その日まで
バスケットコートでの怒涛の会話を終えた数時間後。
「少しだけ話をしたいんだけど、いい?」
テレパシーもメールもなく、桜庭くんは突然アパートへやって来た。
私の頭の中はさっきの出来事を消化しきれていなかったけど、やけにしおらしい桜庭くんの声を聞いたら、玄関先で帰すことはできなかった。
「今日はごめん。あんなこと言っちゃって、困らせたよね」
桜庭くんの言う“あんなこと”は、たぶん婚約者だとバラしたことじゃなくて、私への気持ちを伝えたことなんだろうな。
翔平さんと桜庭くんの言葉のひとつひとつを理解できていなくても、あれから私なりに桜庭くんのことを一生懸命考えた。
「正直、今も信じられないっていうか、上手く飲み込めていないっていうか……。ただ、私の方こそ謝らなきゃいけないなって思ってた。桜庭くんの気持ちも知らないで、いつも頼ってばかりで、本当にごめん」
ひと呼吸、置いた。
どんなに考えても、私の心は決まっている。だから変に期待させるような言い方だけはしちゃいけない。
自分にそう言い聞かせて、息を吸った。
「でも……、すごく頼りにしてるけど、やっぱり桜庭くんの気持ちには応えられない」
まっすぐ桜庭くんの目を見て、真剣な表情で、できるだけ毅然とした態度を心がけたつもり。
なのに桜庭くんは「ふふっ」と笑った。
「だよね。あーあ。だから言うつもりなかったのになぁ」
少し自嘲気味な桜庭くんの言葉とともに、幼い日の映像が頭の中へ送られてきた。
これは……私が覚えていなかった、初めて桜庭くんに会った日のこと。
再生される光景の中にいるまだ小さな桜庭くんから、“好き”の感情が見え隠れしている。
そっか。一目惚れ。
「……私たち、似た者同士だね」
そんなつもりはなかったのに、湿っぽい口調になっえしまった私に向かって、桜庭くんは悪戯っぽく不敵な笑みを浮かべた。
「気持ちを伝えて、その上でちゃんと断られたら、もう諦めるしかなくなっちゃうじゃん。ゆららちゃん、頑固そうだし?」
「頑固じゃないもん」と控えめに反論してみたけど、桜庭くんは少しだけ深く微笑んで、もうからかってはこなかった。
「そうなるくらいなら、全部ゆららちゃんの家族のせいにして一緒にいられればいいなんて、ズルい考え方してたから、だから横から攫われちゃうんだよね」
精いっぱい強がってるって分かるから、私も明るく返すことにしよう。
えっと……。無言はダメ。何か言わなくちゃ!
「本当に攫われてれば良かったけど、あいにく翔平さんの気持ちはこっちに向いてないんだよねー。あはは」
…………しまった!
軽い受け答えだけを意識しすぎて、話題選びに失敗してるじゃない!
心の中でポカスカと頭を叩いていると、桜庭くんが目を丸くした。
「え? ゆららちゃん、それ、本当に……?」
そういえば、桜庭くんは翔平さんに想い人がいるって知らないんだっけ。
「うん。翔平さんは他に好きな人がいるって言ってた。今日のことだって、受験勉強を順調に進めるためにあんな言い方をしただけで、他に意味なんかないんだと思うよ」
「そうかなぁ?」
まだ不思議顔の桜庭くんに、私は説明を続ける。
「だって、万が一桜庭くんの言うとおりだったら、婚約者だって知った上であんなに楽しそうな顔して桜庭くんに挑みかかるなんて、ありえないでしょ?」
うん? なんか、言うべきこと間違ってるない!?
「……だからと言って、諦めるつもりはないんだけどね! うん!」
なんとか上手く話をまとめられた……訳ないよね。
最後の最後でこんなことを口走るなんて、私ってば本当に考えなしなんだから。桜庭くんに期待を持たせちゃいけないって、強く決めていたのに。
それに、自分の言葉で自分の置かれた立場を再認識したら、ちょっと悲しくなってきちゃったなぁ。
いろんなことで気落ちしかけた私に向かって、桜庭くんは意地悪げに「ふーん」と唇を尖らせてから、怖いくらい可愛らしくニコッと笑った。
「まぁいいや。どっちにしても、僕は諦める決心がついたから。ゆららちゃんは精いっぱい頑張ってよ」
確かに、桜庭くんの顔は心なしか晴れやかな気がする。
「それと、ラツィナー様への忠誠心は変わらないから、その日が来るまではしっかりお守りしますよ、リラ様」
「だから、その呼び方やめてってば!」
抗議をしながらも、いつか来る“その日”が、私があの森の奥の家に不本意ながら戻る日じゃないことを、そして私も桜庭くんもそれぞれの道に進む日であることを、願わずにはいられなかった。