襲撃前夜
クレイン家に宿を借りてから、六日が過ぎた夜。
この六晩は、何事もなく終わった。
これまでの法則からいけば、明日、ファラシアは問題の魔物と対峙することになる。
龍だと言われている魔物についての情報は、乏しかった。村の人たちに一通り話を訊いて回ったけれども、ガスから聞かされたこと以上のものはない。ただ、襲われた場所が次第に村に近付きつつあるらしいことだけが、何となく伝わってきた。村人が遠出をしなくなったせいなのか、それとも、複数のヒトの気配に呼び寄せられているのか。
過ぎた六日間と同じように、夕食を終えた後、ファラシアはミリアと一緒に彼女の部屋に引き取った。最初の日こそはにかんでいた少女は、今はファラシアを姉のように慕ってくれている。
ミリアと枕を並べたファラシアは、窓に目を遣った。そこにはほぼ満月と言っていい銀盤が浮かんでいる。
(明日には、来るわよね?)
来て欲しいという思いを込めて、胸の中でつぶやいた。
もしも来なかったら、どうしよう。
追われる身であるファラシアは、あまり長くはここに留まってはいられない。六日でも、長く居過ぎたくらいだ。力を使っていないから察知されずにいるけれど、物理的に追っ手をかけられたら、ひとところにいればいるほど見つかる可能性は高くなる。
(あとひと月は、いられない)
となると、魔物に脅かされるこの小さな村を、見捨てなければいけなくなる。
そうはしたくなかった。
ファラシアは、窓から目を離し、寝返りを打つ。
と、その時。
「あたしね、恐いの。とっても」
夜も更け、てっきりもう寝ていると思っていた少女が、不意に呟いた。
「ミリア……?」
顔を横に向けると、ミリアの仔犬のような茶色の瞳がファラシアを見つめていた。月明りを反射し、その目が微かに潤んでいるのが見て取れる。
「あの魔物が現れるようになって、色んな話を聞いたわ。ぎゅうぎゅうに締め付けられて、身体中の骨を砕かれるとか、生きたまま一息に呑み込まれてしまうのだとか」
「……」
「ねえ、ファラシア。あなたは恐いと思ったことは無いの? 魔道士だったら、何度も魔物と戦ったのでしょう? もう嫌だって、思ったことは無いの?」
「ミリア」
宥めようとしたファラシアの隣で、ミリアが両腕を立てて上半身を起こす。
一度だけ、ファラシアの足元に丸まっていたゼンが何事か、というように頭をもたげたけれど、たいしたことがないと見て取るとまたすぐに両足の間に頭を差し込んだ。
「あなた、死んじゃうかもしれないわ。龍って、伝説の魔物でしょう? すごく強いって聞いたわ」
ミリアはそこで唇を噛む。そして、意を決したようにまた開いた。
「……ねえ、逃げて。ファラシアはこの村とは何の関係も無いのよ。この村の為に戦う必要なんて、ない」
ミリアの真剣な眼差しが煌めいて、暗闇の中でも痛いほどにファラシアを刺す。
魔物の襲撃を間近に控えて、不安と恐怖が溢れ出すのを抑えきれなくなったのだろう。
ファラシアも起き上がり、ミリアと視線を合わせた。
「ミリア、落ち着いて。わたしは大丈夫。とっても強いんだから。今までも負け知らずだったのよ」
「でも、今まで大丈夫だったからって、今度も大丈夫だとは限らないわ。そうでしょう? もう、何人も殺されているのよ。結局、戦士の方は間に合わなかったし」
ミリアのその目から、ついに雫が零れ落ちた。
ファラシアは両手でミリアの頬を包んで親指で涙をぬぐい、下に落ちてしまった彼女の視線を持ち上げさせた。覗き込むようにして、目と目を合わせる。
「ねぇ、ミリア。あなたは優しい子ね。でも、大丈夫、ファラシア・ファル・ファームが約束するわ。あなたたちを脅かしているものを、必ず取り除いてみせるって」
「ファル……? あなた、大魔道士なの?」
ミリアが潤んだ目を見開いた。ポカンと呆気に取られた顔をしている彼女に、ファラシアはおどけた素振りで片目をつぶってみせる。
「そうよ。この年で大魔道士なんて、ほとんど伝説的なんだから」
だから追われることになったのだけどね、というぼやきは内心のものに留めておいた。
「とにかくね、もう寝なさい。予定通りなら明日が勝負になるのだから」
優しく言い添え、ミリアの肩を押さえて、そっと寝かしつける。
何だか無性にこの少女がいとおしかった。
「大丈夫、相手が龍だろうが何だろうが、勝ってみせるわよ」
「ファラシア……」
ミリアが肩に置かれたファラシアの手に小さな手を重ねる。
「お願い。お願いだから、死なないでね?」
「ええ、もちろん」
自信に満ちた声でそう答え、ファラシアはすがるような少女の眼差しに力強く頷いた。