小さな一歩
緑に囲まれている校舎の中には、いつも蝉の大合唱が鳴り響く。夏休みに入る前に比べると、アブラゼミよりツクツクボウシの方が多くなったような気がするけど、まだまだ暑いことには変わりない。
葉っぱに隠れている見えない蝉だって悪気があって鳴いている訳じゃないんだし、暑いのは蝉のせいじゃない! って自分に言い聞かせてみるけど、結局はうだるような暑さに嫌気が差して窓から顔を背けた。そうして視界に入るのは、国語準備室だ。
「失礼しまーす」
中からの返事を待たずにドアを開けると、相変わらず長袖でこんなに暑い部屋にいる澤部先生は、すこぶる上機嫌なご様子。
「お、まともな挨拶もできるんだな。ノックなしの件は、今日は見逃してやろう」
もしかして先生、本当は蝉なの? だからいつも暑いところにいるの?
なんて、くだらないことを考えて暑さを紛らわしていると、突然シューッという音ともに涼しさが訪れた。
「え? 何!?」
驚いてキョロキョロとする私の頭上から、澤部先生の楽しそうな笑い声が降ってきた。
「そんなに驚くか? ただの冷却スプレーだよ」
カラカラと振って見せるスプレー缶に、ふいに桜庭くんを思い出した。そしてこれみよがしにため息をつく。なんだって最近の私は、こうもいたずら好きにからかわれるのだろう。
「先生はいつも暑いところにいるから、本当の姿は蝉なんじゃないかと疑ってたけど、そんなものを持ってるところを見ると、普通の人間なんですね」
白い目を向けながら放った私の言葉は、精一杯の嫌味ですよ?
「おいおい、蝉って。城戸は変なことばかり思いつくな」
私の攻撃じゃダメージを与えられないのか、先生は大袈裟なくらい笑った。
「普通の人間ってのもよく分からないけど、どちらかと言えば暑さは苦手だぞ、俺は」
そう言いながらニヤリと口角を上げた先生を見て、この人に何を言ってもまともな回答は得られないと諦めた。
「それより先生。昨日置いて帰ったノート、見てくれました?」
相手をしなくなった私にほんの少しだけ不満げな顔を見せた先生だったけど、渋々といった様子で机の引出しから私の問題集とノートを取り出す。いやいや、あなた先生なんだから、本業に専念しましょうよ。
そんなふうに思っていたのに、ノートを開いた瞬間、先生の顔つきが変わった。
「昨日白井が、分からないところを教えてやれって騒いでたけど、お前、ここまではほとんど理解できてるだろ? イージーミスは何個かあったけど、理解不足は感じなかった。この調子で進めていけばいい」
「ホント!?」
いつもの先生らしくない真面目なコメントに突っ込むことも忘れて、渡された問題集とノートを抱きしめた。
「今のところは、だけどな」
「先生、ありがとう!」
きっと満面の笑みで喜んでいるであろう私の顔を見た先生も、爽やかな笑顔を浮かべた。もしかして褒めてくれるのかな、なんて期待したのも束の間。
「だからって合格圏内には程遠いからな。気を引き締めて勉強するように! 十ページ進んだら、また持って来い」
釘をさすことを忘れない先生に、あっかんべーをして背を向けた。
それでも足取りは軽い。確かにK大学はそんなに甘くはないだろうけど、今は近づいた小さな一歩に、少しだけ浮かれたっていいよね。