目覚め
彼女は肩を縮めて膝を抱え込み、ただひたすら、胎児のように丸くなっていた。
彼女の前に力なく横たわっているのは、血に塗れた大事なもの達。彼らは仄かな光を帯びていて、深い闇の中だというのに、はっきりと見て取れる。
最初に彼女のことを拾い上げてくれた養い親も、母親のように温かだったひとも、一番寂しい時に傍にいてくれた白銀の毛皮も、無愛想だけれど優しい女性も、ずっと一緒にいると言ってくれた少年も。
――全てが、鮮やかな紅に染まっていた。
わたしの所為だ。
わたしの弱さが、皆を殺した。
グルグルと、その言葉だけが彼女の中を回っている。
どこか、奥底の方で、それは違う、まだ間に合うのだ、と叫ぶ声も聞こえた気がしたけれど、彼女は、それを締め出した。
そんなことはないのだ、みんな、失われてしまったのだとつぶやいて。
廻り続ける螺旋のような自責の念。
それに浸っていれば、彼女は、嫌な現実を見ないで済んだ。
だが、しかし、固く閉ざしたはずの心の扉の隙間に微かに差し込んでくる光に、ふと、気付く。
「ファー、ファラシア。目を開けて」
その声は、彼女の表面をかすめて、消える。
――今の、誰だっけ……?
声にも、そして、その声が呼んだ名にも、聞き覚えがあるような気がした。
けれど、判然としない。
渦巻く絶望が、刻一刻と彼女を削っていく。わずか前には確かにあった自分の名前も、今は深い霧の向こうにぼんやりと浮かんでいるようだった。
そんな彼女を引きずり出そうとするように、声は何度も繰り返す。
「ファラシア、駄目だよ、ファラシア。思い出してよ。ファラシアにそんな姿は似合わないんだから」
――しつこい……誰の事を呼んでいるの?
わたしはそんな名前じゃない。わたしは――……誰?
自問して、怯んだ。
自分が誰か、判らない。
気付いた瞬間、グニャリと、何かが歪んだ気がした。全てが不確かで、自分の存在どころか、この空間そのものも、あやふやなものになった気がした。
――こわい。
彼女は身じろぎをした――つもりだった。けれど、それすら、確信が持てない。
今にも自身が消え失せてしまいそうな心持ちになった彼女の不安を、再び響いてきた声が、一蹴する。何の疑いもない、純然たる事実を告げる口調で、笑い飛ばす。
「君はファラシア・ファームだよ。君に、それ以外のどんな名前があるっていうの?」
呆れたような声は、高さと甘さが残る、まだ年若い少年のもの。
不意に、彼女は思い出す。
それは、ずっと傍に居てくれると言った、少年のものだ。
奥底から湧き上がってくる安堵。けれど、次の瞬間、それは鋭い針で突かれたようにしぼんでいく。
――ウソ。あの子は死んでしまったもの。
「ひどいな、ピンピンしてるよ。ほら、よく見てよ」
――いいえ、そんなはずない。だって、わたしが殺してしまったんだもの。
「違う、僕は死んでない。ファラシアは、誰のことも殺してなんかいないんだ。傷ひとつ付けてない」
――でも、わたしの前には、みんながいる。みんな、血に染まって……
応えながら、彼女は再び闇に呑み込まれていきそうになる。自分はもう独りきりだ。もう誰もいなくなってしまったのだと絶えず囁きかけてくる闇の中へと。
しかし。
「違う! そうじゃない!」
声は、落ちていく彼女をとどめようと必死に言い募る。その言葉の強さは、物理的に身体を掴まれたような錯覚さえ、彼女に覚えさせた。
「違う、それは間違ってる。僕はずっと傍に居てあげるって、言っただろう? 君がどんな事をしようと、どんな姿になろうと、僕はずっと君と居る。だから、お願いだから、僕を思い出して、僕の名前を呼んでよ!」
