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ウォルト視点です。
薄明りの付いた部屋のベッドの上で、ふっと目が覚めた。まだ頭がぼんやりしてるのは、先ほどまで飲んでいた酒の余韻が残っているからか。酔ってはいないが、少し気怠いのは別の理由だ。
横になったまま目と目の間を軽く揉んでいると、隣で人の気配がしたのでそちらを見やる。視線の先には栗色の長い髪がシーツの上に広がっていた。
誰だコイツは…あぁ、そういえばさっき声をかけてきた女だったか。コイツは俺の事を知ってる感じだったから、何回か身体の関係を持ったのだろう。俺は名前すら全く覚えてないが。
栗毛の女を見ると、つい目が追ってしまう。年上風だったら尚更だ。ガキの頃、一瞬だけ会った少女。薄っすらとした記憶しかないが、その少女のことが忘れられない。
*
あれは確か俺が11歳の頃のことだ。父に用があった俺は、執務室に行った。ノックをしても返事がなかったから、中で待っていようと思って勝手に部屋に入った。
待っている間暇だったから、父の仕事机の方へ行き父の椅子に座った。いつもここで仕事をしている父に憧れていた俺は、いつかこうして父のように国のためにこの身を捧げるんだと胸を高鳴らせたものだ。
椅子の肘掛けに両肘を置いて胸の前で手を組んだ。なんだか偉くなった気がして気分が良い。ふと机を見ると、鍵穴のある引き出しを見つけた。なんとなくそこに手を伸ばしてみた俺は、どうせ鍵がかかっているんだろうなと思いながらも取っ手の部分に手をかけた。すると、何の抵抗もなく引き出しが開いた。鍵はかかっていなかった。
勝手に見た事がバレたときの不安より好奇心の方が勝った俺は、引き出しをそっと開けてみた。中には小さな箱が一つ入っている。箱に鍵穴は付いていなかった。
もちろん、俺はその箱を開けてみた。あの厳格な父が何を隠しているのか、それだけでも見る価値はあるというものだ。箱を開けると、中には琥珀色の石が入っていた。
俺はその石を見た瞬間、身体中をビリビリと強烈な何かが走ったような感覚に襲われた。そこからはほぼ無意識だったと思う。俺は、その石を軽く持ち上げて握りしめた。だが、すぐに手が----いや、身体中が震えだし、嫌な汗をかき始めた。
身体が火のように熱い。
俺は急に恐ろしくなり、執務室から飛び出して、外へと走った。とにかく身を隠せる場所を求めて走ったが、とうとう膝が震えて植え込みの陰に倒れ込んだ。苦しくて、目が霞む。このまま死んでしまうんじゃないかと思ったその時だった。
俺が倒れたすぐ近くで、植木越しに大きな光が見えた。とうとう幻覚まで見え始めたか、と諦めて意識を手放そうとしたら、誰かに抱きかかえられるような感覚がした。心地よい圧迫感に薄っすらと目を開けると、栗色の長い髪が俺の頬をくすぐっていた。
----誰?
----助けて…。
目の前にいる少女に話しかけても、声が出なかった。少女は俺の方に耳を近付けてきた。俺の声を聞こうとしてくれているんだろう。彼女から、いい香りがした。
----◆〇?▽×□〇▲?
