帰還
この世の全てを滅び尽くさんばかりであった嵐が、はたりと止んだ。
根こそぎむしり取られた草木や、崩されて大きく形を変えた崖がなければ、嵐そのものがなかったのだと思い込むことができそうなほどの、凪だった。
そよとも風が吹かなくなったその空に。
その場のほとんど全ての人々――意識のないリーラと、彼女を繋ぎ止めることだけに意識を集中しているカリエステ以外は、皆、嵐の中心となっていた場所に出現したものに、目を奪われた。
「あいつ……」
一人口を開いたのはクリーゲルだが、その先が続かない。
それほどに、声を失うほどに、その存在は美しかった。
長大な姿態を緩やかにくねらせているその様は、まるで大気の中を泳いでいるかのようだ。現れた時は虹色を帯びていたが、徐々に紅みが失せ、白銀を塗した薄青になっていく。晴れ始めた暗雲の隙間から差し込む陽光を受けて、キラリキラリと鱗が瞬いた。
養い子の正体を、もちろん、クリーゲルは知っていた。今、空を舞うその存在――龍が身にまとっているのは、最初に彼女を見つけた時のもの、本来の彼女の色だった。
だが、あまりに圧倒的な存在感と魔力、そしてその美しさに、クリーゲルは目を奪われるばかりだ。それは彼の隣に立つノアとゼンも同様のようで、身じろぎもせずに空を見上げている。
ふと、龍が、何かを探すように頭を優雅に巡らせた。春の空を思わせる青い目が、クリーゲルたちを捉える。
「ファラ――」
目が合って、クリーゲルは思わずその名を口にしたが、呼び終える前に、その姿が掻き消えた。
そして、一瞬後。
青銀の髪、透き通るような白い肌――この世のものとは思えぬ麗姿。
それらを備えた女性が、彼らの前に佇んでいた。
年のころは、二十をいくつか超えたくらいか。たおやかで清麗艶美、それは確かに記憶に残る少女の面立ちだというのに、ヒト臭さが欠片もない。
「ファラシア、か?」
今度、その名を呼んだのはノアだ。彼女らしくないためらいがちな声音でのその問いかけに、女性は、ニコリと笑ってうなずく。
「ええ」
そうしながら、彼女は――ファラシアは、盛大に喉を鳴らしながら大きな頭をすり寄せてきたゼンの額を繊手で撫でる。嬉しそうに目を細めた彼の首をポンと叩いてから、彼女はふと顔を曇らせ、視線を地面へと下げた。
ファラシアの視線の向かうところでは、カリエステが地面に力なく横たわる女性に一心不乱に両手を翳し、今にも燃え尽きらんばかりの命の灯火を保とうとしていた。
カリエステの力は、かろうじてリーラの命をつないでいた。だが、彼女の傷はあまりに深く、彼が持てる魔力の全てを注いでも、癒すまでには至っていなかった。
恐らくカリエステは、周囲の惨状、そしてファラシアの登場に全く気付いていない。
それほど一心不乱に、リーラの傷を癒すこと、この世に彼女をつなぎとめておくことに、専念していたのだ。
しかし、それももう限界に来つつあることが、彼の横顔から見て取れた。
確かにカリエステは、人としては桁外れの魔力をその身に宿している。だが、いくら力を持っていようとも、所詮はヒトに過ぎない。己以外のヒト一人の命をあがなうことなど、到底無理な話だったのだ。
カリエステ自身の指先も冷たく凍え、頭も朦朧とし始める。
――もう、ここまでか……
カリエステの胸の内を諦めが過ぎった、その時。
ほとんど骸と言った方がいいような冷たさのリーラの身体に、不意に、もう一対の手が彼の横合いから伸びてきた。集中を妨げられ、カリエステの癒しの魔道が途切れる。だが、それを引き継ぐように、新たな手の主から、彼とは比較にならないほどの膨大な魔力がリーラへと注ぎ込まれていくのが判った。
カリエステは隣を見て、一瞬呆気に取られてから、眉間にしわを寄せる。
隣に座り込んだ、人には有り得ない色をした娘は、カリエステの記憶よりもいくつか年嵩だった。リーラを見つめる横顔は人間離れした美貌だが、確かに、そこにはかつての面影がある。
「ようやく、目覚めたのか……」
そう言ってから、すぐにリーラに意識を戻した。が、何か違和感があった。
カリエステはファラシアがリーラを癒す様を呼吸一つ分だけ見守った後、その違和感の理由に気付き、バッと顔を上げて慌ただしく周囲を見渡す。
「これは、何があったのだ!?」
体力が許せば、立ち上がっていただろう。だが、今のカリエステにはその余力がなく、地面にへたり込んだまま、慌ただしく左右に首を巡らせる。
そんな彼の狼狽をなだめたのは、クリーゲルだ。
「やっぱ、気付いてなかったんすね。もう、こいつ、あの後大荒れで」
驚愕するカリエステに、クリーゲルが親指でリーラの治療に専念するファラシアを指して、呆れたと言わんばかりの声で返した。
クリーゲルは事も無げに言ったが、カリエステはごくりと唾を呑み込んだ。そして、隣にあるたおやかな美女の姿を、頭の天辺からつま先までまじまじと見つめる。
けっして、ファラシアの力を侮っていたわけではない。
だが、正直、これほどのものだとは予想していなかったのだ。
この惨状を引き起こしたものは、カリエステの視線に気付いて首をかしげるようにして振り返る。彼と目が合うと、申し訳なさそうに気弱な笑みを浮かべた。
「すみません」
「いや……我らが驕っていたのだ」
白髭を揺らしてかぶりを振ったカリエステに、ファラシアの笑みが少し変わる。
赦しを得て安堵したように、彼女は少し背を正してリーラに注ぐ力を増した。
青みを帯びてかすかな光を放つそれを受けて、蒼白だったリーラの顔に血の気が戻ってくる。
かつて、瀕死のクリーゲルの傷を治した時とは、違っていた。
ヒトであろうとした、ヒトであることに固執していたファラシアは、もういない。己の存在を、力を受け入れ、それを揮うことにためらいはない。
リーラの容態が完全に落ち着くと、続いてファラシアはカリエステに手を伸ばした。その指先が触れるや否や、カリエステは、座位を取るのも難しいほどに憔悴しきっていた老体が見る見るうちに活力に満たされていくのを感じる。
「リーラを繋ぎ止めていてくださって、ありがとうございました」
ニッコリと微笑んだその様は、まさに辺り一面に花々が咲き誇らんばかりで。
カリエステは、その人非ざる美しさに心を奪われる。
彼とて、龍の存在を疑ったことは無い。だが、実際に姿を目にしたことがある者は、長い人間の歴史の中でもほんの一握りだ。ヒトとしてけっして短くはない生を歩んできた彼は、今初めてその至高の存在に直面し、文字で記されていることは龍というものの影を残したものに過ぎなかったのだということを思い知った。
あまりに圧倒的、あまりに、次元が違う存在。
ひとたび見てしまったら、その目を逸らすことなど到底できない。
ただただ呆けてファラシアを見つめていたカリエステを現実世界に引き戻したのは、下から届いた弱々しい女性の声だった。




