18
ウォルト視点です。
彩綾に浄化してもらった直後。
…眠れない。
理由は分かっている。俺はまた、彼女を傷付けてしまった。
彼女が俺の汗を拭き、心配そうに顔を覗き込んでいた時の幸福感は堪らなかった。石を強く使ったのは久しぶりだったから正直身体は辛かったが、そんなことはどうでも良かった。
彼女に身体に触れられていると、初めて会った12年前を思い出す。あの頃もさっきも、彼女は何も変わっていなかった。俺はそれが嬉しかったんだ。なのに…
----『サーヤ様はリーク様のような落ち着いた年上の男性がお好みだと仰いまして』
ナタリーの言葉が、浮かれていた俺に冷水をぶっかけた。
は?リークだと?確かに奴はサーヤより年上だし、真面目で落ち着いていて仕事もできる。おまけに顔だって悪くない。いや、実際結構モテる。
世の中、どんなに努力しても変えられないものがある。親と年齢だ。俺がどんなに努力しても、歳の差だけはどうしようもない。しかし、それがなんだというんだ?そんなもののせいで、この先ずっと俺は男として見てもらえないというのか。そう思ったら、もう止められなかった。
だが、俺を最も打ちのめしたのは、ずっと頭の中を支配しているあの言葉だ。
----『失礼ね!恋人ぐらい、いたことあるわよ!!』
----『その恋人だった人とは、デートも!キスも!その先も!全部経験してるわ!』
…わかっている。彼女の歳を考えれば、すでに結婚していてもおかしくない。当然の事なんだ。しかも彼女の話からすると相手は一人だ。むしろ、あの見た目で恋人が一人しかいなかったなんて、そっちの方が驚きだ。
…そう、わかっている。わかってはいるんだが、胸が潰される。
彼女を抱きしめた奴がいる。
頬に触れて、口づけをした奴がいる。
あの肌に触れて、朝まで共に過ごした奴がいる。
内臓をえぐられるような嫉妬に気が狂いそうだ。
でも彼女に対して何の肩書も持っていない俺には何も言えない。
そこへ追い打ちをかけるように言われたあの言葉。
----『あんたの首のうしろ。それ、キスマークでしょう?』
うかつだった。まさか、キスマークを付けられていたなんて。しかもそれを一番見られたくない女に見られるなんて!
自業自得とはいえ、どうしてこう最悪な事ってのは重なってしまうんだ。
確かに俺はそれなりに遊んでいた。でもちゃんと相手は選んでいたし、互いに大人の付き合いができそうにない女とは絶対に関係を持たなかった。後々面倒な事になるのは目に見えているからだ。
----それなのに、あの女!
今でもあの時抱いた女の顔も名前も思い出せないが、栗色の髪だけは記憶に残っていた。
昔助けてくれた少女とは二度と会うことは無いと諦めていた。だから、少女の影を追うように栗色の髪を持つ女を彼女の代わりに抱いたこともあった。俺はそんなに身持ちが固い方じゃないからな。後腐れさえ無ければ誰でもよかったんだ。
でも、サーヤに会った。あの時の少女と再会したんだ。こんな奇跡みたいな事ってあるか?
サーヤさえいてくれれば、もう他の女なんか要らない。やっと会えたのに、彼女の冷たい視線が俺を突き刺した。多分しばらく口も利いてくれないだろう。どうしたらいいんだ…。
*
翌日、王都にいる父から手紙が届いた。国王陛下への謁見の前に実家に連れてこいという内容だ。返事の速さが気になったが、それだけ父も心を砕いていたという証拠だろう。
俺とサーヤの石について、そして彼女の生い立ちについて話すつもりらしい。とにかく、彼女に話しかけるきっかけができた事に俺は心を持ち直した。
彼女に話をしようと城中探したが姿が見えない。行く先々で兵士たちに聞いてみたが、見ていないと言う。仕方なく部屋まで行ったが、門前払いされた。扉の前に立つナタリーの「当然ですわ」といった顔が、俺に現実を突きつけた。
サーヤが怒っている。
それも、かなり。人前で彼女を侮辱し、あまつさえ男経験まで吐かせたんだ。怒っていると思わなかった方がどうかしている。もしかしたら、彼女は許してくれるんじゃないかと勝手に期待していたのかもしれない。これじゃあただの自分勝手なガキじゃねぇか…。
俺は一旦身を引くことにした。まだ時間はあるんだ。食堂でもどこでも、そのうち会えるだろう。そう高を括っていたが、食堂へ行っても広場へ行っても、サーヤの姿を見かけることはなく、あっという間に一日が終わってしまった。避けられてるんじゃないかという不安がよぎるが、気のせいだと思うことでなんとか紛らわせた。