少女は俺に向かって何かを言っているが、何を言っているのかわからなかった。なんだ、言葉が通じないのか…と苦しみながらも落胆したもんだ。
そのうちに、少女は布を取り出して俺の汗を拭き始めた。俺の様子を窺うように、そっと、優しく拭いてくれた。こんなに心地の良い気分は、生まれて初めてだった。ずっとこうして抱いていて欲しいとすら思った。出会ったばかりの他人なのに。
そうして少女に汗を拭いてもらっていると、いつの間にか呼吸が楽になっていることに気付いた。あんなに苦しかったのが嘘のようだった。
俺は少し視界がハッキリしてきたので、キョロキョロしながら周りの様子を窺っている少女を見つめた。俺がじっと見つめていると、俺の視線に気付いた少女は目を細めてふんわりと微笑った。
光を受けたその笑顔があまりに美しくて、俺は思わず息を呑んだ。
この世に女神がいることを確信した瞬間だった。
そんな恍惚とした気分を壊すように、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。
「ウォルター様!どこにおられますか!?」
「ウォルター様!!」
邪魔しやがって…と心の中で舌打ちし、不機嫌になって顔を歪めた。少女はそんな俺を見て、慌てて汗を拭き始める。きっと、熱で具合が悪くなったと勘違いしたんだろうな。
優しい人だ、と少女の胸に擦り寄ろうとした瞬間、再び大きな光が現れた。そして光が消えると同時に、少女の姿も消えていた。俺は目の前で起こったことに呆然としてその場に座り込むと、何かに触れた。
俺の膝の上には少女が握っていた薄桃色の布が落ちていた。
*
部屋の扉の向こう側から酔っぱらいのでかい声が聞こえてくる。まだ一階の飲み屋は営業中だな。この女が起きる前にさっさと出て行きたい。面倒はごめんだ。
俺は手早く服を着て、一階に下りて行った。もう少し酒を飲んでいこうかと少し考え込んでいると聞き慣れた声で話しかけられた。
「やぁ、ウォルト。待ってたんだ。」
「…フィグか?」
俺に声をかけてきた男は、フィガロ・グランテールという。
グランテール伯爵家の長男で、26歳。切れ長の目元に青い瞳と、ダークブラウンのくせ毛を活かしたヘアスタイルは王都でも評判の色男だ。人当たりもよく社交的で、王宮第二騎士団副団長という地位も奴の人気を後押ししている。なんでも揃っている男っていうのは、こういう奴のことを言うんだろうなと思った。
「君は王都に来たら必ずこの店に来るからね。もしかしたらと思って来てみたんだよ。」
「俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」
「その時はさすがに帰るよ。でも、マスターからウォルトが来てるって聞いたから待ってたんだ。」
遠回しに二階の部屋でのあれこれを知っていると言われているみたいで、なんだか居心地が悪い。フィグはそんな俺を気にする風もなく、酒を飲んでいた。ただ酒を飲んでるだけでも様になる。さっきから周りの女たちが熱い視線を送っているのに、本人は知らんふりを決め込んでいる。罪な男だ。
「俺が出てこなかったらどうするつもりだったんだよ。」
「それは無いね。君は相手がどんなに美人でも、共に朝を迎えることはしないだろう?だから、店が閉まるまでには下りてくるってわかってたんだよ。」
「あーもう、なんなんだよ…。」
俺たちのやり取りを聞いていたマスターが、ニヤニヤしながら酒を出してきた。半目で酒を受け取ると、その様子を見ていたフィグがクスクスと笑っていた。
俺はテーブル越しにフィグの前に座りながら、大きく息を吐いてグラスに口をつけた。
「で?釘でも刺しにきたのか?」
「まさか。僕も男だからね。独身の男に貞操を押し付けるような暴言を吐くつもりは毛頭ないよ。ましてや、君みたいにモテる男にはね。」
「そりゃあどうも。」
「ま、さすがに身を固めたら、そうも言ってられなくなるだろうけどね。」
「俺のことより、自分の心配しろよ。お前のが年上だろう。」
「僕はまだいいんだよ。」
と、フィグは少し声を落としてグラスをテーブルに置いた。
*
