秘密の出会い
「ゆららってば、また歩きながらお菓子なんか食べて」
六月の憂鬱な月曜日の朝、いつも一緒に高校まで歩く同じクラスの白井美咲ちゃんが、呆れた顔で私を見ている。
「美咲ちゃん、チョコはお菓子じゃないって言ってるでしょ」
私は得意気に美咲ちゃんの言葉を訂正した。口の中にはチョコの甘みが広がって、憂鬱な気持ちはすっかりどこかへ消え去り、代わりに甘い痛みが胸をよぎる。
「はいはい。あんたにとっては、王子様から教えてもらった大事な宝物なんだよね。もう耳たこだよ」
「分かればよろしい」
私はチョコレートの箱を鞄の中に隠した小さな保冷バッグにそっとしまいながら、にんまりと笑った。最近は気温も高くなってきたから、チョコレートを溶かさないためにも保冷剤と保冷バッグは必需品だ。
「そんなこと言ってると、いつまでたっても彼氏できないよ」
今度は心底心配な表情を浮かべた美咲ちゃんに向かって、「別にいいもん」と唇を尖らせて見せる。
気にかけてくれている美咲ちゃんには申し訳ないけど、私には十二年も待ち続けている『彼』がいるのだ。今さら他の人に目移りするなんてありえない。
「だいたいさ、そんな子どもの頃に一度会っただけの相手、今目の前に現れたところで本人だって分かるの?」
「それなら問題ないよ。絶対に分かるから」
ピースサインを見せつけながら自信満々で言い切る私の言葉に、きっと美咲ちゃんは根拠なんてないと思っているはずだ。だけど私の自信にはしっかりとした根拠があるし、今私の目の前を横切っただけでも彼だって気づくことができるんだから。
脳天気に見える私の言動に美咲ちゃんは大きなため息をついたけど、ため息の音は後ろからやって来た自転車のブレーキ音でかき消された。
なんだか嫌な予感……。
「城戸ゆらら、また昔話かよ。朝からおめでたいやつだな」
予感的中。背中に浴びせられる嫌味な声に、私は思わず眉をひそめた。振り向かなくても、こんなことを言ってくるのはあいつしかいない。
里村晃一。私や美咲ちゃんと同じ二年一組の生徒、つまり同級生で、おまけに美咲ちゃんの幼馴染だ。私のことが気に入らないのならいちいち絡んでこなきゃいいのに、こいつに優しくしちゃう美咲ちゃんと一緒にいるせいなのか、わざわざ嫌味を言いに来るんだから、こいつはきっと暇人なんだ。絶対にそうだ!
「もー、やめなよ。晃一はいつもゆららをいじめるんだから」
苦笑いの美咲ちゃんに、心の中で『もっとビシッと言ってやってもいいんですよ』とアドバイスを送ってみる。もちろん、美咲ちゃんにも晃一にも届くはずはない。
「美咲もこいつといると頭がおめでたくなるぞ」
晃一は捨て台詞を吐いてから、自転車で颯爽と走り去った。口を開かなければ、そこそこカッコいいのにな。残念なやつだ。
「ごめんね、ゆらら。あいつ、悪いやつじゃないんだけど、中身が小学生のままで……」
いいんだよ、美咲ちゃん。私はあんな子どものために自分の心を痛めたり思い悩んだりするほど暇じゃないからね。
もちろん、これも心の中に留めておく。
「でもさ、晃一の言うことも一理あるんじゃないかな。この先一生会えないかもしれない相手を待ち続けるなんて、ゆららの人生もったいないよ。いくら運命的な出会いだったって言っても、そんな小学生になるかならないかくらいの時のこと、相手はもう忘れちゃってるかもしれないんだよ?」
美咲ちゃんの指摘に、思わず全身が硬直してしまった。
うん? 私のことを、忘れている……?
「ちょっと、まさかあんた、相手が覚えてないかもしれないって可能性に気づいてなかったの!?」
私は「ははは……」と力なく笑った。笑うしかなかった。
美咲ちゃんのおっしゃるとおり、彼が忘れているなんて考えたこともありませんでした。
だって、彼と私の出会いは特別だったのだ。まるで映画のワンシーンのように、キラキラと光っていて、でも柔らかい春の陽射しのような素敵な思い出。まさか、忘れてなんていないよね?
