チョコラテの笑顔
今日は待ちに待った終業式。結局あれから澤部先生と話ができたのは一回だけ。問題集を渡されて、「夏休み中にやって来い」ということと「困ったことがあったらいつでも訪ねてくるように」とだけ言われて帰された。夏休み前で忙しいのかもしれないけど、もう少し真剣に考えてくれたっていいじゃない、と密かに不満に思っていたりする。
でも、どうやら澤部先生は夏休み中も学校に来ているらしいから、まめに登校することで情報不足を補おうと計画中。別に、素っ気ない澤部先生の仕事の邪魔をしてやろうとか思っている訳じゃないよ、うん。
長い長い校長先生の話を聞いて、それから教室でも澤部先生からの短い注意事項を聞いて、ようやく私たちは晴れて自由の身!
「この後、どこか遊びに行かない?」
早速美咲ちゃんからお誘いがかかった。あの美味しいクレープ屋さんに行くのもいいし、涼しいお店でアイスを食べながら話をするのもいい。だけど、今日は無理なのだ。
「ごめん、美咲ちゃん。これからバイト先に行かなきゃいけなくて」
そう、夏休みの始まりはアルバイトの始まり。明日から始まる本格的な勤務を前に、今日は短時間での見習い勤務をすることになっていた。
「そっか、それなら仕方ないね。いよいよゆららのバイト生活が始まるのか。頑張ってね!」
美咲ちゃんの言葉に背中を押され、私はオシャレなカフェへ急いだ。
高校の制服のままカフェの前に立つと、これから自分がこのカフェで働くなんて、ちょっと信じられない気分だ。働いている人たちもお客さんもほとんどが大学生以上みたいだし、私にとっては背伸びをする感覚。
腕時計をちらりと見ると、約束時間の十分前を示している。まだ余裕はあるけれど、とにかく中に入ろう。早く涼しいところへ避難しなくちゃ。
耳にするのが二度目になるオシャレなドアベルの音が響く中、私の姿を見つけたレジのお姉さんが「新しいバイトの子だよね?」と声をかけてくれて、お店の奥へ案内してくれた。
この前は勢いで乗り切ったけど、改めてお店のバックルームへ入ると思うと少し緊張する。『STAFF ONLY』と書かれたドアを通り抜けると、そこで私を待っていたのは一人の男性だった。黒縁メガネがとっても似合う、カフェにぴったりなオシャレなお兄さんだ。
お姉さんは「新人さん、来ましたよ」とお兄さんに私を引き渡して、店内に戻っていった。
「城戸ゆららです。よろしくお願いします」
余所行きの声でしおらしく頭を下げる自分のことを、自分でもらしくないな、と感じてしまう。でも仕方ないよね。私にだって、緊張する時くらいある。
目の前に立つバイトリーダーだというお兄さんは、爽やかな笑顔で「よろしくね」と応えてくれた。
「今日は簡単な説明と見学だけだから、そんなに身構えなくていいよ。気になることがあったら、何でも質問してね」
気さくなお兄さんに、緊張していた気持ちも少しずつ解れていく。お兄さんは「森山」と名乗った。大学四年生だという森山さんは、今年度いっぱいでアルバイトを辞めると話してくれた。次の春には卒業して、不動産関係の仕事に就職することが決まっているらしい。
「だから城戸さんには、春までに戦力になってもらわないと」
森山さんは温かいカフェラテみたいに、柔らかい笑顔を見せた。
「まずは、これを渡さないとね」
手渡されたのは、憧れの可愛い制服だ。
「更衣室まで案内するから、着替えたらまたここに戻ってきて」
森山さんは女子更衣室の前まで行くと、「ロッカーに名前が貼ってあるから分かると思うよ」と言葉を残すと、くるりと背を向けて歩き出した。あっさりひとり取り残されて一瞬戸惑ったけど、確かに森山さんが女子更衣室に入れる訳ないもんね。
気を取り直して目の前のドアをノックする。中から声や音は聞こえない。それでも念のため「失礼します」と一言告げてからドアを開けた。ここが国語準備室と違うことくらい、私だってちゃんと理解できているからご安心を。
開いたドアの先、更衣室の中には誰もいなかった。ホッとしたような拍子抜けしたような気分で、自分のロッカーを探す。
「あった!」
奥から二番目のロッカーに『城戸ゆらら』とラベルシールが貼られているのを見つけて、なんだか嬉しくなった。単純だって思われるだろうけど、こうして私専用のロッカーがあるだけで、まだ何もしていないくせにこのカフェの一員になれた実感が湧いてきたんだもん。やっぱりそれって、ちょっと嬉しいことだよね。
空っぽのロッカーに私物を入れて、高校の制服からカフェの制服に着替える。自分で言うのもなんだけど、うん、なかなか似合っている。最後にロッカーに鍵を掛けて、これで私もカフェの店員さんだ!