それまでとは打って変わって切実な響きを持った、まるで言葉と一緒に血を吐いているかのような少年の叫びは光の矢さながらに彼女に突き刺さり、その願いは、遠くない過去の約束を蘇らせる。
――ああ、そうだ……あの子は、カイルは、わたしの傍に居てくれると、言ってくれたのよ……
彼女は――ファラシアは、ゆっくりと顔を上げ、そして目を開ける。
しかし。
「カイル……カイル、あなたが見えない。ここは、暗いの……」
その名を囁いたとき、安堵の吐息が聞こえたような気がした。次いで、暗闇の中、何かが触れてくる。それは、とても温かかった。
「この闇は君が作っているんだ。ファラシアにしか晴らせない」
「わたしが……? でも、そんなの、どうやってやるのか全然判らないわ」
「大丈夫、僕が手伝ってあげるから。ほら、手を伸ばして……」
言われるがままに、ファラシアは声のする方へ存在しているのかどうかも判らない己の手を伸ばす。指先に温かいものが触れ、そして――次の瞬間、視界が拓けた。
と、ファラシアは、視界いっぱいに飛び込んできたものに、目をしばたたかせる。
「あな、た……カイル……?」
ずっと励まし続けてくれていたあの声も、そして今間近にある気配も、確かにあの少年のものだ。けれど、真っ先に目に飛び込んできた姿は、そうではなかった。
「僕以外の、誰だって?」
「でも、その姿……」
言葉を失い、呆然と彼を見詰める。
その視線を受け、どことなく楽しそうに、カイルは長く優美な尻尾を振って見せた。
ファラシアは、一度だけその種族の姿を目にした事がある。あの時は遥か遠くで、全身真紅だということぐらいしか判らなかった。今のカイルの鱗は褐色に白銀が入り混じっており、その身体を真紅の輝きが取り巻いている。
その姿は、とても、美しかった。
そして、今、目の前に在る存在も、息を奪われるほど、美しい。
「あなた、龍だったの……」
「うん」
カイルが得意げに、そして嬉しそうに、うなずく。
「僕も、この姿になれたのは初めてだけど。ファラシアの事を知ってるって火龍が力を分けてくれたんだ。元々僕は大気と大地の力を持ってるんだけど、運が悪くてね、相殺されてしまってたんだよ。でも、今は僕の事に驚いている場合じゃないと思うよ。ファラシアも自分を見てごらん」
驚き冷めやらぬまま、ファラシアは言われたとおりに自分の身体を見下ろした。そこにあるのは、すべての光を吸収してしまいそうな、真の闇の色。鋭い爪の先から波打つ尾の先まで、その色だけだった。
「わた、し……これ……」
試しに尻尾を目の前に持ってきてみる。これ以上はないというほど、意のままに、それはやってきた。しかし、そんなことをしてみなくても、頭ではなく感覚で、これは紛れもなく自分の身体であると理解する。
「わたし、人間じゃなかったんだ……」
ぼんやりと呟くファラシアを宥めるように、カイルはそっと鼻面を寄せる。
「実感できた? 驚いたと思うけど、感慨に耽っている暇はないんだよね。余裕ができたなら、周りを見てみてくれる?」
カイルに言われ、何気なく視線を巡らせたファラシアは、目に入ってきた惨状に息を呑む。
「何、これ……何でこんなことになってるの?」
吹きすさぶ暴風に、見渡す限りの木々が薙ぎ倒されているばかりか、大地からの軛から解き放たれた大木が、まるで枯葉のように辺りを飛び交っている。雨は海の水を全て吸い上げ、そのままぶち撒けたかのように地を叩き、雷はひっきりなしに薄闇を切り裂きあちらこちらを穿っていた。
魔道士たちは避難したのか、姿が見えない。暗い色彩の中、一つだけ、紅の半球体が光を放っている。高い位置から見下ろす形だからどれほどのものかは判然としないけれど、結構、大きそうだ。