私は彼と出会った日のことを頭の中でリプレイした。
**********
あれは十二年前の夏、私が五歳の時の出来事。
その頃の私は、とっても田舎の、森の中に建つ一軒家に住んでいた。一緒に暮らすのはおじいちゃんとおばあちゃん、お父さんとお母さん、そしてお兄ちゃんが二人。訳あってひとり暮らししている今とは比べ物にならないくらい大人数での生活だったけど、周りの環境のせいか今の方が賑やかな毎日を過ごしている気がする。
彼と出会った日は、夏だと言うのにしとしとと冷たい雨が降る、薄暗い日だった。私は一人で森の中を散歩していた。確か、お兄ちゃんに意地悪を言われたとか、そんなつまらない理由で家を飛び出したような気がする。目に涙を浮かべながら歩く雨の森は、私の心を優しく包んでくれた。考えてみれば、落ち込んだ時はいつも、森の中へ逃げ込んでいたっけ。それが雨の日なら尚更、森は私を癒やしてくれた。だから雨の匂いは子どもの頃から嫌いじゃない。瑞々しい中に青々とした新鮮な葉っぱの匂いが混じっているのは、とても魅力的だと思う。
いつもの小さな湖のほとりで、私は一人石ころを投げて水面に波紋を作っていじけていた。雨が作る波紋よりも、もっとはっきりとしていて暴力的な波紋が、私の腕の動きに合わせて水面に広がっていく。弱々しい雨の波紋を、私の作った大きな波紋が飲み込んでいく様子を見ていると、なんだか少しだけ怖くなった。そんな心細い気持ちになったせいで、後ろの茂みからガサガサと聴こえてきた物音に、ほんの一瞬だけビクリと怯えてしまった。
だけど冷静に考えて、こんな森の奥深くまでやって来るのは動物くらい。人間に会ったことなんて一度もなかった。リスにしては大きい物音だけど、熊にしては大人しい物音。首を傾げながら茂みを見つめていると、そこに現れたのは、幼心にも分かるほどとびきり綺麗な男の子だった。
薄暗い森の中でも分かる栗色の髪の毛。少し潤んだくりんと丸く愛らしい瞳。すらりと通った形のいい鼻。厚くも薄くもない絶妙な唇。適度に日焼けした滑らかな肌。すらりと長いバランスの取れた手足。
水色の傘をさしながら現れた少し年上の男の子に、私の目は釘付けになった。人間離れしたその美しさは、知らない人間が目の前に現れたというのに、まったく恐怖心を抱かせなかった。
彼は私の存在をその瞳に映すと、ふっと優しい微笑みを浮かべた。その笑顔があまりにチャーミングだったから、私の目に溢れていた涙は流れることを忘れたみたいだった。
彼はゆっくりと私に歩み寄った。
「どうして泣いているの?」
持ってた傘を私にかざしながらそう尋ねてきた彼の声は、丸みを帯びた柔らかい音符のように優しく私の耳に響いた。
「ちょっと、おうちで嫌なことがあって……」
初対面の男の子なのに、名前も知らない人なのに、どぎまぎしながらも本当のことを答えてしまっていた。
「そっか。それなら、僕の宝物を分けてあげる。これはね、特別な魔法がかけられた食べ物なんだ。食べたらきっと優しい気持ちになれるよ」
彼は私の右手を取って、ひと粒のチョコレートを乗せた。
「魔法?」
チョコレートを見つめながら、非現実的な言葉をオウム返しにつぶやいた私の中に、彼はいくらか懐疑的な響きを感じ取ったのかもしれない。少しだけ困った顔を見せて、それからまた微笑んだ。
「そう、魔法。僕はね、本当はこの森に住むドラキュラなんだ。だから魔法だって使える。君にあげた特別な食べ物には、僕の魔法がかかっていて、君が食べれば優しい気持ちになれるし、僕が食べると人間の姿になれるんだ。その証拠に、ほら、僕の体は今、どこからどう見ても人間でしょ?」
確かにあの森にはドラキュラ伝説が囁かれていて、時折興味本位な人間たちが森の中まで探索に来るという話は聞いたことがあった。けれど彼の話はあまりに現実からかけ離れていて、五歳でも負けん気の強かったいつもの私なら即座に口ごたえしていたはずなのに、彼の笑顔と傘に響く雨の音が私に反論することを許さなかった。
「これは二人だけの秘密、ね?」
彼が右手の人差し指を唇に当てた時、小指の第一関節から血が出ているのを見つけた。
「ケガ、してる」
私は彼の手を取り、傷口をペロリと舐めた。少し酸っぱくて、でも彼が纏う雰囲気と同じように甘い味がした。
「これじゃ、どっちがドラキュラか分からないね」
彼はクスッと笑うと私の頭を撫で、そして「ありがとう」と言って再び茂みの中へ消えていった。水色の傘を、私の左手に握らせて……。
**********
「ゆらら、ゆららってば! 大丈夫? 意識がどっか飛んでいってたよ」
美咲ちゃんの声に、私は現在へと戻ってきた。
「ごめん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
慌てて笑顔で誤魔化すけれど、美咲ちゃんは白い目を向けてきた。
「どうせ、王子様のことでも思い出していたんでしょ」
まったくもってそのとおり。反論の余地はございません。
「しっかりしなさいよ」という美咲ちゃんの横顔をチラリと盗み見る。
本当は王子様じゃなくて、ドラキュラさんなんですよ、美咲ちゃん。
すべてお見通しの美咲ちゃんだけど、彼がドラキュラと名乗ったことはさすがに秘密にしてある。もし教えたら、確実に「そんな夢みたいな話、早く忘れなさい!」って怒られるだろうから。
「あれ? ゆらら、こんなところに痣なんてあったんだ?」
制服の右袖から覗いた二の腕の痣に、美咲ちゃんが顔を寄せた。
「あー、これね、生まれつきなの」
無意識のうちに、私は左手で痣を隠していた。
「全然気づかなかった。ま、そんなに目立たないから、気にするな!」
美咲ちゃんは明るく笑った。私もつられて笑っていた。
あれから十二回目の夏がやって来る。
ドラキュラさん、早くあなたに会いたいです。