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ごつっっ!!
突然目の前に現れた光の中に前のめりに入り込んでしまった彩綾は、そのままの勢いで膝から倒れ込んだ。
----痛ったっっ!!
眩しくて目をぎゅっと閉じたままの状態だったせいで、満足な受け身もとれずに盛大にこけた。
打ち付けた膝を手早く擦っていると、いつの間にか光は消えていた。恐る恐る顔を上げてみると、そこには見たこともないような----およそ、アパートの玄関先にはないような----大自然が広がっていた。
「…え?…は?何…これ…。」
軽い眩暈を覚え、しばらく放心状態であたりを見回し、震える膝を叱咤してなんとか立ち上がった。
「え…何ここ…。なんで…」
とりあえず立ち上がってはみたものの、何をどうすればいいのか分からず、ただただ呆然と立ち竦んだ。どんなに遠くまで目を凝らして見ても、あるのは巨樹で覆われた世界だけ。入り組んだ樹木の枝が緩やかな風を孕んで、心地良い音色を奏でる。鳥の羽音すら聞こえない静寂な世界。
----この空間のマイナスイオン排出量、ギネス記録に認定されるんじゃないかしら…。
そんなことをぼんやり考えながら澄んだ空気に浸っていると、その静寂を破るようにどこからかこちらに向かって来る声が聞こえてきた。
----…これ、人の声!?人!?人がいるの!?
何も悪いことをしていないのに、本能が危険信号を告げてくる。
途端に心臓が早鐘を打ち、咄嗟に隠れる場所を探しても、辺りに隠れられそうな場所は無い。
そうこうしているうちに馬の嘶きが耳朶に触れ、そちらを見やると、瞬く間に大勢の男たちに囲まれていた。
こちらに向かって何か怒鳴っているようだが、何を言っているのか言葉がわからない。
彩綾は大きく目を見開いたまま固まっていると、武具のようなものを身にまとった男たちが目に入った。先ほどまで静かだった空間が、あっという間に喧騒たる状況になっていた。
----う…嘘…。これ、相当ヤバい状況なんじゃ…。どうしよう…どうしよう、逃げられない…!!
あまりの恐怖に彩綾は真っ青になり、膝ががくがくと震え、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。
すると、その中から一人の男が前に出て、こちらに向かって何かを話し出した。その声に呼応するかのように、辺りは急に静まり返る。彩綾は恐怖のあまり、自分に向けて言われていることに気づかず、背を丸めるように両手を胸の前で組んで、ひたすら座り込んだまま震えていた。
その様子を見ていた男は軽い舌打ちをし、片手を上げると大きな溜息を吐いて馬から降り、彩綾の元へと大股に歩き出した。彩綾は自分に近づいてくる男の存在に気付き、ヒュッと喉を鳴らしてへたり込んだまま後ずさりした。
あっという間に距離を詰められ、男は彩綾の前で立ち止まった。
彩綾は自分を見下ろす視線を恐る恐る見上げると、じっと見つめる男と目が合った。
森に差し込む光を反射した髪は青みがかった黒色で、瞳の色は金を滲ませたようなゴールドブラウン。すっと通った鼻梁が美しい、端正な顔立ちと逞しい身体をした青年が光を浴びて悠然と立っている。
----こんな男前、見たことない…。
彩綾は恐怖の中にあっても、ポカンと口を開けて思わず見惚れてしまった。
そんな彩綾の視線を一顧だにせず、男は彩綾と目線を合わせるようにしゃがみ込み、話しかける。
「…Δ〇×?」
「…え…?」
「Δ〇×?◇〇▲、□×▽〇…?…。」
男は彩綾に向かって何かを聞いている。が、彩綾にはその言葉がわからない。
それでも何かを聞いてくる相手に、視線を彷徨わせ首を小さくふるふると横に振るのが精一杯だった。
どうしていいかわからず、それが余計に彩綾の恐怖心を煽る。
男は小さく溜息を吐くと、懐に手を差し込んだ。
彩綾はその様子を見て、ビクッと身体を震わせ、両腕で自分の胴を抱き締めて縮こまった。
男は面倒臭そうに懐から小さな小壜を取り出し、栓を抜き、彩綾の目の前に差し出した。
彩綾は小壜と男の顔を交互に見つめた。
飲め、ということらしい。
「いや、飲むわけねぇいでっしょう!!」
極度の恐怖と緊張のあまり、声が上擦り盛大に噛んだ。が、どうせ通じないならと気にしない。
ブンブンと頭を振る彩綾の窮鼠な反抗に、男の顔がみるみる苛立ちを帯びていった。
しまった、と後悔し始める間もなく、男は小壜を持っていない方の手で彩綾の頬を挟むと無理やり口を開けさせ、壜口を口内に差し込んだ。
甘ったるさの奥に不愉快な苦みのある味をした液体が強引に喉を通過する。昔、風邪をひいたときに小児科で出された謎のシロップを思い出す。幼い頃の彩綾はそれが大嫌いだった。
あまりの仕打ちと苦い思い出、極度の緊張が飽和状態になり、何かがプツリと切れる音がした。
パァァァァァンッッッ
静まり返った森の中で、男に思いきりビンタを喰らわせた音が鳴り響く。
男はまさかの不意打ちに受け身が取れず、ストレートにそれを受けてそのまま尻もちをつくように弾き飛んだ。その光景に周りにいた兵士たちは面食らい、瞬く間に凍った空気が張り詰める。
男はわなわなと片手で顔を覆いながら体勢を整えると、彩綾を睨み返して怒鳴り始めた。
「Δ〇◇〇▲!!□×◆!!」
--------…ドクンッ…
「〇◇▲!!□×◆Δ〇!!□×!!」
----…ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…
目の前にいる男が喚き散らしている中、彩綾は喉の奥が熱を帯び始めたことに気付いた。その熱はじわじわと舌や鼻の奥、頭のてっぺんから胸のあたりまで広がって、痺れるような息苦しさを誘発した。耳鳴りがする…男が何かを怒鳴っている…わからない。震える身体を丸めるように縮め、ハッハッと浅い呼吸を繰り返して息苦しさを逃がしながら、熱が身体中を侵していくのをひたすら耐える。
ほんの10秒ほどだっただろう。しかし、彩綾にはそれが何時間も苦しみ続けたように感じた。徐々に熱が治まり意識がはっきりすると、耳の奥がすっと通ったような感覚があった。
「おいっ!」
さっきまで何を言っているのかわからなかった言葉が、ハッキリと聞き取れるようになっている。
ハッとして彩綾が男の方を振り返ると、男はすでに彩綾の眼前まで来ていて、怒りに口を歪ませて叫んだ。
「どこが娘だ!!ただの乱暴な年増女じゃねぇかっっ!!!」
パァァァァァンッッッ
再びビンタの音がこだました。