あれは何だろう、と首を傾げかけたファラシアに、深刻さの欠片もない声が問いかけてくる。
「どうする? このままだと、被害甚大だよ? そのうちどこかの町まで拡がっちゃうよ、これ。なんか、前にも同じようなことがあって、その時は国が一つなくなっちゃったんだってさ」
「そんな! でも、どうすればいいの? わたしにできることなら、何だって……」
「うん。ファラシアがやってるんだから、ファラシアにしか止められないんだ」
言われた事に更なる衝撃を受け、人の姿であれば、ファラシアはあんぐりと口を開けているところだった。
「だけど、どうやってしているのかも解らないのに、止めることなんでできない!」
後半はほとんど叫んでいるといってもよかった。立て続けの事態に、頭の中が飽和状態寸前となったファラシアに、カイルが寄り添った。
「大丈夫。僕も一緒にやってあげるから。正直言って、僕はこの国なんかどうでもいいんだけど、ファラシアはイヤなんだろう? この国が消えちゃったら?」
「そんなの、イヤに決まってる!」
カイルの怖い台詞に猛然と答えたところで、ハッと、この事態に陥る直前の光景を思い出す。
「リーラ……リーラはどうしたの!?」
国を救うよりも、まず、彼女ではないか。真っ赤に染まったあの姿は、まだ脳裏に焼き付いている。
リーラを失う恐怖と絶望感に全身をのたうたせたファラシアに、カイルが肩をすくめるような気配が伝わってきた。
「生きてるよ。あっちの連中のうちの一番偉そうなのが治癒をかけているのが見えたから。ただ、確かに力はありそうだったけど、ヒトにあの傷が治せるかなぁ」
「そんなの、ダメ! カイル、わたし、これを止めたい……止めなきゃ!」
決意と共に、ファラシアの瞳に力が戻る。その漆黒の瞳を見つめ、カイルは満足そうに目を細めた。
「君が望むことを、強く思ってごらん? 僕らは、思いを形にできるんだ。完全なヒトに成れていたように、神にも等しい存在にも成れる。君なら、本当に心の底から望めば、なんだって叶えられるよ」
揺らぎのない、カイルの声、眼差し。
それに励まされるように、ファラシアの鱗と眼からは次第に闇の色が褪せていく。代わって彼女を染め上げていくのは、銀をまぶした薄青だ。鱗一枚一枚が光を帯びて、身じろぎをするたびにキラキラと輝きを散らす。瞳は鱗よりも青が濃く、よく見れば、銀色の星がちりばめられていた。
「その色の方が、ずっと似合ってる」
うっとりとカイルが囁き、ファラシアの目を覗き込んだ。
「いい、ファラシア? 忘れないでよ? 僕は、ずっと君と一緒に居るからね。どんな時だって、ずっと」
そう語りかけてくるカイルの全身を包んでいた深紅の輝きが、いつの間にか薄らいできている。それに伴って、ファラシアと同じくらいの大きさだった彼の身体が、ゆっくりと縮み始めた。
「カイル、あなた、だいじょうぶ?」
不安に駆られたファラシアの問いを無視して、カイルは噛んで含めるような口調で続ける。
「それにね、君が大事に想う人たちのことを、信じて。ファーが何ものであっても――ヒトであろうとなかろうと、みんな君のことが大好きだよ。みんな、君のことを待ってるんだ。たとえ目には見えなくても、想いは――」
不意に、声が途切れた。次の瞬間、龍としてのカイルの姿が掻き消え、そこに彼と同じ、褐色に銀粉をちりばめたような色をした珠が残される。触れることを促すように、それはゆっくりと瞬いた。
「カイル……?」
名を呼び、手を伸ばす。
触れた指先に伝わってくるのは、確かに、彼の温もりで。
ファラシアは、両の手のひらでそっとそれを包みこみ、胸元に引き寄せる。
そして――




