いつか、必ず
「ファ……ラ、シア……?」
途切れ途切れの、震える声。
けれど確かに、彼女はファラシアの名前を呼んでくれた。
「リーラ、気が付いた?」
温もりを取り戻しつつあるふくよかなその手を取り、ファラシアは頬に押し当てる。
「イヤだわ、きれいになって……見違えちゃった」
身にまとう色も年もガラリと変わっている相手に向かって、まるで久し振りに会った近所の小母さんのようなリーラの台詞に、ファラシアは眉間にしわを寄せる。
「リーラ、状況解ってる? あなた、死にかけたのよ?」
半ば咎めるような口調でそう問うと、リーラはニヤリと笑った。
「解ってるわよ。あたしも、もうダメだと思ったよ。キレイな花畑がすぐそこに見えたもの」
「リーラ!」
シャレにならない言葉に、ファラシアは思わず声を荒らげた。けれど、それを制するように、リーラは微笑む。今度のそれは、からかいを含んだものではなくて。
「あんたが引き戻してくれたのよ?」
温かな慈しみがこもった声に、ファラシアは唇を引き結んだ。
「それは、カリエステ様が留めてくれていたからよ。そうでなければ、間に合わなかったわ。わたしは起きた事から目を逸らして、危うく全てを駄目にするところだった」
「最後の最後で助けてくれたのは、あんたじゃない」
「でも、わたしさえいなければ、そもそもこんな目に遭わなくて済んだのよ!」
そう叫んで固く目を閉じたファラシアの頬に、そっとリーラの手が触れる。
「違うのよ。悪いのは、自分達とは違うものを受け入れようとしない、あたし達の方なのよ。あんたは、一生懸命にこの社会に入り込もうと頑張ったわ。でも、ヒトは弱いから……」
「リーラ……」
ごめんね、と小さくこぼしたリーラに、ファラシアは返す言葉を見つけられない。
お互いに押し黙ってしまったファラシアの頭の上に、後ろから、ポンと誰かの手が置かれた。小さな子どもに対するようなその所作に、ファラシアは振り返る。そこには、いつの間にかクリーゲル、ノア、ゼン、そしてクァールーンが立っていた。
「師匠……」
やるせなく、ファラシアは養い親を呼ぶ。彼なら、何か答えをくれるような気がした。けれど、クリーゲルはクシャクシャとファラシアの髪を掻き混ぜ、残念そうな声を上げただけだった。
「あーあ、せっかく苦労して着けた色だったのに、すっかり元に戻っちまったなぁ」
呑気な声で、聞き捨てならない台詞である。
「師匠、それってどういう意味……」
「言葉の通りだろ? お前の黒目黒髪は俺がやったんだよ。拾った時もこの色でな、いや、もっと無難な色を着けようとはしたんだが、どうしても茶髪や金髪、青目なんかの薄い色じゃぁ、駄目だったんだよ」
「そうではなくて、この色で、おかしいと思わなかったんですか!? 明らかにヒトではないでしょう!?」
「まあな。ヒトではないのは判ったが、ヒト型の魔物にしちゃ、器量良しだったし。よほど力のある魔物か、まあ、もしかして……とは思ってたさ。もっとも、本やらタペストリーやらでならよく知っていたが、まさか本物にお目にかかることになるとは思ってもみなかった」
はなからファラシアが人間ではないことを知って、拾い、養ったというのか。そして、それを今まで全く、おくびにも出さなかったわけだ――ファラシアが自らの能力に悩んでいたことを知りながら。それはあんまりではなかろうか。
「師匠……、一言、言ってくれれば……」
知ったら知ったでまた別のことで悩むことになっていたのかもしれないけれど、自覚があればもっと慎重に力を使っていたかもしれない。
「すまんな」
がっくりと肩を落としたファラシアに、クリーゲルが返したのはそれだけであったが、そこに含まれる様々なものを、彼女には知る由もない。足りない言葉を補ったのは、カリエステだ。
「そう見えて、その男も甘ったれだからの」
白髭をしごきながらそう言った老協会長に、クリーゲルが目を剥く。
「ちょっと、カリエステ様!」
「娘が自分はヒトではないと知り、仲間探しに出てしまうことを恐れたのだろ?」
ズバリと指摘され、クリーゲルがグッと言葉に詰まる。ファラシアはそんな養い親を睨み付けた。
「お伽話の天使みたいに正体が判ったら飛んでいってしまうなんてこと、するはずないじゃないですか」
「そんなの解っちゃいるけどな、やっぱ、複雑な親心ってのがあるんだよ」
クリーゲルはそう言って、妙齢の美女となったファラシアの頭を、子ども時分によくやったようにワシャワシャと掻き回す。そして、照れ隠しのように話題を転じた。
「そう言えば、カイルはどうなったんだ? お前のところに行っただろう?」