どうやってベッドに入ったのか記憶にない。ただ、部屋の静けさと心臓の音が心に焦燥感を挿し込んでいった。
次の日も、やはり彼女の姿が見当たらなかった。それとなくコルトに彼女の居場所を聞いてみたら、広場で子供たちと遊んでいるのを見かけたと言う。俺は急いで駆けつけたが、彼女はすでにいなかった。俺に向けられたユアンの無表情が刺さる。
執務室に戻って書類に目を通すが、全然頭に入らない。リークはいつもと変わらない様子だ。時々俺の方を心配そうに見ているのが視界に入っていたが、気付かない振りをした。なんとなく、リークには頼りたくない。
もう一度彼女の部屋へ行くと、ナタリーが首を振って立ちはだかった。無理矢理押し入ることもできるが、今の彼女はバーヴェルク王国一の屈強な騎士よりも倒せそうにない。
俺は仕方なく、ナタリーに『会って話がしたい』と彼女に伝えるよう頼み、執務室に戻った。
結局この日も、サーヤとは会えなかった。彼女が来てまだ四日しか経っていないのに、会えなかった12年間よりも、避けられているこの二日間の方が数万倍も苦しいとは思いもしなかった。それも、同じ城の中にいるというのに…。二日後の朝には王都に向けて出発しなければならない。もう、呑気に待ってはいられなくなった。
朝になり、リークを執務室に呼んだ。俺が『今日は朝から王都へ出かけている』という嘘をサーヤに伝えてもらうためだ。リークには頼りたくなかったが、背に腹は代えられなかった。
俺がいないと分かれば、子供たちと遊ぶために広場に出てくるだろうという俺の読みは当たった。
柱の陰に隠れて様子を窺っていると、軽快な足取りで子供たちの元へ駆け寄っていくサーヤの後ろ姿を見つけた。後ろで一つに括られた栗色の長い髪が、太陽の光を浴びて輝きながら揺れている。俺は目的を忘れて思わず見入ってしまった。あの髪に触れたい。匂いを嗅いで頬ずりして、それから…。
そんな風に眺めていたら、ユアンがサーヤにこっそりと微笑みを向けているのが目に入った。相手は子供だ。しかし、恋する男に大人も子供も無い。『彼女にとっての何者かという肩書』が無いという点では俺もユアンも同等だ。俺は彼女の後ろを大股で近づいて行った。
*
----なんで逃げる!?
俺の存在に先に気付いたのはユアンだった。そのユアンに気付き、後ろを振り返ろうとしたサーヤは振り返りきらずにダッシュで逃げ出した。まさかの行動に俺は唖然として一瞬出遅れたが、すぐに立ち直って後を追った。
速い。乗馬用の服を着ているからか、動きが軽い。だが所詮は女の足だ。さすがに追いつけない程では無かった。
少し足を速めて腕を伸ばせば、すぐに捕まえられるだろう。が、俺はそうしなかった。あちこち走り回っていると、追いかけっこをしているみたいでなんだか楽しかった。こんなに楽しい気分は久しぶりで、終わらせたくなかったんだ。
しばらく走っていると、行き止まりに当たった。サーヤが息を切らしている。あぁもう終わりか、と少し寂しくなったが、まぁいい。目の前にサーヤがいるんだ。手を伸ばせばすぐそこに…
「来ないで!!」
俺は金縛りにあったように動けなくなった。呼吸の仕方がわからない。足元が崩れそうな感覚に眩暈がした。それでも俺はなんとか声を振り絞った。
「…なぜ、避ける。」
彼女が怒っている…。俺が悪いのはわかっているんだ。でも、避けることないじゃないか。罵倒でも暴力でもなんでもいい。いつもみたいに面と向かって直接言ってくれないと、君に謝る事すらできないじゃないか。
「…まだ、怒っているのか。」
もうどうしたらいいかわからない。
いつもの俺ならどんな時だって打開策を講じて切り抜けられるのに、何も浮かばない。彼女が怒ってる。俺を遠ざけようとしている。また俺の前からいなくなるのか…?
俺は俯いて泣きそうになるのをなんとか堪えていた。大の男が情けない。誰かに見られでもしたら、それこそ領主の威厳などあったものじゃない。でもそんな事はどうでもいいんだ。サーヤがいなくなることの方が耐えられない。
そうして、俺が崩れそうになった時だった。サーヤが俺の顔を見てポカンとした顔をしていた。その顔にはさっきまでの怒りは見当たらない。よくわからないが、これはチャンスだ。謝るなら今しかない。
俺は精一杯の気持ちを込めて謝った。すると彼女は「水に流しましょう」と言ってくれた。その時、俺の心臓は安堵と緊張からの解放でダンスの様に踊り立てていた。
良かった…。本当に、良かった!