フィグと初めて会ったのは王宮の回廊だった。といってもすれ違っただけで、お互い視界に入った程度だったが。
俺は彼女に会うために王宮にいた。少しふらつく足元に忌々しさを感じながら歩いていると、前から歩いてくる一団が目に入った。彼らが身に着けている壮麗な鎧姿から、王宮騎士団であることは一目瞭然だった。中でもフィグはその整った容姿から、王都内外では知らぬ者はいないという程の美丈夫だ。国境付近にいる俺ですら、その噂を知っていた。
そして彼らとすれ違う時に、一瞬視線を感じた。
彼女に会った後、謁見の間へと向かい、国王と国王の側近である父に領地内外で起こったことを報告した。
一通りの用事を終えて肩の荷が下りた俺は、身なりを軽くして王都にある酒場に向かった。情報収集にもなるし、気分転換にもなる。酒場の二階は客室になっていて泊まることも可能だ。ま、俺の場合専ら『休憩』に使用させてもらっているが。
身分を隠すために軽い服装に変え、いざという時に顔が隠せるようフード付きの外套を羽織る。その日も同じ様にカウンターに腰かけて、マスターを話し相手に酒を飲んでいた。すると俺の横に一人の男がスッと腰かけて、話しかけてきた。
「やぁ、また会ったね。」
その声の主を睨むように見ると、そこには先ほど王宮ですれ違った男がいた。俺はまさかの人物との再会に固まってしまった。そんな俺を置いていくように、マスターに酒と簡単なつまみを注文して、当たり前のように俺の隣に座った。意外と図々しいんだな、と思ったが顔には出さないようにした。
「まさか、こんなところで会うとはね。僕はフィガロ・グランテール。フィグって呼んでくれ。君は?」
「あ、ああ。俺はウォルター・クレイス。ウォルトと呼んでくれ。」
この日をきっかけに、フィグとはよく話すようになった。王宮内でもお互いに見かけたら声をかけ、都合が合えば一緒に飲みに行った。自分の置かれている境遇と、フィグがあの男の息子ゆえにそれなりの距離をとってはいるが、そもそも腹に一物のない貴族なんかいるわけないよな、とポジティブに考えるようにした。
まぁ、結局は意図的に俺に近付いたってことを本人の口から聞くことになるのだが。
*
フィグは置いたグラスの縁を指で撫でながら、周りに聞こえないよう小さな声で切り出した。
「最近、王都周辺で物騒な事件が続いているのは知っているかい?」
「あぁ、この辺りの貴族が次々と襲われてるってやつだろ?それがどうかしたか?」
フィグの様子を訝しみながら、ウォルトも声を落として話した。
「…背景に、ちょっとややこしい者が絡んでいるようでね。」
「ややこしい者?」
「…反国王派の貴族だ。」
「おい!そんな話こんな場所でするんじゃねぇよ。誰が聞いてるかわかったもんじゃねぇだろ。」
酒に口をつけていた俺は、フィグの言葉に思わず咽せた。
今までの付き合いで分かったことだが、フィグは俺が知っている人間の中でも、かなり慎重な男だ。落ち着いた口調で誰とでも気さくに話すが、滅多に感情を表に出さない。そんな男の突拍子もない言動に、俺は心底驚いた。
「いや、こんな話だからここでしたんだよ。お互いの為にね。」
「だが…それってお前の…。」
「いや、まだ確信は無いんだ。いや、確信というより証拠が無い。」
フィグはグラスに目を落として小さく溜息を吐いた。何かに迷っているようだ。しかし…
「…なんで、そんな話を俺にしたんだ?」
「最近、国境付近で何か変わったことはないかい?」
「なんだ急に。いや、相変わらずゴロツキを追い払ったり、少数部族との衝突があるぐらいで、3年前に俺がシェランドルを任された時よりはマシになったってところだな。」
「そうか…。いや、いいんだ。この話はもうよそう。」
フィグは少し無理矢理に話を切り上げた。まぁ、こんな話をこのままここで続けられるほど俺の神経も図太くはない。フィグとはその後もしばらく酒を飲んで話していたが、二階の扉が開く気配がしたのでさっさと勘定を済ませて店を出た。
酒で温まった身体に夜風の冷たさが心地良い。
俺が屋敷に帰ると使用人から手紙を手渡された。差出人には彼女の名前が書いてある。俺は急いで封を開けてその内容に目を走らせた。
そしてすぐにシェランドルへと向かった。




