森の中の小さな村
自分が追われる身になるとは、思ってもみなかった。
ファラシアは街道から離れた森の中を歩きながら、途方に暮れていた。隣にはあの山猫もいる。今は『普通の山猫』程度になっていた。物理的にも魔道的にも縛っているわけではないというのに、都から離れてもこの山猫はファラシアから離れようとはしなかったのだ。
ファラシアは『協会』から追われる身だ。できるだけ早く離れてもらうつもりだったけれども、呼び名がないのも不便なので、ひとまず、彼女はそれに古代神聖語で炎を意味するゼンと名付けた。
もう何度目になるか判らないファラシアの大きな溜め息に、ゼンの耳がピクリと動く。
「あなたは、もう自由なのよ。わたしといると、一緒に狩られてしまう……早く逃げなさい」
しつこいほどに繰り返した言葉を、彼女はもう一度口にした。そしてゼンは、それまでと同じように瞬きをしてみせるだけだ。頷いているようにも見えるけれども、離れようとする素振りは全く見せない。
「わたしの言うことは理解できているのよねぇ」
そう呟いて、ファラシアはゼンの頭を撫でる。
息の根を止めなかったファラシアに懐いてしまったのか、助けてもらったクリーゲルに恩でも感じているのか。
走って逃げたところで山猫に敵うはずもないし、ゼンの方に離れる気がないのなら仕方がない。
取り敢えず彼のことは置いておいて、まずは自分の身の処し方だ。
「これからどうしようか……」
答えの無い自問が、宙に浮く。
サウラの外れの小屋が、無性に恋しかった。この全てが、本当はあの小屋の自分の部屋で柔らかな毛布に包まって見ている夢なのだとしたら、どんなに幸せなことだろう。
とにかく都から離れるのが先決であることは確かであったから足を進めていたけれど、行く当てなど全く無い。
もしも『協会』に縛られていなかったら、世界中を旅して回りたい──そう夢想していたこともある。しかし、いざやってみると、目的の無い旅がそれほど愉快なものではないことを思い知らされた。
物言わぬ連れと共に、てくてくとしばらく歩いていたけれど。
「あら……?」
小さな声と共に、ファラシアの足が止まった。
夕暮れ時も過ぎて薄暗くなってきた中に、幾つかの明かりがちらついているのが見えたのだ。地図によれば、この辺りに村は無いはずである。
最近できた村なのか、それとも地図にすら載らないほどの小さな村なのか。
近付くにつれ、それが後者であることが判り始めた──あるいは、できたばかりでこれから大きく発展していくのかもしれないが。
村とも呼べないほどの集落で、家屋は、十軒から多くても十五軒。それ以上あるとは思えない。
「野宿にならないことを喜ぶべきかしら、それとも、人目に付くことを避けるべきかしら……? どちらにしても、ゼン、あなたは猫ぐらいになれるかな?」
ファラシアが具体的に両手でどのくらいかを示してみせると、ゼンは了解したというふうに一度瞬きをし、一瞬にしてそのとおりの大きさになった。
「本当に猫みたいね」
笑いながら、ファラシアは小首をかしげて彼女を見上げているゼンを片手に抱き上げる。
村はグルリと低い柵で囲まれていたけれど、その高さでは、果たして、魔物どころか獣避けにすらなるのかどうか疑問だった。
広場となっているところまで来ると、ファラシアは軽く周囲を見回し、その中で一番大きそうな家の戸を叩いた。ほとんど間を置かずに扉は開かれ、中から四十歳ほどの男が顔を出す。そこに不安と怯えが溢れているのを見て、ファラシアは一瞬、自分のことがもう伝わっているのかと身構えた。けれど、すぐに肩の力を抜く。自尊心の塊のようなものが集まっている『協会』が身内の恥を触れ回るわけが無い。
「あの、一晩だけ泊めていただきたいのですが」
「あ……あ、旅の方ですか……」
あからさまにほっとした様子で、男が身体を引いてファラシアに中へ入るように促した。
家の中には、男の他に、彼の妻と思われる女性と、ファラシアと同じ年頃の少女がいた。一同は揃って不安そうな面持ちをしている。
「わたしはファラシア・ファームです。旅の途中で道に迷いまして」
「それは難儀なことでしたな。ああ、私はガス・クレインです。一応、この村の村長をやっています。ご覧のとおり、小さな村ですが。あれは妻のライア、娘のミリアです」
ライアと呼ばれた年配の女性が立ち上がってファラシアを椅子へと招いた。
「お疲れでしょう。お食事は? たいしたものはありませんが、パンとスープぐらいならすぐに用意できますよ」
