彼氏と彼女
アルバイトを始めて一週間。
「いらっしゃいませ」
爽やかな声が聞こえる。翔平さんの声だ。今日も私は少し離れた場所から、うっとりと翔平さんの声を堪能する……なんて余裕は全然なくて、仕事を覚えるのに必死です、はい。
こんなに近くにいるのに、翔平さんと私の間には大きな隔たりがある。森山さんが言っていた『次期バイトリーダー』は、あながち冗談でもなさそうだった。どんなことでもスマートにこなせる翔平さんに対して、私は分からないことだらけの新人。戦力どころか、ひとりでは何もできない。
だからって、落ち込んでいる訳じゃないよ? いつか翔平さんに「ありがとう」って言ってもらえるように頑張るんだから!
「ゆららちゃん、休憩時間」
私に手取り足取り仕事を教えてくれる優しい先輩、翠さんが小さく時計を指差した。「一緒に行こう」と促されて、私は翠さんの後ろをチョロチョロとついていく。『STAFF ONLY』のドアの前で、一度お客さんに向かってお辞儀をするのが決まりだ。
バックルームの中には、先に休憩に入っていたらしい森山さんがいた。右手にスマートフォン、左手にアイスコーヒーの森山さんは、私たちを見てスマートフォンの画面を消した。
「どう? バイトには慣れた?」
私は翠さんの隣の椅子に腰を降ろしながら「まだまだです」と首を振る。なんとか笑顔を作ってはみたけど、強張っているだろうな。
「誰でも最初は大変よ。焦らずゆっくり仕事を覚えていけばいいからね」
翠さんがそう言って優しく微笑む。その笑顔につられるかのように、森山さんの顔にも優しさに満ちた微笑みが浮かんだ。
あれ? でもちょっと待って。森山さんの笑顔って、私に微笑みかけている訳じゃないよね、絶対そうだよね! だってその視線は完全に翠さんを捉えている。それによくよく見れば、この二人の雰囲気って……。
「あの……」
遠慮がちに言葉を割り込ませると、二人が真顔になって私を見た。ゴクリと唾を飲み込む。立ち入ったことを尋ねますが、どうか許してください。
「お二人って、もしかしてお付き合いされてるんですか?」
思わずといった様子で顔を見合わせる二人に、改めてバイト仲間や友達以上の雰囲気を感じてしまう。
訪れた沈黙。余計なことを聞いてしまいました! 謝罪と取り消しを申し出ようとしたところで、翠さんが肩をすくめた。その仕草があまりにチャーミングだったから、とりあえず私の質問で機嫌を損ねていないことに胸をなでおろす。
「バレちゃったかー。ゆららちゃん、鋭いね」
やっぱり二人は恋人同士なんだ! 驚きと、勘が当たった嬉しさ、それからお似合いの二人への憧れで、ちょっと幸せな気分になった。だけど私は決して鋭い方じゃないから、私以外にも気づいている人はいるんじゃないかな。
「他の人には内緒にしてるんですか?」
みんなにバレてると思いますよ、とはさすがに言いづらくて質問形にしてみたけど、もし内緒だと言われた場合の返事って、どうすればいいんだろう。という私の心配は杞憂に終わった。
「きっとみんな知ってるんじゃないかな。隠してもいないしね。それにここのバイトさんたちは、彼氏彼女持ちがほとんどだから、私たちが特別な訳じゃないよ」
翠さん、今なんて言いました!?
分かりやすく動揺した私の表情を、翠さんは違う意味で受け止めたらしい。
「だ、大丈夫! ゆららちゃんは可愛いから、すぐに彼氏できるって」
珍しく焦った様子でフォローしてくれる翠さんに、森山さんが「土足で人の心に踏み込まないの」とたしなめている。でもね、翠さん。私は自分に彼氏がいないから動揺した訳じゃないんです。
「ほとんどって、翔平さんも彼女いるんですか?」
言い終わってから、はっと我に返った。私ってば、何言っちゃってるの! これじゃ、翔平さんが好きですって言ってるようなものじゃない! 後悔しても、時既に遅し。翠さんが目を大きく開いた。
「ゆららちゃん、もしかして……」
続く言葉を覚悟していたけど、予想外にも森山さんが翠さんの言葉を遮る。
「翔平に彼女がいないはずないでしょ」
まるで自分の事のように自慢気に話す森山さん。本当に翔平さんのこと可愛がっているんだな……ってあれ? この人って意外と鈍感?
翠さんが森山さんを肘で突いても、まったく状況を飲み込めていないみたいだ。でも今はその鈍感さに救われます。
「翠さん、違いますよ。そんなんじゃないです。ただ年齢が一番近いから、どうかなって思っただけなので」
今度はさっきよりも上手く笑えている気がする。人間って、ピンチの時こそ表情をコントロールできるものなんだと、こんな場面で学びました。
翠さんは腑に落ちない表情をしていたけど、私は話題を変えることにした。この話題を続けるのは、ちょっとつらい。
「今度友達と遊園地に行くんですけど、オススメのアトラクションとかありますか?」
森山さんも翠さんも「それなら……」といろいろ教えてくれる。なんて優しい先輩たちなの。それなのに、本当にごめんなさい、私の記憶にはあまり残らないと思います。
翔平さんに彼女がいないはずがない。
確かにそうだ。あんなに素敵な人なんだから、彼女の一人や二人や三人や四人……、いや、それはそれでまずいけど、でもモテないはずがない。再会の興奮ですっかり忘れていたけど、十二年前の運命的な出会いだって、翔平さんはすっかり忘れているみたいだし。これは本格的に、美咲ちゃんの心配が的中する予感。
なんだか泣きたくなって、走り出したくなって、何かに当たりたくなって、心がザワザワと落ち着かない。誰かを好きになるって、楽しいことじゃなかったのかな。
親切な二人の話題は、自然と自分たちのデートの計画に変わったみたいだ。遊園地デート、羨ましいな。相変わらず会話の内容がすり抜けていく頭でぼんやりとそんなことを考えていると、バックルームのドアがカチャリと開いた。
「お疲れ様でーす」
なぜこのタイミング!
そう、現れたのは翔平さんだった。今まで一度も休憩時間が一緒だったことなんかないのに。
翔平さんの顔を見ると、チクリと胸が痛む。昨日までの私なら、喜びのあまりハイテンションになっていただろうけど、今はぎゅっと唇を噛みしめるだけ。
なんだか息苦しい。逃げ出したい。
そんな私を、神様は見捨てていなかったみたい。
「あ、いけない! 休憩時間、終わりだわ」
翠さんが慌てて席を立ったのを見て、私もすごいスピードで立ち上がった。
森山さんが「城戸さん、やる気に満ちてるね」と言ってニコニコと手を振る。勘違いしているバイトリーダーは、このまま残ってシフト管理の仕事をするらしい。
森山さんに手を振り返す翠さんに続いてバックルームを出ると、無意識のうちに息をひとつ吐いていた。
翔平さんが遠い。せっかく会えたのに、すぐそこにいるのに、翔平さんを探していた時の方がずっと近くに感じていた気がする。時間を追うごとに森山さんの言葉が私の中に染み込んで、翔平さんと私の間にある隔たりをさらに大きくしていった。