化け猫
魔物には、二種類ある。
一つは、この世界のヒトや動物とは完全に一線を画した、そもそも生物とは完全に異なる存在。血や肉を持たず、言うなれば、魔力が凝って形を成したようなモノだ。
もう一つは、生物が魔力を帯びたもの。ヒトの中に魔道士になる素質を持つ者が生まれるように、自然界の他の生き物の中にも、魔力を持つものが生まれてくることがある。魔力を炎や雷に変える能力を有し、魔力を持たない同種よりもはるかに強靭な肉体を備えるそれらは、『変化』と呼ばれた。
両者は全く別のもの。
しかし、成り立ちが異なろうともいずれもヒトに仇為す存在であることに違いはない。『協会』はどちらも『魔物』と認識し、駆除する対象としている。
今、ファラシアの目の前にそびえ立つ相手は、山猫の変化と思われた。体高は彼女の頭を軽く超え、まとう毛皮は、自然界ではあまり見かけない銀色の斑が浮く純白だ。刃のように鋭く長いその爪と牙は、周囲に散らばる魔道士たちの残骸が流した血で濡れそぼっている。
山猫は、突如現れたファラシアにほんの一瞬頭を上げたけれども、すぐにまた、地に顎がつかんばかりの攻撃姿勢を取った。すぐにとびかかってこないのは、これまでの魔道士たちと彼女との力の差を感じ取ったが故か。
「あなたに怨みは無いけれど、これがわたしの義務だから、ね」
そう言いながら、ファラシアは心の中に氷の刃を思い浮かべる。きっかり両手の指の数と同じだけ、それらは瞬時に空中に現れた。
「貫け!」
鋭い気合を発し、彼女は刃を放つ。
並みの相手であれば、数本はまず間違いなく命中する筈だった。しかし、化け猫は身軽く宙に翻り、氷刃はむなしくその爪の先をかすめていく。
「さすが、猫。凄い跳躍力ね」
跳んだ勢いのまま三階建ての家屋の屋根の上に下り立った山猫に感嘆の声を上げ、ファラシアはそれが吐き出した炎を瞬きするよりも早く築いた氷の壁で防ぐ。
その炎の猛威に、壁は水蒸気すら上げずに気化していく。融けるそばから氷を作り出すファラシアの力の方が勝っているからこそ防げているその炎は、確かに他の魔道士では耐え切れないものであろう。
魔道士は、己の頭の中に想起したものを魔力で具現化する。けれど、ファラシアのように、思うと同時に力を行使できる者は『協会』の魔道士の中にはいない。そのために、『呪文』という段階を要する者がほとんどだ。
(でも、これが相手では、そんなことをしていては間に合わない)
ファラシアには、力を具現しようと集中している間に次々と殺されていく魔道士たちの姿が目に見えるようだった。
「水弾!」
息切れで途切れた炎の隙を縫って、ファラシアは水の弾を、先ほどの刃よりも更に数を増して撃ち出す。一度ではなく、次々と。
あの炎を前に生き延びたものは今までいなかったのだろう。明らかに油断していた化け猫は反応が一拍遅れ、その右前足を、高い圧力が掛けられた水の弾の一つが貫いた。
怒りと苦痛に満ちた怒声が、夜の闇を引き裂く。
もんどりうって地面に落ちた化け猫を、ファラシアは間髪入れずに氷の鎖で幾重にも縛めた。だが、まさに手負いの獣となった魔物は、ファラシアの魔力が込められたその鎖を、肉が裂けるのにも構わず渾身の力で引き千切る。
ブルリと身を震わせて足を踏ん張った化け猫は、爛々と光る金色の目でファラシアを睨み据えてきた。
「あらら……」
思わず呟いたファラシアは、チラリと夜空を見上げる。そこには彼女の力に引かれて集ってきた黒雲が淀み始めていた。
満身創痍であるにも拘らず、未だ戦う気に満ち満ちている化け猫に視線を戻し、ファラシアは逡巡する。これからやろうとしていることは、更に『協会』の不安を煽ることになるかもしれない。しかし、今回の相手はなまじでは捕らえることができそうも無かった。