あの小生意気な少年がこの話題に口を挟んでこないのは、おかしい。軽く辺りを見回してみても、その姿は見えない。
ファラシアはにこりと笑って片手を自分の胸に当てた。
「カイルはわたしの中に居るわ」
「お前の中?」
コクリとうなずいたファラシアに、クリーゲルを始めヒトの面々とゼンは首をかしげている。そこに、クァールーンが言葉を挟んだ。
「ファラシアの目を、よく見てみるといい」
「クァールーン」
パッとファラシアは彼に振り返った。そう言えば、気配でそこにいることには気付いていたけれど、完全に無視した形になってしまっていた。
「あなたがカイルに力を貸してくれたんですね。ありがとうございます」
「そなたには貸しがあったからの。そら、皆にその目を見せてやれ」
「はい」
クァールーンの促しにうなずいて、ファラシアは少し目を見開いた。そこを覗き込んだクリーゲルが、つぶやく。
「……褐色が混ざってる。俺が色を付ける前はなかったぞ?」
「それが、キャンイールーがファラシアの中に居るという証だ。あの少年は大地と風の力を持っておってな。たいていは両方の力を使えるようになるものだが、彼は相殺されてしまっていたようだ。確かに力は存在していたが、それを用いることはできずにいたのだろう」
さぞかし苦労しただろうなと肩をすくめたクァールーンに、ファラシアは顔をうつむけ、胸に手を押し当てた。
カイルは、力を持っているのにそれを使うことを良しとしないファラシアに、時々ひどく苛立ちを見せた。
今なら、ファラシアにもその理由が解かる。
彼女は、『持っている』ことで苦悩した。
けれど、カイルは、『持っていない』ことでつらい思いをしてきたのだ。
(もっと、ちゃんと話をすれば良かった)
ファラシアは唇を噛んで胸の中でつぶやいたけれども、それは、けっして先に立たない後悔だ。
ある一つのことに対して、望むもの、抱く思いが異なれば、まったく別の感情を引き起こす。
それが判っていなかったから、ファラシアはカイルの苦しみに寄り添うことができなかった。どうして彼が怒るのか、理解することができなかった。
(いつか、ちゃんと話をしようね)
ファラシアは、自分の中で眠る少年に囁いた。過ぎたことは変えられなくても、これからのことは、どうにだってできる。
次に逢えた時には、色々なことを話して、怒って、笑って、ちゃんと、お互いに何を感じているのか、何を思っているのか、解り合おうとしよう――どれだけ彼が腹を立て、呆れても、諦めず。
そう、ファラシアは心に決める。
そんな彼女の横で、クァールーンがクリーゲルたちに向けて言葉を継ぐ。
「我らは、番を作っても、すぐにその場で別の個体を再構築するか、あるいは暫らく融合したままで過ごし、気が向いた時にそうするかを選ぶことができる。だが、融合しても、大体は前身の個体の意識なども混ざり合って存在するようになるのだが……あれは、余程お前を残したかったらしい。見事に自分の意識は封じ込めたな」
「ええ。なんて言うか……わたしの中でカイルが眠っている感じ」
目を伏せ、意識を自分の中に向けると、確かに奥底で心地良い温もりが感じられる。ふと口元で微笑んだファラシアに、ノアが首をかしげた。
「ヒトで言うところの婚姻関係を結んだということと同義なのか……?」
「なんとなく、面白くないな」
ファラシアの素振りとノアの台詞に、クリーゲルがボソリとつぶやいた。
「まったく。お前は、たとえ苦労することが解っていても、やはり何度でも同じ選択をするのだろうな」
一人娘を男に取られて不貞腐れる父親に、カリエステは呆れたと言わんばかりの溜息を吐いた。そうして、その目をファラシアに向ける。
「それで、ファラシアよ。これからどうするつもりだ? 龍だということまではともかく、少なくとも、ヒト非ざる身だということは知られてしまった。とは言え、我ら人ごときが龍をどうこうできる訳もない。死んだことにして、『協会』からは名前を抹消することになる。それでも、暫らくはこの国から離れて貰わんとならないがな」
「ですけどね、カリエステ様。こんな人間離れした奴、いったい、誰が殺したことにするんです?」
「自滅したとでも言っておけばいいだろう。幸い、皆、蜘蛛の子を散らすようにさっさと逃げおったからな。何、ヒトは自分にとって都合の良いことを受け入れたがるものじゃよ。ファラシアがこの国にいないとなれば、それで満足するだろう」
飄々と言ってのけたカリエステに、クリーゲルが「この狸が」とか何とかつぶやいた。