言いながら、ライアはファラシアの返事を待つことなく火の傍へと行き、鍋を温め始めた。ミリアもゼンの為にミルクを皿に注いでくれる。
「ありがとう」
ファラシアが笑いかけると、ミリアははにかんだ微笑を返した。特に際立った顔立ちではないのだけれど、人を惹きつける笑顔だ。
「いただきます」
ライアが出してくれたパンとスープを、ファラシアは有難くいただく。振り返ってみれば、『協会』に着いたときに軽食をもらったくらいで、ゼンを倒してからは放置状態だったのだ。空腹であることを、目の前に食べ物を出されたことで思い出した。
嬉々として匙を取ったファラシアだったけれども、数口で、スープを口元に運ぶ手を止める。
「……何か、心配事でもあるんですか?」
「え?」
ガスが伏せていた顔を上げる。
「あの、何だか空気が重くて……」
「え、あ、そうですか……?」
取り繕うように作った笑顔は、明らかに引き攣っていた。
「わたし、こう見えても魔道士なんです。何かできることがあれば言ってください」
「魔道士、ですって?」
「はい。一宿一飯の恩です。わたしにできることがあるなら……」
最後まで言い終えることはできなかった。立ち上がったガスが、ファラシアの両手を渾身の力で握り締め、振り回す。その顔は、まさに必死の形相、だ。
「魔道士様! 私たちを──この村を、助けてください!」
「まず、事情を話してもらえませんか?」
ガスのあまりの剣幕に、いささか引き気味にファラシアは言った。
「あ……すみません。つい、舞い上がってしまって」
ガスは手を離して椅子に尻を戻したけれど、まだ息は荒かった。
「実は、半年ほど前からこの近辺に魔物が出るようになったのです」
「魔物ですか。それならわたしの専門分野です」
「しかし、ことはそう簡単ではないかもしれません」
「と言うと?」
「その魔物と出くわしたものは皆死んでしまったのですが、一人だけ息を引き取る前に話をすることができた者がいました。……彼が言うには、どうやら、そいつは龍らしいのです」
「龍、ですって?」
ファラシアの高い声に、足元でミルクを舐めていたゼンが顔を上げる。
「すみません、つい大声を。でも、本当ですか? 龍が人間を相手にするとは思えませんが……」
「しかし、うわ言で龍だ、と……」
ガスは不安そうな顔をする。ファラシアの口に手を当てて考え込む様子が、怖気付いたように見えたからだろう。
「ファラシアさん……?」
「ああ、いえ、何でもありません。それで、どのくらいの頻度で出没するんです? 次はいつ頃現れるのか、予測が付きますか?」
「そうですね、これまではいつも満月の夜に出ていたような気がしますから、あと七日もしたら出てくるかもしれませんが」
「七日……それまでこちらにお世話になってもよろしいでしょうか?」
「ええ……ええ、もちろんです!」
ファラシアの言葉に、ガスが熱を込めて頷く。
一方で、ライアは心配そうな面持ちだった。自分の娘とそう年の違わない少女を恐ろしい魔物と闘わせることに、少なからぬ躊躇いを覚えているようだ。
「大丈夫ですよ。こう見えても、わたしは結構強いんですから」
ファラシアは眉を曇らせているライアに微笑みかける。
「でも……」
「ライア、ファラシアさんは大丈夫だと言っているんだぞ」
ガスが咎めるように言う。下手に止め立てして気が変わられたら、と気が気ではないのだろう。
「実は、一人、戦士の方にもお願いしてあるのですが、予定よりも到着が遅れているんです。もしかしたら、間に合わないかもしれません。そうなれば、お独りで、ということになってしまうのですが……」
そう言って、ガスは同意を求めるようにライアを見る。その視線の中には、余計なことは言うな、という色が含まれていた。
ライアはそんな夫に何か言おうとしたが結局口籠り、ファラシアに向き直った。
「……ファラシアさん、ミリアと一緒の寝台でよろしいかしら。狭いとは思いますけど」
「わたしなら床でも構いませんが」
そう言ったファラシアに、ライアが首を振る。
「とんでもない! 女の子にそんな事をさせられないわ」
ライアの言葉に、ファラシアはリーラのことを思い出す。
(母親というのは、皆、こういうものなのかしら?)
内心そう呟いて、ファラシアはミリアに向き直った。
「わかりました、じゃあ、そうさせてもらいます。ミリア、よろしくね」
「こちらこそ、ファラシアさん」
「ファラシアでいいのよ」
そう言って、ファラシアは片目を閉じる。
「……ファラシア」
言い直して、ミリアはまたあの笑顔を見せた。