「明日までに最低限の挨拶とマナーを叩きこんでやるから覚悟しておけ。行くぞ。」
俺は彼女の腕を取って歩いた。本当は手を繋ぎたかったが、これが限界だった。こみ上げてくる喜びに顔がにやけるのを必死で抑えて、俺は執務室に向かった。
*
朝の空気が鼻の奥を刺激する。俺は出かける前にある程度の仕事を終わらせ、着替えて城門に向かった。すでに馬車の用意が終わっていて、コルトが御者や従者と話し込んでいた。コルトが俺に気が付いたのか、片手をひらひらと振ってきた。
「ウォルター様、おはようございます。もうお仕事を終えられたのですか?」
「あぁ。数日は帰って来れないからな。後の事はリークに頼んであるから、俺がいなくても大丈夫だろう。」
従者が少し温めた葡萄酒を持ってきた。俺とコルトは口を付けながら準備と警備に動き回る兵士や使用人たちをぼんやりと眺めていた。
「ところでウォルト、昨日は派手にやったんだってな?」
「なんのことだ。」
本当はコルトが何について言おうとしているのかは分かっていたが、面倒なので白を切った。が、やめるつもりはないらしい。
「しらばっくれるなよ。サーヤと大立ち回りしたらしいじゃないか。」
「なんだそれは。ただ敷地内を走り回っただけだ。」
「お!じゃあ本当なんだな。へぇ~、ウォルトって女の尻を追い回すタイプだったっけ?」
コルトのわざとらしく驚いた素振りが癪に障る。ギロッと睨み据えると、コルトがニヤニヤしながらそっぽを向いて葡萄酒をすすっていた。
「だってさぁ、あのウォルトがだよ?あちこちから女が寄ってきては、来る者拒まず去る者追わず、花を散らしたい乙女から妖艶なご婦人まで馬のように乗りこなしてきた、あのウォルター・クレイスがだよ?」
「おい、人聞きの悪いことを言うな。そこまで節操無しじゃねぇよ。乙女はあれこれ気を遣うのが面倒臭いし、人妻は後々面倒だから手は出してない。」
「…十分人聞き悪いよそれ。」
人聞きが悪かろうがなんだろうが、本当の事だ。実際に何度か初めての相手になってくれと言われたことはあった。年若い娘にとっては口にするのも恥ずかしかっただろう。だが、だからこそ手を出すべきじゃない。誰だって、大なり小なり初めての相手というのは記憶に残るものだ。ましてや、そこまで言った相手には尚更執着するってもんだ。
それがこんな名前も顔も覚えねぇような男じゃなぁ…。
「こっちが面倒だと感じるってことは、確実に相手が後々傷付くってことなんだよ。」
「まぁ、でももうそんな心配も要らないか。ウォルトにはサーヤがいるもんな?」
「は?」
コイツ、何を言ってるんだ?ていうか、なんで分かったんだ!?確かに俺はサーヤの事を12年前からずっと想い続けていたが、それを知っているのはごく僅かな者だけだし、サーヤが現れてからもそんな素振りは見せていないはずだ。
虚を突かれた俺はうかつにも固まってしまった。コルトが確信を得たようにニヤニヤしているのが無性に腹が立つ。
「え、僕が気付いてないとでも思ってたのか?だって、サーヤの事すっごく見てるじゃないか。最初に食堂でご飯食べてた時なんて、僕にしかわからないぐらいの薄~い殺気を飛ばしてただろう?わかりやすすぎて、笑いを堪えるのに必死だったんだからな。」
俺は思わず舌打ちした。よりによってコイツに知られるとは。だが認めるわけにはいかない。俺が葡萄酒を飲み干すと、従者が俺とコルトの空いたカップを下げていった。
コルトの視線が逸れた隙に構え直すことに成功した。
「悪いが、そんな妄想に付き合ってる暇はない。」
「あれ、認めないつもりか?」
「認めるも何も、そもそも特別な感情なんかねぇよ。」
そう言った時だった。
「お、あれサーヤじゃないか?」
コルトが先に城の入り口辺りまでやって来たサーヤとナタリーに気が付いた。
俺は反射的にコルトの視線の先を目で追う。
彼女のドレス姿に、俺は思わず息を呑んだ。