呼ぶ声
夕食――岩トカゲなるものを使った肉料理の数々――はとても美味しいものだったし、今横になっている、いつ振りか覚えていないほど久しぶりに味わう寝台の硬さも丁度いい。
明日の朝はそれなりに早いし、出発したら一日中歩き通しになる。
当然、今晩はたっぷりと睡眠をとっておくべきだし、そうできるはず。
けれども、ファラシアは今、暗闇の中で目を見開き、他の二人の寝息に耳を澄ましている。
部屋には寝台が二つしかないので、小柄なカイルとファラシアが一緒に一つの寝台を使っている──いや、足元にはゼンもいるので、二人と一匹と言うべきか。割と広めな寝床の中で、カイルはピタリとファラシアに身を寄せていた。その温もりが心地良くて、彼女は何度か意識が飛びそうになったけれども、そのたびにそっと太腿をつねって気を引き締めた。
おそらく、そろそろ月が夜空の天辺を越えた頃。
少し前まで窓から入り込んでいた外の喧騒も、めっきり減っている。
(もういいかな)
ファラシアはできるだけ毛布を動かさないようにと細心の注意を払いつつ、身体を横に滑らせる。抜け出すことを前提に、カイルには壁側に寝てもらっていた。
そうっとそうっと、脚を下ろして。
足の裏が、ひんやりとした床に触れる。
と、足元の方で死んだようになって眠っていたゼンが、首だけもたげて胡乱そうにファラシアに顔を向けてきた。何をしているんだと言わんばかりの瞬きをして一声上げようとした彼に、ファラシアは人差し指を唇に当てて、鳴かないようにと合図をする。それが聞き届けられたらしく、ゼンの口は閉じられ、金色の目が暗闇の中できらりと光った。
『何でもないよ。寝ていて』
声は出さずに口だけでそう伝えたけれど、光る眼差しは一瞬たりとも彼女から離れない。
その視線に追われつつ、衣擦れの音にビクビクしながら、ファラシアは頭からスッポリと服を被った。
足音を忍ばせ、扉に向かい、開ける。彼女自身が通れるだけの隙間を、やはり音を立てないように摺り抜けた。扉の取っ手を両手で握り、じれったくなるほどゆっくりと閉める。
(イケそう)
ファラシアは半ば安堵の息をつく。
が。
扉が今にも閉ざされようとしたその時、珠が転がるようにするりとゼンが出てきた。
彼はファラシアの脚に胴をこすりつけると、チョンと座り込んで彼女を見上げてくる。
「一緒に行ってくれるの?」
返ってきたのは、大きな瞬きが一つ。
暗い中でも微かに輝いて見える白銀の身体は、まるで護符のようだ。
束の間思案し、ファラシアは彼の前にしゃがみ込む。
「わたしを、何かが呼んでいるの」
ゼンの首が、カクンと右に傾いた。ヒトであれば眉根を寄せていそうな風情に、彼女は小さく笑ってかぶりを振る。
「ううん、大丈夫。悪い感じじゃない。そう、どこか悲しい……」
かすれた声でつぶやきながら、その艶やかな毛皮をゆっくりと撫でた。
ファラシアの手に心地良さそうに喉を鳴らすゼンの頭が、今度は、左に傾いだ。
「あの二人に黙って行くのは良くないのは、判ってるよ。でも、『あれ』が呼んでいるのは、わたしだから」
だからね、と、ファラシアはゆっくりと身を起こす。ゼンの眼はそのまま彼女を追いかけてきて、最後に彼も立ち上がった。
「あなたもここで待っていて。一緒に連れてはいけない……わたしは独りで行くべきなのよ」
そうして、ファラシアはニコリと微笑む。その笑顔は晴れやかで、ゼンを安心させようとしているのと同時に、彼女の意志の固さも表わしていた。
「じゃあ、おとなしく待っていてね」
最後にもう一度身を屈めてゼンの喉の下を掻いてやり、ファラシアは背筋を伸ばす。とっさに一緒に歩き出そうとしたゼンを片手で制し、目顔でここに留まることを命じた。
いかにも不承不承という素振りで再び腰を落としたゼンに静かな笑みを向けて、ファラシアは二、三歩後ずさる。充分に距離を取ったところで、クルリと身を翻した。
少し足早に去っていくファラシアを見送ったゼンは、思案するように小首を傾げる。ファラシアの姿が見えなくなったところで彼は立ち上がり、一度カイルたちが眠る部屋を振り返った。扉を見詰めてピクリと耳を動かしてから、ファラシアを追って走り出す。
一方、皆を置き去りにしたファラシアは、新月の闇の中、慣れない街を迷うことなく歩を進めていた。祠に近付くほどに彼女への呼び声は強くなり、今では実際に音として届けられているようにすら感じられる。
道筋などほとんど考えず、グイグイと心を引っ張る力に任せて歩いていたファラシアの目の前が不意に開けた。池から跳ねた小さな魚の向こうに、微かに光を帯びた祠がひっそりと佇んでいる。
豊かに水を湛えた池を回り込んで、ファラシアはゆっくりと祠に近付いた。
昼とは、明らかに様相が違う。
足元に影ができるほどの月明かりを反射してとか、昼間は明るいから気付かなかったとかではなく。その祠は、ほのかに、けれど確かに、輝きを放っていた。
ファラシアは手を上げ、掌二つ分ほどの扉へと近付ける。昼間、カイルたちといた時のように途中で止まることなく、指先が触れる。刹那、それは音も無く開き、中に隠されていたものが姿を見せた。
「これ……転移の術が封じ込められている……?」
祠の中に鎮座した、両手でスッポリと包めるほどの小さな珠は、ファラシアを誘うように微かに明滅している。その薄紅の輝きに魅入られたように、彼女は更に手を伸ばす。
それはおそらく、触れた者が持つ魔力を原動力に作動する魔道具だ。魔力さえ内包していれば、転移の技を持たない者でも術を発動させることができる。
ファラシアはわずかに逡巡し、そして、心を決める。
胸元で握り締めていた手を解き、伸ばし、珠に触れる。
その瞬間、視界が暗転し、再び光を取り戻した時、ファラシアは青く見えるほど真っ白な石で造られた広い部屋の中に立っていた。照明も、明り取りの為の窓も無いのに周囲の様子をはっきりと見て取れるのは、壁自体が淡い光を放っているからだろう。
ファラシアはグルリと室内を見回し、一点で止めた。
それはとても大きかった。
大きいのに、ひっそりと、そこに在った。
「わたしを呼んだのは、あなたね」
石室の中に響く声でそう言って、ファラシアはそこにうずくまるモノに向けてニコリと笑う。
肯定の意を表わすように、それがゾロリと身じろぎをした。