森山さんの元へ向かおうと更衣室を出た途端、私の五感に飛び込んできた気配にドキンと胸が高鳴った。これは、ドラキュラさんの気配! それも、かなり近い。当たり前だけど、K大学に通うドラキュラさんはこの近くを行き来しているはずで、これから何度、ドラキュラさんの気配を感じられるのかなって考えると、それだけでとても幸せな気持ちになれちゃうから、私ってやっぱり単純なんだな。本当は飛び出して探しに行きたいところだけど、今は我慢。ここで働いていれば、いつか必ず会えるはずだから。
意識をアルバイトに戻して深呼吸すると、何やら話し声がすることに気づいた。森山さんの声と、もう一人男性の声だ。私の位置からは森山さんの姿しか見えないし会話の内容までは分からないけど、ずいぶん親しそうな様子の二人に、割って入っていいものか悩んでしまう。
でもここは行くしかないよね、お仕事だし。
悩んだのは一瞬、すぐに森山さんへ向かって歩き出す。なんだかドラキュラさんの気配が濃くなっている気がして、もしかしてカフェでお茶でもしているのかも、と期待してしまう。
にやけそうな顔をどうにか抑えて「お待たせしました」と声を掛けようとした時、森山さんの話し相手の方が一足先に声を発した。
「明日からよろしくお願いします」
嘘でしょ!?
再び、でもさっきより強く刺激される五感に、足の先から頭の天辺まで血が一気に駆け巡り始めた。私の頬は今、過去最高に赤く染まっているかもしれない。
立ち尽くす私の存在に気づいた森山さんが、「ちょうど良かった」と私を手招きした。操り人形みたいに、私の足が勝手に前へ進む。
「城戸さんに紹介するね。明日から城戸さんと一緒に働く坂上翔平。大学受験で一年休んでたんだけど、無事合格して新生活も落ち着いたからってバイト復帰。休む前は二年半くらい働いてたから、どんどん頼ってやって。何でも即解決しちゃうから」
森山さんの(たぶん)冗談に私は笑えなかったけど、目の前の男性は「忘れてることいっぱいあるか、即戦力にはなりませんよ」と笑った。それから私に向き直って「よろしくお願いします」と右手を差し出した。
「よ、よ、よ……。よろしくお願いします!」
出された手を両手で握り返す私は、完全な怪しいやつだ。それでも二人の男性は微笑んで「緊張しないで」とか「頑張ろうね」とか声を掛けてくれた気がする。優しい言葉が頭を通り過ぎていったのは、森山さんの隣にいる男性に意識が集中していたから。だって、だって、そこにいるのは、あのドラキュラさん! こんな奇跡ってありますか!?
「翔平なら大丈夫だよ。頼むよ、次期バイトリーダー!」
二人のやり取りが続いている横で、私はドラキュラさんの名前を心に刻みつけていた。
坂上翔平。それがドラキュラさんの名前。
これまで名前も知らなかったことを、初めて頭が理解した気がした。何も知らないのによく好きだなんて言えたね、と美咲ちゃんにはからかわれるかもしれないけど、このドキドキはやっぱり『好き』以外の何物でもなかったって、今なら自信を持って反論できるよ。
森山さんとじゃれ合っているドラキュラさんの笑顔は、十二年前の大人びた妖艶な雰囲気とは正反対、チョコラテのように甘くて魅力的だった。二面性で魅了してくるなんて、さすがドラキュラさん!
ドラキュラさん改め翔平さんから目を離せないまま、今年の夏休みが特別になりそうな予感で胸がいっぱいになった。