩綾がハッとして顔を上げると、シャロラインとセレリーナが彩綾の顔を覗き込んでいた。彩綾がぎこちなく笑うと、シャロラインが口を開いた。
「そういえば、今日は街まで行ってきたんでしょう?何か良いものは見つかった?」
「え?あ、はい。ウォルトに案内してもらって、『ジュ・クラフターナ』という紙屋さんに連れて行ってもらいました。小さな香り付きの紙を買ってもらったんです。あ、チェスターお兄様から私にいろいろ買うように言われた、と言っていました。ありがとうございます。」
彩綾がセレリーナに向かってお礼を言うと、セレリーナは首を傾げて言った。
「まぁ、チェスター様が?おかしいですわね、『ウォルトにサーヤさんと街に出かけるように言った』とは聞きましたけれど、お買い物については何も聞いていませんわ。それとも、私の思い違いかしら?」
「え…。」
彩綾がセレリーナの言葉を飲み込めないでいると、シャロラインがクスクスと笑いながら口を挟んだ。
「ウォルトは素直じゃないものね~。特に、大好きなサーヤさんには気を使わせないように、あえてそんな嘘をついたのじゃないかしら?」
「はぇ!?どうしてそれを…。」
彩綾が目を丸くして驚いていると、二人は口元に手を当てて「まぁ!」といった顔で彩綾に向き直った。彩綾は顔を真っ赤にして顔を背けたが、遅かった。
「もしかして、ウォルトと何かあったの?」
シャロラインが詰め寄ると、セレリーナが後ろから援護の声をかけた。
「もしかして、ウォルトがサーヤさんに気持ちを打ち明けたってことかしら?」
「あら?でも、それならどうしてウォルトがここにいないの?一緒に帰ってきたのでしょう?」
二人が矢継ぎ早に言うと、彩綾はぎこちない笑顔のまま目を伏せた。二人が彩綾の様子を見て、そのまま目を合わせてから、シャロラインが静かに口を開いた。
「ねぇ、サーヤさん。何があったのか話してくれないかしら?あの子はサーヤさんに気持ちを打ち明けた、それは間違いないのね?」
彩綾はパッと顔を上げてしばらくシャロラインの目を見つめた後、再び目を伏せた。
「あ…その…。直接思いを伝えられたわけじゃないんです。紙屋さんで買い物をした後、昼食にホットサンドを食べていた時に…」
彩綾はその時にあった事を二人に話した。さすがに女性関係のことまで言うのは憚られたが、声をかけてきた女性については話の流れの上で、言わないわけにはいかなかった。それでも二人には少なからずショックだったようで、彩綾は内心全部言わなくて良かったと胸をなでおろした。
シャロラインが険しい顔をして腕を組みながら溜息をついた。セレリーナも片手で頭を抱えている。
「まったく、あの子は…。なんでそんなタイミングで伝えちゃうのよ…。」
「本当に…。まさかここまで残念な男だとは、思いも寄りませんでしたわ。」
「顔が良くて腕もたつから女が寄ってくるのは分かっていたけれど、どれだけ自分に自信があるのかしらね。いつでも女は皆、自分になびくとでも思っているのかしら?冗談は手癖の悪さと石の力だけにしろっていうのよ。」
言うなぁ~、と彩綾が呆気に取られていると、二人は彩綾に向き直った。彩綾がビクッと身体を震わせると、シャロラインが申し訳なさそうに言った。
「それで…サーヤさんは何てお答えになったの?」
「私は…彼の気持ちは受け取れないと、言いました。私はこの碧い石を彼に渡して、元の世界に戻るつもりでいます。昨日、クレイス侯爵様から王宮には私の代わりにこの世界に来た巫女がいることを教えていただきました。その方なら、この石を扱えるんじゃないかと思っています。」
彩綾の言葉に、二人は動揺して目を合わせ、今度はセレリーナが口を開いた。
「あのね、サーヤさん。もう一度、ウォルトと話してもらえないかしら。あなたがいずれ元の世界に戻るつもりでいることには賛成よ。あなたの育った世界ですもの、帰りたいのは当然よね。だけど、ウォルトのあなたへの想いは、決して軽いものではありませんの。あの子の気持ちを受け止められないのは仕方がありません。ですがせめて、きちんと終わらせてやって欲しいのです。これは、私の義弟を思う姉としての我儘です。」
お願いします、と頭を下げるセレリーナに、彩綾はなんて言えばいいのかわからなかった。義弟の為とはいえ、他人の恋愛にどうしてこんなに必死になるのか、彩綾には理解できなかった。ましてや、最近会ったばかりの自分への恋愛感情なのに。
自分はだから上手く恋愛ができないんだな、と自嘲した。
彩綾が小さく「わかりました」と呟くと、セレリーナは安堵の息をこぼした。しかし、ウォルトは帰るなり出かけてしまっている。
彩綾はウォルトと話しをする為に夜遅くまで起きて待っていたが、ウォルトが帰ってくることはなかった。