「それで構いません。でも、わたしは人の傍に居すぎました。今更人から離れて生きてはいけません。人に紛れて、人の中で生きていきたいのです」
淡く微笑み答えたファラシアに、カリエステが眉間にしわを刻む。
「しかし、真の意味で人と生きることはできんぞ。それは辛くないか?」
「それでもいいのです」
真っ直ぐに、揺らぎ無く。
しばしファラシアの眼差しを受け止め、カリエステは小さく息を吐いた。
「いっそ、ヒトを見限ってくれればいいものを」
諦めたようなカリエステの呟きに、ファラシアは小さく笑って答える。チラリとクリーゲルやノア、リーラの方に視線を送り。
「人間全てを嫌いになるには、大事な人が多すぎます。確かに、わたしを受け入れてくれない人たちもいるけれど、同時に、想ってくれる人もいますから。たとえ百人に疎まれているとしても――わたしには、わたしを想ってくれるほんの数人の人達の方が、重いんです」
「仕方が無いの」
「はい、仕方がありません」
言いながら、ファラシアの笑顔は晴れやかだった。一礼して『協会』の長に背を向ける。振り返った先には、その『大事な人たち』がいた。
「ノア、もう少し一緒にいてもらえるかな。追手はもうないし、護衛は必要無くなっちゃったんだけど、まだ、一緒に居たいの」
「それは構わない。いずれにせよ、ガスとの契約期間はもう少し残っているしな」
その素っ気ない言い方の裏側を、この数ヶ月を共に過ごしたファラシアには、もう判断できる。ニッコリ笑って頷いた。その手に、心地良い温もりが擦り付けられる。
「ゼン、あなたも来てくれるの?」
訊ねれば、言うまでも無い、と彼は金の両目をギュッとつぶった。
その頭を一撫でして、先程から黙って事の成り行きを見守っていたリーラへと向き直った。彼女の両手は、固く握り合わせられている。
「ゴメンね、リーラ。わたしも、自分の事を人間だと思っていたのだけど」
そう言って、少し苦しげに微笑んだファラシアを、リーラはそっと抱き寄せた。
「どんな姿になろうが、あんたはちっちゃな頃からあたしが面倒を見てきた、ファラシアだよ。前から凄い力は持ってたけど、どこか頼りなくて……。あたしは、勝手に、あんたの姉さんか母さんの気分でいたよ」
「うん……うん、わたしもそうだった」
図らずも、ホロリと涙が零れ、リーラの肩を湿らす。自分の肩も濡れていることには気付いていた。
少しふくよかなリーラの胸は、ふわふわで。
龍には母親などという存在はいない筈なのに、何故、こんなにも懐かしい気持ちに包まれるのだろう。
「これで最後じゃないのよ。また、きっと、会いに行くから。カヤにも」
「当たり前でしょ。待ってるわ」
スンと一度、小さく洟をすすって。身体を離した時には、もうお互いの頬は濡れていなかった。どちらからとも無く、笑顔になった。
そして、最後に。
「またな」
いつでも飄々とした態度を崩さない養い親は、ニヤッと笑って、素っ気ないほどにあっさりと。それは別れではなく、再会のための一言だった。
「はい」
ファラシアも、余計な言葉は続けなかった。クシャクシャと髪を掻き混ぜられて、くすぐったそうに首をすくめる。
「ではな、そろそろ我らは行くぞ」
色々と、口裏を合わせねばならんしな、と残して、カリエステは一瞬で発動させた転移の魔道で消えていった。
上司がいなくなり、クリーゲルはファラシアにヒラヒラと手を振ってよこす。
「俺はもう少し、お前達を見送ってやるよ。その後、リーラと一度サウラに戻るわ」
「わかりました。では、リーラも師匠も、お元気で」
明るい笑顔で、そう告げて、ファラシアは見えない糸を振り切るように、身を翻す。
いつぞやと同じように、背中に視線を、感じて。
あの時は、小さな手の温もりが無ければ足を踏み出すことができなかったけれど、今度は違う。その一歩の先には、再会への道があり、絶望へと向かうものではなかった。
左と右に、ノアとゼン。そして、姿は無いけれども、すぐ傍に、もう一人。
ファラシアのこれからは永い。これから、何度も、何人もの人たちに置いていかれるのだろう。けれど、決して、その人と出会った事を後悔することは無いはずだ。一人でも多くの人と巡り会い、その絆を大事にしたい。そして、いつの日か、再び人嫌いの少年に会えた時、やっぱり自分は人間が好きなのだと、胸を張って宣言するのだろう。
――どんなに、彼が呆れようとも。
「ホントにしょうがないな、ファーは」
そう言う時の少年の声も表情も容易に頭に思い浮かび、ファラシアはコッソリと笑みを浮かべる。
その時が、待ち遠しかった。