右前足を引き摺って再び攻撃態勢を取る化け猫に、ファラシアは意を決する。躊躇していては、こちらが危なくなりそうだった。
ファラシアは背筋を伸ばし、片手を天に向かって差し伸べる。
思うのは、分厚い暗雲――稲光。
天の黒雲が一層濃くなり、渦を巻き始めた。
ゴロゴロと空が唸り、チカリ、チカリと雲の隙間に光が走る。
化け猫のその後ろ足に溜められた力が弾け、白い身体が宙を舞ったのとほぼ同時に、ファラシアは叫ぶ。
「来たれ、雷光!」
同時に、その手を振り下ろす。
刹那、黒雲から化け猫へ向けて、轟音と共に一筋の閃光が走った。
鼓膜を破らんばかりの雷鳴と強烈な白光が辺りを支配したのは、ほんのわずかな間だけである。
目を眩ませる光が消え、代わりに薄っすらと煙が漂う中、ファラシアは目を凝らして化け猫を探す。それは煉瓦の敷き詰められた地面に長々と横たわっていた。
警戒しつつ近寄ったファラシアには、化け猫の腹がゆっくりと上下しているのが見て取れた。
「口輪になるものと、鎖を持ってきてください。あと、檻と、封じの魔道が使える人も必要です」
振り返ることなく、ファラシアは背後に隠れていた魔道士たちにそう告げた。
「何故、殺さないんだ? こいつはもう何人も食い殺しているんだぞ!」
ファラシアの指示を聞いて、恐る恐る歩み出てきた魔道士たちは眉を逆立てた。彼女はそれに答えず、続ける。
「早くしないとまた息を吹き返しますよ。服従の印を刻んで山奥にでも放せばいいでしょう。何も殺す必要はありません」
「しかし……」
「早くしてください」
ファラシアの声は穏やかではあったけれど、あれほどの力を見せ付けられた後だ。魔道士たちは口を閉じ、三名が走っていった。
「君は、こいつを庇うのだな……」
残った者のうちの一人がそう呟いたのが耳に届いても、ファラシアは振り向くこともしなかった。
そういうことではない。ただ、恨みを晴らすためだけにこの魔物を殺すことに、意味を見いだせないだけだ。
それを説いてみても無駄だろうことは、ファラシアにも解っている。
だから彼女は黙ったまま化け猫の傍らに腰を落とし、そっと毛皮に手を伸ばす。
(なんで、こんなところまで出てきてしまったの)
ファラシアの心の中での呟きが届いたかのように、化け猫の目元がピクついた。
「駄目よ、おまえを殺したくはないの。ジッとしてなさい」
ファラシアは頭を低くし、薄っすらと開いた金色の目に向けて、他の魔道士たちには聞こえないように囁いた。と、まるでその言葉を理解したかのように化け猫は瞬きを一度して、再び目を閉じる。
「いい子ね、きっと助けてあげる」
さながら無垢な仔猫を相手にしているかのように化け猫の毛皮を撫でているファラシアを、魔道士たちは気味悪そうに遠巻きにしていた。
彼らにとってはただ憎いだけの仲間の仇であるかもしれないけれど、ファラシアはこの魔物を憐れんでもいたのだ。抵抗する術を持たない相手を捕食することは、生物として当然のこと。たまたま迷い出て来た所に格好の餌が溢れんばかりにいれば、手を出さずにはいられないだろう。
この化け猫の唯一の過ちは、場違いな所に出てきてしまったことだ。野山の中では、強いものが弱いものを捕食するのは自然の摂理だ。けれど、ヒトの中では、それは受け入れられない。常に自らこそが頂点に立つものであり、それを脅かすものは徹底的に排除される――その貪欲さこそが、ヒトのヒトたる所以なのだろう。
やがて運ばれてきた鎖で縛られ、口輪をはめられ、檻に入れられた魔物を見送りながら、ファラシアは自問する。
――もしかしたら、あの化け猫と自分を重ねてはいなかったか、と。
*
ファラシアの電撃が化け猫を貫いた、その時。
長い栗色の髪を無造作に束ねた青年は、遥かな東の空を見遣った。
「あの莫迦。やっちまったのか」
舌打ちを一つして、そう呟く。
次の瞬間、その姿は掻き消えていた。




