放逐
クァールーンの姿が完全に視界から消えると同時に、ファラシアの身体から一気に力が抜ける。
地面にへたり込んだ彼女の周りを、ゼンが頭を上げ下げしながらおたおたと歩き回った。
「血が足りないだけ。休んでいれば、すぐに……すぐに元通りよ」
そう言い聞かせるとうろつきまわるのは止めたけれども、不安そうな様子は変わらない。スンスンとファラシアの匂いを嗅ぎ、鼻づらを押し付けてくる。そのゼンが、不意にファラシアを庇おうとするように覆い被さり唸りを上げた。
ゼンが睨み付けている方向に首を廻らせると、ミリアが胸の前で両手を握り締めて佇んでいた。更に彼女の後ろには、やや遠巻きにガスや他の村人たちもいる。
「ゼン、いいのよ」
ファラシアの言葉でゼンが一歩下がり、待ちかねたようにミリアが駆け寄ってきた。
「ファラシア、大丈夫なの!?」
両手両膝を地面に突いて、ミリアがファラシアの顔を覗き込む。斜めに切り裂かれた服と、そこを濡らしている真紅の液体に気付き、ミリアの顔が強張った。
「平気、平気。血がちょっと足りなくなっただけ。傷はもう治しちゃったから」
我がことのように蒼褪めたミリアに、ファラシアは笑いかける。多分、それほど無理のない笑みを浮かべられたのだと思う。ほっとしたようにミリアが頬を緩める。
が、和らいだ空気をたたき割るかのように、その背後から、固い声が響いた。
「あんた……本当に人間なのか?」
疑心に満ちてひび割れた声で、村人の一人がそう問いかける。
「何を言ってるの!?」
険しい声でそちらを睨み付けたミリアを、父親が制した。
「ミリア、いいからこっちに来るんだ」
「父さん!」
よくよく見ると、集まった男たちは皆顔を引き攣らせ、手に鋤や鍬、弓矢などを持っている。再び背中の毛を逆立て牙を剥き出したゼンを恐れて近寄ろうとはしないけれど、彼がいなければファラシアの身は無事では済まなかっただろう。
ファラシアは頭を下げたゼンの首に手を置いた。そうしないと、誰かが少しでも動いたら、その瞬間に炎を見舞ってしまいそうだった。
「あれ、さっきの紅いの、あれが本物の龍なんだろ? ヒト型の魔物なんざ聞いたことがねぇが、ありゃ、どう見たってヒトじゃねぇ」
「ああ。あんな色した人間、いるわけないからな。あんただってそうだ。オレはあちこち旅したことがあったがな、髪も目も黒い奴なんか、見たことない」
「やけに親しげに話してたじゃないか。あんたを知ってるようにも見えたぞ?」
「あんたほどの力を持ったものがヒトであるとは思えない。それに、そこにいる化け猫。そいつは魔物だろう? 魔物を連れた魔道士なんぞ、聞いた事が無い」
「あんただって、実は魔物なんじゃないのか?」
口々に不審をあらわに言い立てる村人たちから庇うように、ミリアが両者の間に立ちはだかる。
「父さん! 何とか言ってよ! ファラシアは怪我しているのよ! わたしたちのために闘って、怪我したんじゃない!」
娘の糾弾に、ガスはほんの一瞬、眦を歪めた。けれどすぐに、他の村人たちと同様、声を上げる。
「ああ、だが自分で治しただろう。それどころか、魔物の傷まで治していたじゃないか。息の根を止めるのが当たり前だというのに」
「それは――!」
両手を握り締めて更に言い募ろうとしたミリアの服の裾を、ファラシアは引っぱった。
「ミリア、お父さんと喧嘩しないで」
ゼンを支えにしながら上半身を起こし、ガスに視線を向ける。
「すぐにこの村を発ちます」
「そうか……そうしてくれると有難い」
そこで初めて、ガスはチラリと申し訳無さそうな色をその眼に走らせた。そして、ゼンを刺激しないようにゆっくりと歩み寄ってくると、手の平よりもやや大きいぐらいの皮袋を差し出した。
「わずかだが、礼を用意した。──ミリア、ライアから服を幾つか貰ってきなさい」
父親の言葉に、ミリアはキッと彼を睨みつけ何も返さぬまま身を翻した。
ガスは未だ怒りをあらわにしているゼンを恐れるふうもなく、ファラシアを抱き上げると彼に乗せた。その背の上で彼女が安定するまで支えてくれて、身を離す間際、彼は他の村人には聞こえないような小さな声でファラシアの耳元に囁いてくる。
「すまない」
ファラシアは表情には出さず、解っている、という意思を瞳に込めて返した。
ガスはもう一度目尻をつらそうに歪めてから、村人たちの輪の中に戻っていく。
彼の手のひら返しに対して、本当に、彼女の中に怒りはない。ほんの欠片ほども。
ファラシアがガスの家で寝泊りしていたということから、村人たちは彼らが彼女を庇うのではないかという不審感を抱いているに違いない。彼女に対して突き放した態度を取らなければ、ファラシアのみならず、ガスの家族まで私刑の対象となっていただろう。村人たちの間にピンと張り巡らされた糸はほんのわずかなきっかけで切れ、その途端、一気にファラシアのみならず、ガスたち一家にも襲い掛かるのは必至だ。
さほど間を置かずに、ミリアが両腕に布の塊を抱えて、息せき切って戻ってくる。
「ファラシア、これを……」
取り敢えず服を押し付け、更にマントを着せる。
「ありがとう」
微笑みながら礼を言うと、また、ミリアの顔がクシャリとなった。
「ファラシア……」
怒りと不安と悲しみに満ちたミリアの眼差しを和ませることは、ファラシアにはできない。
「また、逢えるんだよね?」
潤んだ眼に、ファラシアは首を振る。
本当は、笑って、またねと言ってやりたかった。
しかし、決して果たすことができない約束を交わすことはできない。
最初から、魔物の脅威を追い払ったらすぐにこの村を後にするつもりではあった。七日でも居過ぎたくらいだから、闘いが終われば、すぐにでも。
(でも、こんなふうに涙を浮かべる別れにしようとは思っていなかったんだけどな)
ファラシアは手を伸ばしてミリアの目尻からこぼれた涙をそっと拭った。
「さようなら」
それだけ言って、ファラシアはゼンの首筋を軽く叩く。彼は、「いいの?」とでも問うているかのように振り返り、そして歩き出す。
「ファラシア! ごめん、ごめんね!」
ゼンは束の間足を浮かせ、両頬をぐっしょりと濡らしている少女をチラリと振り返ったけれども、すぐにまた歩き出した。
村人に疎まれ立ち去る一人と一匹を追いかけそうになったミリアの肩を、ガスが引き止める。後を追わせても何もならないことは解りきっていることだった。
ミリアは父の手を振り払い、険しい眼をむける。
「父さんも皆も、ひどい。龍かもしれない魔物の退治を頼んだのは、あたしたちじゃない。それを、追っ払ってくれたら、今度はファラシアのこと寄ってたかって……! ファラシアは、この村の為に、あんな凄い魔物と闘ってくれたのに!」
年端もいかない少女の非難に、村人たちは居心地悪そうな様子で目を見交わした。
更に言い募ろうとしたミリアを、家から出てきたライアが制す。ガスに目配せをし、娘の肩を抱いて家の中へと戻っていった。
後に残された男たちは妙な後味の悪さを噛み締めたまま、誰からともなく各々の家の中に消えていく。言葉を交わす者はいなかった。
──彼らの心は、翌日訪れる者たちによって、わずかばかり、その重さを減じることができることになる。




